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2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan
金子文子と朝鮮
『彷書月刊』2006年2月号執筆改定原稿

金子文子と朝鮮 『彷書月刊』2006年2月号執筆改定原稿_d0237430_752133.jpg


金子文子は予審法廷で発言している。「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」一九二四年一月二三日第四回訊問調書。


金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。

文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一夫編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。

大審院判決の理由においてすら「......私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め......」と断定され、朝鮮で発行されていた日本語新聞『京城日報』(一九二六年三月六日付)は〈文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して、芙蓉面の住民騒ぐ〉と報道。「同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである…」。金子文子が「恐ろしい犯罪」に至る原因を文子が預けられた岩下家(父方の親戚)による虐待が原因だという住民の主張を報じている。

「恐ろしい犯罪」とは大逆罪のことである。大審院での死刑判決を前にして、朝鮮での侵略を支える日本語新聞ですら「恐ろしい犯罪」と表現しつつも原因を養子先の虐待に求めた。しかし、これら侵略国家を代表する大審院、あるいは侵略の末端にいる住民たちの判断を越える意思を文子は獲得していた。


金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。

「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。……中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。……南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」


一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。


この少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの交流を経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。朴烈と出会い、彼に力強さを見出す。

「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

そして二二年の春、世田谷の池尻で同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を朴烈と共に発行、執筆もする。一一月にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆、第二号に「所謂不逞鮮人とは」朴文子。『現社会』と改題し「在日鮮人諸君に」金子ふみ「朝鮮○○記念日」金子ふみ。二三年三月、二人は代々木富ヶ谷に移り不逞社を組織し借家が事務所を兼ねる。 五月の不逞社第一回例会は朝鮮の運動がテーマ、六月の例会は中西伊之助出獄歓迎会となる。八月には黒友会主催で「朝鮮問題演説会」が神田基督教青年会館にて開かれる。文子の視点は植民地下、虐げられし朝鮮の人々に向いていた。

飯田徳太郎というアナキスト詩人が大審院判決後、金子文子に面会に訪れた人たちのことを語っている。「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七、八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。……」「文子に会いに上京した母親 」(『婦人公論』二六年五月掲載)。ここには金子文子、朴烈の裁判を支えていた人々が主として朝鮮の同志であったことが語られている。

飯田が一時同居していた平林たい子も文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。……〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。……」(「金が欲しさに」初出二八年『婦人公論』一二月、『平林たい子著作集』収載)。

リャクとは会社、商店回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。朴烈との共同した日常の活動が表現されている。

植民地下の朝鮮、そして今の韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬され東京に戻る。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、朝鮮に戻った兄に警察から引き渡すという遺骨を徹底して管理した。当時の新聞も報じている。


「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある……当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

このような官憲の監視下、墳墓として盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなく存在は知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「……我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。……小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。そして二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。そして〇三年一一月、移葬され、記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。

〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時・国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員が番組内で解説。

〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」シンポジウムが明治大学主催で開かれパネラーの一人としてイ・ムンチャンさんがソウルから招請された。朴烈・金子文子との関係、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りした金子こま江さん(〇五年六月病死、享年八六歳)宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ初めて地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。 〇五年、山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座「日本とアジアの架け橋になった人々」が開講。一〇月八日、第四回のテーマは「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」、再びパネラーとして参加した。
ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。
# by pugan | 2011-11-05 07:53
金子文子の生き方・ウェブサイト版2003年7月

「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。

人間は人間として平等であらねば為りませぬ。

其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。

地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば

総べての人間は完全に平等であり、

従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って

人間としての生活の権利を完全に

且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある

又為されるであろう処の行動の総べては、

完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

……此の心持つまり皇室階級とし聞けば、

其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に

連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて

居るのでありましょう。

語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の

民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。  

 

 元々国家とか社会とか民族とか

又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。

処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが

為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に

現在行われて居る処の神授君権説であります。

苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら

此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、

或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、

若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、

従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を

愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した

伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を

神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に

一般民衆を欺瞞して居る。  

 
金子文子、天皇国家批判 2003年7月3日ウェブサイトにアップ_d0237430_532471.jpg


 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る

憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、

若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が

此の神様の保護の下歴代の神様たる

天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、

戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、

日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、

神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに

何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。  

 

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、

即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、

之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに

明白に証明して居るではありませぬか。

全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の

天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、

其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に

泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに

死んで行くではありませぬか。

此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、

所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を

証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。

御役人さん左様でしょう。……

 

 寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を

与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の

恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。  ……

 

 学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て

<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。

等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を

擁護するものであるか否かの一事を標準として

総ての是非を振り分けられて居る。

そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。

法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、

権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官は

サーベルを下げて人間の行動を威嚇し、

権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。

又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての

行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し

人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。 ……

 

 地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の

代表者は天皇であり皇太子であります。

私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから

出発して居るのであります。

地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の

代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、

彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして

侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって

搾取されて居る。

其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として

 

彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の

実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、

又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に

財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る

一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を

現に搾取されつつある一般民衆に明にし、

又それに依って天皇に神格を附与して居る

諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な

迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る

日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに

仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、

故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の

国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、

実は彼等が私利を貪る為めの方便として

美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに

他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に

過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は

即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、

そうして従来日本の人間の生きた信条として

居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、

現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への

隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる

幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に

自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、

従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に

為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に

 

私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

 

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって

地上に生を断とうと考えて居りました。

私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として

只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、

即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し

光明を持たせたものに過ぎないのであって、

取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、

私自身を対象とするそうした考えが

即ち今度の計画の根底であります。

私自身を対象とする考え、

私の所謂虚無思想に就いては

既に前回詳しく申し上げて置きました。

私の計画を突き詰めて考えて観れば、

消極的には私一己の生の否認であり、

積極的には地上に於ける権力の倒壊が

窮極の目的でありました。

私が坊ちゃんを狙ったのは

そうした理由であります。……

 

私は今後も為たい事をして行きます。

其の為たい事が何であるかを

今から予定する事は出来ませぬが、

兎に角私の生命が地上に在らん限りは

<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から

<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」  

第十二回予審訊問調書 
# by pugan | 2011-06-21 05:32

金子文子クロニクル

金子文子 クロニクル  2004年12月  

改定事項は「」内は『彷書月刊』金子文子特集号年譜、『金子文子 わたしはわたし自身を生きる 手記・歌・調書・年譜』鈴木裕子編のための年譜草稿

ウェブサイト版「金子文子の生き方」2003年から06年にアップ

1900 or 1901 文子の父、文一は鉱山師と知り合い諏訪村の円光寺に1年半ほど滞在、タングステン鉱の試掘に従事、文子の母きくの(24歳)と出会う。円光寺は金子家のすぐ北側
「佐伯文一は鉱山の仕事で滞在していた山梨県諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。金子家は諏訪村の農家。」

1902年か03年頃、きくのは文一と横浜に出る

1903年1月25日 金子文子生まれる (出生は届けられていない。両親が別個に聴取された1925年8月の大逆罪、爆取罰則の予審証人調べで卯年、1月25日と述べている。なお1908年に母方の祖父の五女として戸籍に編入されているが生年は1902年とされている。両親以外の身内が記憶違いで届けたのであろうか)

 年は特定できないが、一家は磯子の海岸に移る。さらに横浜の街はずれに移る、田圃に囲まれていた、その冬に弟が生まれたとの記述が獄中手記にある、

「一九〇三年一月二五日 横浜で暮らす二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。(両親も結婚届けは出していない)。文一ときくのは一九二五年、立松判事から証人訊問を別々に聴取され記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。(文子自身は後年まで一九〇四年生まれと思い込んでいた。一九一二年、祖父母の戸籍に入れるために身内が届け出た生年は一九〇二年)。文一は土方部屋事務や寿警察署の巡査に従事していた。」

1908、3、8 弟賢俊が生まれる

      
「一九〇七年頃 四歳の頃(手記)。横浜の寿町に住む。文一は若い女を家につれ込んだり廓に通う。文一の入院の間、文子はきくのの実家で半年間育てられ、この時期は幸福であったと回想。一家は磯子海岸から横浜の街はずれに移る。弟賢俊が生れる。」

1909年頃 叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れ父が商売で借りた氷屋で同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼み込み地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と駆落ちする。

「一九〇八年から〇九年秋頃 文子の叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れる。一家は横浜の久保山に移る。文一は氷屋の商売のため近くの住吉町に借りた店舗でたかのと同居を始め久保山の家に戻らなくなる。」

                 
1910年秋 文一が家を出て、母は小林ながよしと同棲後、小林の故郷山梨県丹波山村に移る、文子は一里離れた鴨沢小学校に通う


「一九一〇年頃 学齢に達しても無籍なので学校に行けず夏に「貧民街」の棟割長屋の「学校」に通い始める。短期で通えなくなる。秋に文一はたかのと示し合せきくのと文子たちから「逃げる」。きくのは鍛冶職工の中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされるという虐待を受ける。弟は文一に引取られる。きくのが地域の小学校に頼み文子は無籍のまま通学できるようになる。中村が仕事を解雇されたのを機にきくのは別れる。きくのは郊外の製糸場や紡績工場に職を見つけ、じきに七、八つの年下の男と同棲を始める。その男小林は仕事をせず寝て遊んで暮らし、きくのも仕事を離れてしまう。」

1911、3 小学校終業式の数日後、きくのの実弟共冶がきくのと文子を迎えにくる、諏訪村(現山梨市牧丘町)に暮らす
「一九一一年頃 文子はきくのにより「芸妓や娼妓の世話をする人身売買業ともいうべき口入屋」(手記)に連れて行かれるが母が思いなおす。場末の木賃宿に移る。八歳(手記)の秋になり文子はきくのと共に小林の郷里である山梨県北都留郡の村の小袖集落に移る。文子は一里ほど離れた鴨沢の町の小学校尋常科に通う。」

「一九一二年頃 早春、妹の春子が生れる。きくのは終業式までに教員に何も送らなかったので文子は免状がもらえなかった。諏訪村(現山梨県山梨市牧丘町)の実家から叔父(母の弟)がきくのと文子を迎えにくる。春子は小林の家に残す。きくのは製糸場に稼ぎに出るがしばらくして塩山駅近くの雑貨店を営む家の後妻に入る。文子は諏訪村で祖父母、叔父一家と暮らす。」

1912、秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江にて同居している娘夫婦の養女としてもらい受けに来る、祖父金子富太郎の五女として入籍、ムツと朝鮮に向かう

「一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。佐伯ムツが無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと主張、文子は母方の祖父母の五女として入籍させられる。(戸籍の届けは一〇月)その際、出生年は身内の記憶違いなのか一九〇二年生まれと届けられる。文子は村の小学校に通うが児童数は三〇人足らずで三年の組がなく四年に編入。修業証には岩下ふみ子と記される。」

「一九一三年頃 祖母から絵具の購入を拒否されたうえに「無籍者だった」と告げられ、精神的な虐待が始まる。五年時の通知簿は金子ふみ子に戻されていた。学校は公立になり高等科ができ進む。後に文子が獄中から手紙を寄せる服部先生が新任の教師としてくる。」


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駅前の案内図
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駅前からの景観、学校の裏山が望める

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現在の芙江の町(中心地は線路の南側)鉄道の北側、当時は日本人集落
2007年12月二度目の訪問


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家の間を縫う道筋は変化が無い

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家の門がまえ


1915年頃 文子、女中扱いをされ始める。  
「一九一五年頃 岩下一家から女中扱いをされ始め、祖母の手伝いの際に鍋を壊して弁償させられる。

一九一六年頃 正月、祖母から些細なことで体罰を受け氷点下の戸外に朝から夕方まで追いやられる。七月の始めに近所の日本人の「貧乏な家」の女の子と学校から一緒に帰っただけで籾倉に押込まれ休学させられる。服部先生は味方にはならなかった。九月の新学期から再び通う。」
  
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芙江の村を流れる錦江と文子が眺めた山     

1917年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を出る。卒業後の夏、岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
「栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を体験。夏に家から追い出されたとき近所の朝鮮のおかみさんから親切にされ、朝鮮に住んだ七ヵ年を通じ初めて人間の愛というものに感動する。翌日も岩下一家から許しが出ず文子は行き場がなく自殺を試みる。」


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芙江 文子が生きる希望を懐いた栗の林がある学校の裏山 2008年7月30日 三度目の訪問

「一九一八年頃 一四歳の春、高等小学校を卒業するも岩下家は養女にする際の約束である、女子大学への進学への前提となる女学校に進ませず、夏には岩下家の物置小屋の土間に住まわす。」

「一九一九年四月一二日 山梨に還されることになり朝鮮を去る。佐伯ムツが同行する。二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母の実家に着く。文子の満年齢は一六歳になっていた。」

1919、4、12 文子16歳で朝鮮を去る、14日塩山駅に着く、翌日諏訪村の母の実家に戻る。

1919年夏 父が叔母たかのと暮らす浜松に移るも東京での勉学希望を拒否され父の生活面での圧制がいやになる。        

1920年4月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚窪田亀太郎の家でひと月前後暮らす。降旗新聞捌売り店に住込み上野で新聞の捌売りを始める。女子医専入学を目標とし午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

1920年夏 上野の新聞捌売りの場で演説に来ていたアナキストのグループから冊子を購入する。湯島に間借り露天商となる。

1920、8 浅草の砂糖屋の女中になり大晦日にやめる

1921 正月 社会主義者の印刷屋、堀清俊方に住みこむ、2月に出る、窪田の家に戻る

1921、11 窪田の家を出る、岩崎おでん屋の女給になる。(『手記』)あるいは同年半ばから(岩崎第一回証人訊問調書)、「岩崎おでん屋」は社会主義者が集まる日比谷の小料理屋。文子はそこに住込む。昼は働き、夜学に通い唯一の女性の友人であり同志となる新山初代を知る。新山からスティルナー、アルツィバーセフ、ニイチェを教えられアナキズム、ニヒリズムに関心が傾く。               

1921年2月頃 朴烈の力強い詩を知り、強く感動を受け朴烈と会うことを願望する。             

1922年3月5日か6日 朴烈が「岩崎おでん屋」を訪ねてくる。   

1922、4月か5月 金子文子、朴烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方2階 現在地世田谷区池尻2-31-15から17、

1922、7、10 『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922、6、5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」
1922、8、10 『黒濤』第2号「此の態を見て呉れ」烈生 「思ったこと2つ3つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922、11 黒濤会分裂

1922、11 黒友会を組織

1922、11、7頃  『太い鮮人』第1号 枠外に「フテイ鮮人」と記載「×××××取締法案」朴烈 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922、12、19 頃 『太い鮮人』第2号
「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈 「所謂不逞鮮人とは」朴文子「学者の戯言」烈生 「破れ障子から」文子
去4日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに15日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた「朝鮮の詐欺共産党」烈生 「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923、3  黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923、3、15 『現社会』第3号 世田谷池尻412「××」烈生  註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」
「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
1923、3   金子文子と朴烈、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。現渋谷区富ヶ谷1 NTT裏辺り 

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2011年6月21日 韓国テレビ局ドキュメント番組制作チームを案内


参考リンク 2010年4月29日『韓国日報』記者を案内

1923、4 不逞社を組織

1923、4 朴烈、東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923、5、1 金子文子はメーデーに参加

1923、5、21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町18、現文京区向丘2丁目、

1923、5、27  不逞社第1回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923、6、10  不逞社第2回例会、望月桂を招く

1923、6、17  不逞社第3回例会、加藤一夫を招く

1923、6、28頃 不逞社第4回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923、6、30  『現社会』第4号 代々木富ヶ谷
「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈 「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈
「スッパ抜キ」バクレツ 「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文、実は同志10名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された…………メーデーの日、私は他四、五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 府下代々木富ヶ谷1474 

現社会社 省線原宿、市電渋谷下車「名教中学」下
1923、7、15  不逞社第5回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923、8、3  黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923、8、10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923、8、11  不逞社第6回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923、8、29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923、9、1  朴烈、午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923、9、2 朴烈、四谷の布施弁護士を訪ねる
# by pugan | 2011-06-20 05:45

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1923、9、3 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923、9  不逞社メンバー検挙され始める

1923、10、20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923、10、20 『大阪朝日』記事〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉

1923、10、25 金子第1回訊問調書

1923、10、27 新山初代供述を始める

1923、11、27 新山初代、危篤状態で獄外に出されるも死去、谷中法蔵院に墓碑

1924、1、17 金子文子第2回訊問調書

1924、1、22 金子文子第3回訊問調書

1924、1、23 金子文子第4回訊問調書

1923、1、24 金子文子第5回訊問調書

1924、1、25  金子文子、第6回予審にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924、1、25 金子文子第7回訊問調書

1924、1、29 金子文子第8回訊問調書

1924、1、30  朴烈第3回予審訊問にて金子文子の供述を認める。「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924、2、15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924、3、19 金子文子第9回訊問調書

1924、3、31 金子文子10回訊問調書

1924、4、10 金子、第11回訊問調書

1924、5、14 金子、第12回訊問調書

1924、5、21 金子第13回訊問調書、市ヶ谷刑務所

1924、7、1 『東亜日報』記事「韓けん相は6、24に保釈出獄」「李小岩は1924、6、30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1925、5、4 金子、第15回予審訊問

1925、5、5 金子、第16回訊問調書

1925、5、9 金子、第17回訊問調書、

1925、5、9 金子、第18回訊問調書、

1925、5、21 金子、第19回訊問調書

1925、5、30 金子、第20回訊問調書

1925、6、6 金子、第23回訊問調書、

1925、7、7  予審終結決定

1925、7、17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925、7、18 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925、7、18 金子文子、朴烈第1回予審訊問

1925、8、2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925、8、22 朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925、8、29 金子文子第2回訊問調書

1925、9、2 金子文子第3回訊問調書

1925、9、20  朴烈テキスト〈刑務所消息 不逞の烙印〉『自我人』第2号掲載

1925、9、21 金子文子、第4回訊問調書、東京地方裁判所にて

1925、9、22 金子文子第5回訊問調書、立松懐清

1925、9、30 公判開始決定意見書

1925、10、12 検事総長小山、大審院第2特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925、10、28 大審院公判開始を決定

1925、11、11 接見禁止を解く

1925、11、12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925、11、14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925、11、17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925、11、20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925、11、21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925、11、25 布施弁護士、結婚届け三通差入署名捺印を求める

1925、11、25 朴烈、金子文子の記事解禁

1925、11、25 『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉写真〈大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟〉


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1925、11、25 『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画〉〈近く刑務所で正式の結婚〉〈自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈〉

『京城日報』1925.11.25
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『日出新聞』1925.11.25
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1925、11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925、12、3朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925、12、6 『東亜日報』記事〈正式結婚、手続き〉

1925、12、7 『東亜日報』記事〈結婚に関して〉

1925、12、11 『朝鮮日報』記事〈獄中結婚は風説〉

1925、12、14 『東亜日報』記事〈書面上の結婚だけだろう〉

1926、1  「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926、1、19 『朝鮮日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、1、20 『東亜日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、2、26  第1回公判、人定質問

1926、2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926、2、26  第一回公判、文子はその夜手記「二十六日夜半」執筆
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1926、2、27  第2回公判、金子文子手記朗読か、検事論告死刑求刑

1926、2、28  第3回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926、3、1  第4回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 

■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。

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1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決

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1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926、7、23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。


1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文

1926.7.30  『朝日新聞』「自殺」報道
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1926、7、31 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている

刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子は山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。--文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう
1926.7.31 

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金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された
31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)


1926.8.2  大阪朝日新聞

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1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
1926.8.30

文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》■獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目■死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

1926.11.4

<金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで>「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』

1926、11、5

「金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の2名であった。」  『京城日報』 1926.11.7 夕刊

1926.12.13

訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし
日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』


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# by pugan | 2011-06-19 06:04

金子文子クロニクル3

関連文献、関連企画

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1963.3-4  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

1973.9.1  『朴烈』金勉一著、合同出版

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

1976.3.20  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

1977    『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>

1981.6.22 栗原一男死去

1987.7  『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

1988    『続・現代史資料アナーキズム』小松隆2編、みすず書房<訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>

1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>

付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌<山梨での碑の除幕式報告掲載> 1976.4.15発行が刷り込まれている。

1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催、東京

2003.3   『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、

2003.10.7 韓国、ムンギョン市の朴烈義士・金子文子記念事業会メンバー、東京を訪問

 来訪した人たちは3人。朴烈、金子文子を記念するために朴烈の故郷であり金子文子の遺骨が眠っている、ムンギョンに記念の施設と2人の墓碑のための土地を確保し公園にする、金子文子、朴烈に関する史料、文献を集めたいという趣旨

新宿の小さなホテルで懇談、ホテルはたまたま朴烈と文子の2人が予審と大審院の間に囚われていた市ヶ谷刑務所の跡地に近い場所。

 翌8日、私も同行し山梨県塩山市牧丘町に向かう。金子文子の母親の故郷であり、文子も一年半余り暮らし、浜松からも夏休みには遊びに戻った思い出の地。事業会の方々は9日には関西に向かう。

7日の新宿での懇談は個人の立場で参加し、先方の要望をまず確認するという姿勢で臨む。

[懇談の場で「記念公園」の全体像の計画が示されました。現在の墓碑を何故移転させなければならないか、という説明もありました。日本円で6億円ほどの予算案、国からの補助も予定している。募金も集めている。初めて提示された計画の文中には、祠堂、義士、括弧で括られた金子文子の表現、韓国国家予算からの補助を想定していて、とまどいました東京で現段階、実際に協力できるのは、史料・文献、<多くは複写になると思いますが>の整理と「提供」ということです。韓国の事業会での収集済みの史料・文献リストはなく、今回の懇談の中でどの程度入手できるか初めて把握できたという段階ではないかと思います。具体的なこと、詳細は全く検討していないのですが、一般論でいえば史料・文献は「展示」用と「学習」するためと2つに分かれると思います。図書施設が併設されるかは不明]

参考

社団法人朴烈義士(金子文子)記念事業会資料調査委員 

慶北聞慶市麻城面

朴烈義士(金子文子)記念事業事業地区 慶尚北道聞慶市麻城面梧泉里198一帯

2001年8月 法人設立準備総会

2002年11月 記念事業基本計画書作成

2003年7月 朴烈生家文化財指定申請、現地調査完了

記念公園敷地確保 14,455㎡、4,300坪

記念館2,060㎡ 623坪 地上2階、地下1階 祠堂、塔、展望台、公園、生家復元、金子文子墓所展示面積804㎡事業期間2003年-2005年

予算案6億、国家補助4億、地方費補助2億、自体誠金2,000万円

10月8日 牧丘での交流、懇談会 11時半ごろから2時ごろ、金子こまえさん、佐藤信子さん、土屋要さん、土屋さんの知人の方

場所を変えて、土屋さんから山梨の状況説明。2時半から1時間ほど。



参考、私自身の韓国、金子文子への関わりを中心として

1999年、ムンギョン墓碑訪問、韓国訪問の目的は東アジア地域でのアナキズム運動史の文献調査のため初訪問。朝鮮半島、日本列島、中国大陸での朝鮮アナキストたちの活動を把握するため。国民文化研究所で懇談会。

2002年7月23日、金子文子追悼集会、山田昭次さんに問題提起を依頼、シンポ開催

2002年、運営するウェブサイトに全歌集を掲載

2002年11月、新山初代の墓碑と死亡日確認。森まゆみさんと『谷根千』スタッフの協力を得る。経緯は『谷根千』号に森まゆみさん執筆。

2002年12月「コスモス忌」(秋山清さん追悼の集まり)金子文子をテーマ、史料提供協力、森さん講師。

2003年1月、「金子文子を学ぶ会」発足

2003年4月26日、「女性・戦争・人権」学会プレ・フォーラム、山田昭次さん講演会を聴く。

2003年5月、代々幡町(現渋谷区富ヶ谷)、不逞社跡地確認

2003年7月23日、当時の栃木刑務所跡地追悼訪問

2003年7月下旬、韓国からの研究者を案内。2人来訪、それぞれ金子文子と伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。
# by pugan | 2011-06-18 06:05