2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan
金子文子と朝鮮
『彷書月刊』2006年2月号執筆改定原稿

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金子文子は予審法廷で発言している。「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」一九二四年一月二三日第四回訊問調書。


金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。

文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一夫編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。

大審院判決の理由においてすら「......私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め......」と断定され、朝鮮で発行されていた日本語新聞『京城日報』(一九二六年三月六日付)は〈文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して、芙蓉面の住民騒ぐ〉と報道。「同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである…」。金子文子が「恐ろしい犯罪」に至る原因を文子が預けられた岩下家(父方の親戚)による虐待が原因だという住民の主張を報じている。

「恐ろしい犯罪」とは大逆罪のことである。大審院での死刑判決を前にして、朝鮮での侵略を支える日本語新聞ですら「恐ろしい犯罪」と表現しつつも原因を養子先の虐待に求めた。しかし、これら侵略国家を代表する大審院、あるいは侵略の末端にいる住民たちの判断を越える意思を文子は獲得していた。


金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。

「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。……中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。……南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」


一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。


この少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの交流を経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。朴烈と出会い、彼に力強さを見出す。

「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

そして二二年の春、世田谷の池尻で同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を朴烈と共に発行、執筆もする。一一月にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆、第二号に「所謂不逞鮮人とは」朴文子。『現社会』と改題し「在日鮮人諸君に」金子ふみ「朝鮮○○記念日」金子ふみ。二三年三月、二人は代々木富ヶ谷に移り不逞社を組織し借家が事務所を兼ねる。 五月の不逞社第一回例会は朝鮮の運動がテーマ、六月の例会は中西伊之助出獄歓迎会となる。八月には黒友会主催で「朝鮮問題演説会」が神田基督教青年会館にて開かれる。文子の視点は植民地下、虐げられし朝鮮の人々に向いていた。

飯田徳太郎というアナキスト詩人が大審院判決後、金子文子に面会に訪れた人たちのことを語っている。「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七、八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。……」「文子に会いに上京した母親 」(『婦人公論』二六年五月掲載)。ここには金子文子、朴烈の裁判を支えていた人々が主として朝鮮の同志であったことが語られている。

飯田が一時同居していた平林たい子も文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。……〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。……」(「金が欲しさに」初出二八年『婦人公論』一二月、『平林たい子著作集』収載)。

リャクとは会社、商店回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。朴烈との共同した日常の活動が表現されている。

植民地下の朝鮮、そして今の韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬され東京に戻る。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、朝鮮に戻った兄に警察から引き渡すという遺骨を徹底して管理した。当時の新聞も報じている。


「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある……当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

このような官憲の監視下、墳墓として盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなく存在は知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「……我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。……小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。そして二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。そして〇三年一一月、移葬され、記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。

〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時・国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員が番組内で解説。

〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」シンポジウムが明治大学主催で開かれパネラーの一人としてイ・ムンチャンさんがソウルから招請された。朴烈・金子文子との関係、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りした金子こま江さん(〇五年六月病死、享年八六歳)宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ初めて地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。 〇五年、山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座「日本とアジアの架け橋になった人々」が開講。一〇月八日、第四回のテーマは「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」、再びパネラーとして参加した。
ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。
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# by pugan | 2011-11-05 07:53
金子文子の生き方・ウェブサイト版2003年7月

「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。

人間は人間として平等であらねば為りませぬ。

其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。

地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば

総べての人間は完全に平等であり、

従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って

人間としての生活の権利を完全に

且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある

又為されるであろう処の行動の総べては、

完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

……此の心持つまり皇室階級とし聞けば、

其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に

連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて

居るのでありましょう。

語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の

民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。  

 

 元々国家とか社会とか民族とか

又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。

処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが

為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に

現在行われて居る処の神授君権説であります。

苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら

此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、

或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、

若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、

従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を

愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した

伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を

神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に

一般民衆を欺瞞して居る。  

 
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 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る

憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、

若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が

此の神様の保護の下歴代の神様たる

天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、

戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、

日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、

神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに

何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。  

 

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、

即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、

之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに

明白に証明して居るではありませぬか。

全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の

天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、

其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に

泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに

死んで行くではありませぬか。

此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、

所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を

証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。

御役人さん左様でしょう。……

 

 寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を

与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の

恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。  ……

 

 学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て

<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。

等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を

擁護するものであるか否かの一事を標準として

総ての是非を振り分けられて居る。

そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。

法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、

権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官は

サーベルを下げて人間の行動を威嚇し、

権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。

又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての

行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し

人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。 ……

 

 地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の

代表者は天皇であり皇太子であります。

私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから

出発して居るのであります。

地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の

代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、

彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして

侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって

搾取されて居る。

其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として

 

彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の

実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、

又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に

財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る

一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を

現に搾取されつつある一般民衆に明にし、

又それに依って天皇に神格を附与して居る

諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な

迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る

日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに

仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、

故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の

国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、

実は彼等が私利を貪る為めの方便として

美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに

他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に

過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は

即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、

そうして従来日本の人間の生きた信条として

居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、

現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への

隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる

幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に

自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、

従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に

為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に

 

私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

 

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって

地上に生を断とうと考えて居りました。

私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として

只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、

即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し

光明を持たせたものに過ぎないのであって、

取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、

私自身を対象とするそうした考えが

即ち今度の計画の根底であります。

私自身を対象とする考え、

私の所謂虚無思想に就いては

既に前回詳しく申し上げて置きました。

私の計画を突き詰めて考えて観れば、

消極的には私一己の生の否認であり、

積極的には地上に於ける権力の倒壊が

窮極の目的でありました。

私が坊ちゃんを狙ったのは

そうした理由であります。……

 

私は今後も為たい事をして行きます。

其の為たい事が何であるかを

今から予定する事は出来ませぬが、

兎に角私の生命が地上に在らん限りは

<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から

<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」  

第十二回予審訊問調書 
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# by pugan | 2011-06-21 05:32

金子文子クロニクル

金子文子 クロニクル  2004年12月  

改定事項は「」内は『彷書月刊』金子文子特集号年譜、『金子文子 わたしはわたし自身を生きる 手記・歌・調書・年譜』鈴木裕子編のための年譜草稿

ウェブサイト版「金子文子の生き方」2003年から06年にアップ

1900 or 1901 文子の父、文一は鉱山師と知り合い諏訪村の円光寺に1年半ほど滞在、タングステン鉱の試掘に従事、文子の母きくの(24歳)と出会う。円光寺は金子家のすぐ北側
「佐伯文一は鉱山の仕事で滞在していた山梨県諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。金子家は諏訪村の農家。」

1902年か03年頃、きくのは文一と横浜に出る

1903年1月25日 金子文子生まれる (出生は届けられていない。両親が別個に聴取された1925年8月の大逆罪、爆取罰則の予審証人調べで卯年、1月25日と述べている。なお1908年に母方の祖父の五女として戸籍に編入されているが生年は1902年とされている。両親以外の身内が記憶違いで届けたのであろうか)

 年は特定できないが、一家は磯子の海岸に移る。さらに横浜の街はずれに移る、田圃に囲まれていた、その冬に弟が生まれたとの記述が獄中手記にある、

「一九〇三年一月二五日 横浜で暮らす二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。(両親も結婚届けは出していない)。文一ときくのは一九二五年、立松判事から証人訊問を別々に聴取され記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。(文子自身は後年まで一九〇四年生まれと思い込んでいた。一九一二年、祖父母の戸籍に入れるために身内が届け出た生年は一九〇二年)。文一は土方部屋事務や寿警察署の巡査に従事していた。」

1908、3、8 弟賢俊が生まれる

      
「一九〇七年頃 四歳の頃(手記)。横浜の寿町に住む。文一は若い女を家につれ込んだり廓に通う。文一の入院の間、文子はきくのの実家で半年間育てられ、この時期は幸福であったと回想。一家は磯子海岸から横浜の街はずれに移る。弟賢俊が生れる。」

1909年頃 叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れ父が商売で借りた氷屋で同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼み込み地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と駆落ちする。

「一九〇八年から〇九年秋頃 文子の叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れる。一家は横浜の久保山に移る。文一は氷屋の商売のため近くの住吉町に借りた店舗でたかのと同居を始め久保山の家に戻らなくなる。」

                 
1910年秋 文一が家を出て、母は小林ながよしと同棲後、小林の故郷山梨県丹波山村に移る、文子は一里離れた鴨沢小学校に通う


「一九一〇年頃 学齢に達しても無籍なので学校に行けず夏に「貧民街」の棟割長屋の「学校」に通い始める。短期で通えなくなる。秋に文一はたかのと示し合せきくのと文子たちから「逃げる」。きくのは鍛冶職工の中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされるという虐待を受ける。弟は文一に引取られる。きくのが地域の小学校に頼み文子は無籍のまま通学できるようになる。中村が仕事を解雇されたのを機にきくのは別れる。きくのは郊外の製糸場や紡績工場に職を見つけ、じきに七、八つの年下の男と同棲を始める。その男小林は仕事をせず寝て遊んで暮らし、きくのも仕事を離れてしまう。」

1911、3 小学校終業式の数日後、きくのの実弟共冶がきくのと文子を迎えにくる、諏訪村(現山梨市牧丘町)に暮らす
「一九一一年頃 文子はきくのにより「芸妓や娼妓の世話をする人身売買業ともいうべき口入屋」(手記)に連れて行かれるが母が思いなおす。場末の木賃宿に移る。八歳(手記)の秋になり文子はきくのと共に小林の郷里である山梨県北都留郡の村の小袖集落に移る。文子は一里ほど離れた鴨沢の町の小学校尋常科に通う。」

「一九一二年頃 早春、妹の春子が生れる。きくのは終業式までに教員に何も送らなかったので文子は免状がもらえなかった。諏訪村(現山梨県山梨市牧丘町)の実家から叔父(母の弟)がきくのと文子を迎えにくる。春子は小林の家に残す。きくのは製糸場に稼ぎに出るがしばらくして塩山駅近くの雑貨店を営む家の後妻に入る。文子は諏訪村で祖父母、叔父一家と暮らす。」

1912、秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江にて同居している娘夫婦の養女としてもらい受けに来る、祖父金子富太郎の五女として入籍、ムツと朝鮮に向かう

「一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。佐伯ムツが無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと主張、文子は母方の祖父母の五女として入籍させられる。(戸籍の届けは一〇月)その際、出生年は身内の記憶違いなのか一九〇二年生まれと届けられる。文子は村の小学校に通うが児童数は三〇人足らずで三年の組がなく四年に編入。修業証には岩下ふみ子と記される。」

「一九一三年頃 祖母から絵具の購入を拒否されたうえに「無籍者だった」と告げられ、精神的な虐待が始まる。五年時の通知簿は金子ふみ子に戻されていた。学校は公立になり高等科ができ進む。後に文子が獄中から手紙を寄せる服部先生が新任の教師としてくる。」


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駅前の案内図
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駅前からの景観、学校の裏山が望める

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現在の芙江の町(中心地は線路の南側)鉄道の北側、当時は日本人集落
2007年12月二度目の訪問


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家の間を縫う道筋は変化が無い

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家の門がまえ


1915年頃 文子、女中扱いをされ始める。  
「一九一五年頃 岩下一家から女中扱いをされ始め、祖母の手伝いの際に鍋を壊して弁償させられる。

一九一六年頃 正月、祖母から些細なことで体罰を受け氷点下の戸外に朝から夕方まで追いやられる。七月の始めに近所の日本人の「貧乏な家」の女の子と学校から一緒に帰っただけで籾倉に押込まれ休学させられる。服部先生は味方にはならなかった。九月の新学期から再び通う。」
  
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芙江の村を流れる錦江と文子が眺めた山     

1917年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を出る。卒業後の夏、岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
「栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を体験。夏に家から追い出されたとき近所の朝鮮のおかみさんから親切にされ、朝鮮に住んだ七ヵ年を通じ初めて人間の愛というものに感動する。翌日も岩下一家から許しが出ず文子は行き場がなく自殺を試みる。」


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芙江 文子が生きる希望を懐いた栗の林がある学校の裏山 2008年7月30日 三度目の訪問

「一九一八年頃 一四歳の春、高等小学校を卒業するも岩下家は養女にする際の約束である、女子大学への進学への前提となる女学校に進ませず、夏には岩下家の物置小屋の土間に住まわす。」

「一九一九年四月一二日 山梨に還されることになり朝鮮を去る。佐伯ムツが同行する。二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母の実家に着く。文子の満年齢は一六歳になっていた。」

1919、4、12 文子16歳で朝鮮を去る、14日塩山駅に着く、翌日諏訪村の母の実家に戻る。

1919年夏 父が叔母たかのと暮らす浜松に移るも東京での勉学希望を拒否され父の生活面での圧制がいやになる。        

1920年4月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚窪田亀太郎の家でひと月前後暮らす。降旗新聞捌売り店に住込み上野で新聞の捌売りを始める。女子医専入学を目標とし午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

1920年夏 上野の新聞捌売りの場で演説に来ていたアナキストのグループから冊子を購入する。湯島に間借り露天商となる。

1920、8 浅草の砂糖屋の女中になり大晦日にやめる

1921 正月 社会主義者の印刷屋、堀清俊方に住みこむ、2月に出る、窪田の家に戻る

1921、11 窪田の家を出る、岩崎おでん屋の女給になる。(『手記』)あるいは同年半ばから(岩崎第一回証人訊問調書)、「岩崎おでん屋」は社会主義者が集まる日比谷の小料理屋。文子はそこに住込む。昼は働き、夜学に通い唯一の女性の友人であり同志となる新山初代を知る。新山からスティルナー、アルツィバーセフ、ニイチェを教えられアナキズム、ニヒリズムに関心が傾く。               

1921年2月頃 朴烈の力強い詩を知り、強く感動を受け朴烈と会うことを願望する。             

1922年3月5日か6日 朴烈が「岩崎おでん屋」を訪ねてくる。   

1922、4月か5月 金子文子、朴烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方2階 現在地世田谷区池尻2-31-15から17、

1922、7、10 『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922、6、5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」
1922、8、10 『黒濤』第2号「此の態を見て呉れ」烈生 「思ったこと2つ3つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922、11 黒濤会分裂

1922、11 黒友会を組織

1922、11、7頃  『太い鮮人』第1号 枠外に「フテイ鮮人」と記載「×××××取締法案」朴烈 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922、12、19 頃 『太い鮮人』第2号
「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈 「所謂不逞鮮人とは」朴文子「学者の戯言」烈生 「破れ障子から」文子
去4日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに15日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた「朝鮮の詐欺共産党」烈生 「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923、3  黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923、3、15 『現社会』第3号 世田谷池尻412「××」烈生  註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」
「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
1923、3   金子文子と朴烈、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。現渋谷区富ヶ谷1 NTT裏辺り 

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2011年6月21日 韓国テレビ局ドキュメント番組制作チームを案内


参考リンク 2010年4月29日『韓国日報』記者を案内

1923、4 不逞社を組織

1923、4 朴烈、東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923、5、1 金子文子はメーデーに参加

1923、5、21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町18、現文京区向丘2丁目、

1923、5、27  不逞社第1回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923、6、10  不逞社第2回例会、望月桂を招く

1923、6、17  不逞社第3回例会、加藤一夫を招く

1923、6、28頃 不逞社第4回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923、6、30  『現社会』第4号 代々木富ヶ谷
「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈 「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈
「スッパ抜キ」バクレツ 「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文、実は同志10名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された…………メーデーの日、私は他四、五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 府下代々木富ヶ谷1474 

現社会社 省線原宿、市電渋谷下車「名教中学」下
1923、7、15  不逞社第5回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923、8、3  黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923、8、10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923、8、11  不逞社第6回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923、8、29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923、9、1  朴烈、午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923、9、2 朴烈、四谷の布施弁護士を訪ねる
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# by pugan | 2011-06-20 05:45

金子文子クロニクル 2

1923、9、3 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923、9  不逞社メンバー検挙され始める

1923、10、20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923、10、20 『大阪朝日』記事〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉

1923、10、25 金子第1回訊問調書

1923、10、27 新山初代供述を始める

1923、11、27 新山初代、危篤状態で獄外に出されるも死去、谷中法蔵院に墓碑

1924、1、17 金子文子第2回訊問調書

1924、1、22 金子文子第3回訊問調書

1924、1、23 金子文子第4回訊問調書

1923、1、24 金子文子第5回訊問調書

1924、1、25  金子文子、第6回予審にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924、1、25 金子文子第7回訊問調書

1924、1、29 金子文子第8回訊問調書

1924、1、30  朴烈第3回予審訊問にて金子文子の供述を認める。「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924、2、15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924、3、19 金子文子第9回訊問調書

1924、3、31 金子文子10回訊問調書

1924、4、10 金子、第11回訊問調書

1924、5、14 金子、第12回訊問調書

1924、5、21 金子第13回訊問調書、市ヶ谷刑務所

1924、7、1 『東亜日報』記事「韓けん相は6、24に保釈出獄」「李小岩は1924、6、30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1925、5、4 金子、第15回予審訊問

1925、5、5 金子、第16回訊問調書

1925、5、9 金子、第17回訊問調書、

1925、5、9 金子、第18回訊問調書、

1925、5、21 金子、第19回訊問調書

1925、5、30 金子、第20回訊問調書

1925、6、6 金子、第23回訊問調書、

1925、7、7  予審終結決定

1925、7、17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925、7、18 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925、7、18 金子文子、朴烈第1回予審訊問

1925、8、2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925、8、22 朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925、8、29 金子文子第2回訊問調書

1925、9、2 金子文子第3回訊問調書

1925、9、20  朴烈テキスト〈刑務所消息 不逞の烙印〉『自我人』第2号掲載

1925、9、21 金子文子、第4回訊問調書、東京地方裁判所にて

1925、9、22 金子文子第5回訊問調書、立松懐清

1925、9、30 公判開始決定意見書

1925、10、12 検事総長小山、大審院第2特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925、10、28 大審院公判開始を決定

1925、11、11 接見禁止を解く

1925、11、12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925、11、14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925、11、17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925、11、20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925、11、21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925、11、25 布施弁護士、結婚届け三通差入署名捺印を求める

1925、11、25 朴烈、金子文子の記事解禁

1925、11、25 『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉写真〈大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟〉


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1925、11、25 『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画〉〈近く刑務所で正式の結婚〉〈自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈〉

『京城日報』1925.11.25
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『日出新聞』1925.11.25
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1925、11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925、12、3朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925、12、6 『東亜日報』記事〈正式結婚、手続き〉

1925、12、7 『東亜日報』記事〈結婚に関して〉

1925、12、11 『朝鮮日報』記事〈獄中結婚は風説〉

1925、12、14 『東亜日報』記事〈書面上の結婚だけだろう〉

1926、1  「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926、1、19 『朝鮮日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、1、20 『東亜日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、2、26  第1回公判、人定質問

1926、2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926、2、26  第一回公判、文子はその夜手記「二十六日夜半」執筆
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1926、2、27  第2回公判、金子文子手記朗読か、検事論告死刑求刑

1926、2、28  第3回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926、3、1  第4回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 

■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。

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1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決

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1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926、7、23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。


1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文

1926.7.30  『朝日新聞』「自殺」報道
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1926、7、31 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている

刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子は山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。--文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう
1926.7.31 

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金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された
31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)


1926.8.2  大阪朝日新聞

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1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
1926.8.30

文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》■獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目■死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

1926.11.4

<金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで>「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』

1926、11、5

「金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の2名であった。」  『京城日報』 1926.11.7 夕刊

1926.12.13

訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし
日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』


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# by pugan | 2011-06-19 06:04

金子文子クロニクル3

関連文献、関連企画

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1963.3-4  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

1973.9.1  『朴烈』金勉一著、合同出版

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

1976.3.20  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

1977    『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>

1981.6.22 栗原一男死去

1987.7  『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

1988    『続・現代史資料アナーキズム』小松隆2編、みすず書房<訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>

1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>

付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌<山梨での碑の除幕式報告掲載> 1976.4.15発行が刷り込まれている。

1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催、東京

2003.3   『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、

2003.10.7 韓国、ムンギョン市の朴烈義士・金子文子記念事業会メンバー、東京を訪問

 来訪した人たちは3人。朴烈、金子文子を記念するために朴烈の故郷であり金子文子の遺骨が眠っている、ムンギョンに記念の施設と2人の墓碑のための土地を確保し公園にする、金子文子、朴烈に関する史料、文献を集めたいという趣旨

新宿の小さなホテルで懇談、ホテルはたまたま朴烈と文子の2人が予審と大審院の間に囚われていた市ヶ谷刑務所の跡地に近い場所。

 翌8日、私も同行し山梨県塩山市牧丘町に向かう。金子文子の母親の故郷であり、文子も一年半余り暮らし、浜松からも夏休みには遊びに戻った思い出の地。事業会の方々は9日には関西に向かう。

7日の新宿での懇談は個人の立場で参加し、先方の要望をまず確認するという姿勢で臨む。

[懇談の場で「記念公園」の全体像の計画が示されました。現在の墓碑を何故移転させなければならないか、という説明もありました。日本円で6億円ほどの予算案、国からの補助も予定している。募金も集めている。初めて提示された計画の文中には、祠堂、義士、括弧で括られた金子文子の表現、韓国国家予算からの補助を想定していて、とまどいました東京で現段階、実際に協力できるのは、史料・文献、<多くは複写になると思いますが>の整理と「提供」ということです。韓国の事業会での収集済みの史料・文献リストはなく、今回の懇談の中でどの程度入手できるか初めて把握できたという段階ではないかと思います。具体的なこと、詳細は全く検討していないのですが、一般論でいえば史料・文献は「展示」用と「学習」するためと2つに分かれると思います。図書施設が併設されるかは不明]

参考

社団法人朴烈義士(金子文子)記念事業会資料調査委員 

慶北聞慶市麻城面

朴烈義士(金子文子)記念事業事業地区 慶尚北道聞慶市麻城面梧泉里198一帯

2001年8月 法人設立準備総会

2002年11月 記念事業基本計画書作成

2003年7月 朴烈生家文化財指定申請、現地調査完了

記念公園敷地確保 14,455㎡、4,300坪

記念館2,060㎡ 623坪 地上2階、地下1階 祠堂、塔、展望台、公園、生家復元、金子文子墓所展示面積804㎡事業期間2003年-2005年

予算案6億、国家補助4億、地方費補助2億、自体誠金2,000万円

10月8日 牧丘での交流、懇談会 11時半ごろから2時ごろ、金子こまえさん、佐藤信子さん、土屋要さん、土屋さんの知人の方

場所を変えて、土屋さんから山梨の状況説明。2時半から1時間ほど。



参考、私自身の韓国、金子文子への関わりを中心として

1999年、ムンギョン墓碑訪問、韓国訪問の目的は東アジア地域でのアナキズム運動史の文献調査のため初訪問。朝鮮半島、日本列島、中国大陸での朝鮮アナキストたちの活動を把握するため。国民文化研究所で懇談会。

2002年7月23日、金子文子追悼集会、山田昭次さんに問題提起を依頼、シンポ開催

2002年、運営するウェブサイトに全歌集を掲載

2002年11月、新山初代の墓碑と死亡日確認。森まゆみさんと『谷根千』スタッフの協力を得る。経緯は『谷根千』号に森まゆみさん執筆。

2002年12月「コスモス忌」(秋山清さん追悼の集まり)金子文子をテーマ、史料提供協力、森さん講師。

2003年1月、「金子文子を学ぶ会」発足

2003年4月26日、「女性・戦争・人権」学会プレ・フォーラム、山田昭次さん講演会を聴く。

2003年5月、代々幡町(現渋谷区富ヶ谷)、不逞社跡地確認

2003年7月23日、当時の栃木刑務所跡地追悼訪問

2003年7月下旬、韓国からの研究者を案内。2人来訪、それぞれ金子文子と伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。
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# by pugan | 2011-06-18 06:05
二十六日夜半 金子文子、大審院への意見表明 2006.7.10
 
其の或る点とは他でもない。私が予審廷での自身の陳述の一部を今日公判廷で覆した箇所です。が其れに先立って云って置きたい事は、前に言った言葉も私自身の言葉であり、今云ふ言葉も私自身の言葉である。が而も其の二つの言葉は異って居る。だが其れは共に私自身の監視の下に私自身の自由意志をもって云はれる言葉であって、其処に今まで私を調べたお役人などの意志の強制などが加へられてない事を、弁護人諸氏の前に明らかにしときます。そして私自身は其の曰の消息を明らかにする事によって自分が他人の意志などに左右される意久地なしではない、私はちゃんと私自身の意志をもってるのだと云ふ事を宣言しときます。

18行未入力

 其処で私は今日申した通り自分が何主義だか何思想だか知らない。私が知って居る事は「自分は斯ふ思って居る」と云ふだけ。しかし若し此処までの私の考え方に便宜上ちょっと客観的に断定を下して置いて見るなら、私は多分個人主義的無政府主義者と呼んで差し支へなからうと思ひます。何となれば説明するまでもなく、国家と個人とは相容れない二つの存在である。国家の繁栄の為には個人は自分の意志をもってはならない。個人が自身に目覚める時、国家は倒れる。無論私は内から燃え上がる秩序からなる秩序、否其の秩序以外に、国家だの政府だのの干渉をお断りしたいのです。

〈自分は今斯うやりたいから斯ふやる〉これが、私にとって自分の行為を律すべく唯一つの法則であり命令です。もっと判り易く云ふと、私の行為の凡ては〈私自身さふしたいからさふする〉と云ふ丈の事であって、他人に対しては〈さふせねばならん〉とも〈さふあるべきだ〉とも云ひません。私は思ふんです。私が私自身の事を考へ、私自身の道を歩む為に、私自身の頭と足とを持ってるやうに、他人も亦自分の頭と足とをもってる=つまり、私は、自主自治─凡ての人が自分の生活の主となって自分の生活を正しく治める処に、かすかながら私の好きな社会の幻を描いて見る気にもなるのです。

 私が、自分の行為に要求する凡ては自分から出でて、自分に帰る。つまり、ピンからキリまで自分の為で、自分を標準とする。従って私が〈正しい〉と云ふ言葉を使ふ時、其れは完全に〈自律的〉な意味に於てである事を断はっときます。

26行未入力

私は只斯ふ云ふ丈です。

『昨日自分は斯ふ思ふって居た。だが、今日自分は斯ふ思ふやうになった。自分は自分によりしっかりと合った道を見出した。だから自分は今、其の新しい道へと胸を張って突き進んで行かうとするのだ』とね。

つまり、私は、立ち止って自分の足跡を振り返って其の時其の足跡の一つ々々が、自己意識のクライマックスを示す烙印である事を、自分に対する唯一の義務だ、と思ってるのです。で、私は、自分の考へて居る事は、何処までも頭の及ぶ限り疑います。疑はうとして居ます。其れは自分の為です。

其処で事件の方へ戻ります──

昨日も話したやうに、私は、自分の信念を実行すべく、金翰兄との間に爆弾入手の交渉をした。が而し、金翰兄の方の手違ひで駄目になった。其の時、いろいろな爆弾の写真を見て、私は、腕を挟んで狭い部屋の中をあっちこっちと歩き廻りながら考えへた。

『私は確にあゝした計画をした。だが、其れは、単に権力への叛逆てふ心地好い想像に、謂はば幻惑された為ではならうか? 若し今此の私の目の前に爆弾があったとしたら、私はどうしたらう? 私は自分以外の何ものにも囚はれてはならん。私の求めるのは自分に於ける真だ。私はしっかり考へなくちゃならない』──と。

 ちよっと断っときますが、これは私の今の考へではない。其の当時、つまり、私がはたちの一二月頃の考へなのです。

 其処で、今日、上村弁護士が其の心の状態が其の後どの位続いたか、とお訊ねでしたが、而し、私にあって其の心に決定を促すべく機会をもたなんだ為に其の点に就いてはシカと記憶して居ません。

其れで、私は此の事件が発覚して後気がついたのです。私は、自分に疑ひをもった其の時、何処までも自分を追求すべきであった。そしたら私は多分朴との間に隔たりを見たらう。朴と私とは一緒に居た。だが、其れは二人の生活ではない。一人と一人との生活である。どんな個性にも他の個性を吸収して了ふ権利はない。朴が朴の道を歩むやうに、私も亦私の道を歩む。自分の世界にあっては自分が絶対だ。私が自分の道を、誰にも邪魔されず、真っすぐに歩みつづける為には私は独りになるべきだったのだ、と。

 これは、私の事ですが、一方朴はちっとも変って居ない。其の為に金重漢兄に又あーした話をした、処が忌憚なく云へば、其の人選を誤ったが為に、私共は斯ふなった。が而し、其の時朴は私に相談しなんだ。全く自分の独断でやった。で、つまり私にして外の事情から見れば、全く他人の過失の犠牲になる訳だ。がさふと知りつつも、金翰兄との交渉や、尚私自身を省みてさふした計画を生む思想をもって居るが故に、犠牲たらうとして居る自分を救い出す事も出来ない。

 と云った処で、ちょっとお断りしときますが、私は朴を信頼して居た。今でも信頼して居る。ちっとも変って居ない。で若し其の時朴が私に金重漢兄との事を相談したと仮定して、私が果して反対したかどうか疑問だ。いや怖らく信頼して任せたらう。此の点特に弁護人諸氏に対して、私の云はうとして居る気もちへの理解を望みます。即ち、私は自分が斯く失敗した事に就いて、彼是悔ゆるのではありません。只、其の失敗が自分の意志に基く失敗でなかった事を、自分の前に限りなく恥じるのです。謂ゆる『犠牲』を蔑みつつ、而も私自身『犠牲になるのだ』と云ふ程の自覚さへなしに犠牲になる事が堪らなく恥ずかしいのです。今まで私が黙って居た事を斯ふして突然ぶちまけるのは、全くさふした気もちからで、私自身偽ったまゝ終るのが苦しかったからです。そして、此の事は、むしろ自分に対しての告白です。

 私は今まで、此の事を誰にも黙って居た。お役人に対しても、此の点のみ、ずっと嘘を云ひ通した。其れは昨日もお話した通り。余程私の思想や性格を理解した人でないと、私の云ふ事を正しく解釈し得ない。其れとも一つは、繰り返しますが、其の事を考へる度に、私はいつもイプセンの人形の家のヘルマンを思い出した。即ち、朴が私にさふした事を相談しなかったと云ふ事に就いて、私が後になって朴を責めるのは、実は相談されなかった事を責めるのではなく、其の結果自分の思惑に外れた事を責めやうとして居るのだ。何となれば、私は自分に問ふて見やう。朴が自分の意志を以って二人の事をした。其の結果がテッキリ私の思ふ通りに運んで、而して成就したと仮定する。其の時私は果して朴に対して其の事を予め私に相談しなかった事を責めたらうか─と。ノオノオ。私はアベコベに悦んだらう。斯ふ考へて来ると、私は朴に堪らなく済まない気がし、時に、自分のケチなみすぼらしいエゴイスティックな気もちが恥かしくなる。そして又、朴自身の立場に自分を置いて考へて見る。して思ふ。誰が失敗を予想しやう。凡てはやるべくやったのだ。結果は全く偶然に過ぎん。どんな事でも、失敗した後から見れば、みな莫迦げて見えるものなのだ。…………

 此処でちょっと今日の布施、上村二氏に私からお答へしたいのですが、金翰兄と私共との関係が余りにも漠としてゐると云うはれた。而し、だが私自身を振り返って見た時、さふ誰でも彼でもがもちさふな考へから行動しやうとしたのではなかったつもりだ。失敗したと云ふ此の事実は、其処に失敗すべき何かが有った事を私自身認めずには居れない。此の失敗てふ結果の前に、私は何も弁解したくありません─と。

 其処で金重漢兄との交渉に於ける私の立場は以上の通りで、して当の朴に対してはさう云ふ風に考へてゐるのですが、而し、知らない事は何処までも知らない。何時でも私は自分自身を正しく生かさねばならん。此の事件が大審院に廻されるらしい事を知った時、私はずい分悶えました。約一ヶ月ばかり御飯もろくろく咽喉を通らず皆から痩せたと云はれる程苦しみました。

 私は若いのです。私の身内には過去の苦しい境遇に鍛へ上げられた力強い生命が高鳴って居る。私は、自分の意志なき失敗の犠牲などにはなりたくない。よし其れが著しく失敗に終らうとも、兎も角私は自分の力を試して見たい。手足をぐんと伸ばして見たい。

 で、私は思ったのです。私が私自身を自分の手に取り戻す為には、現在の立場から脱け出さねばならん。形の上に自由な体にならねばならん。其れで、私は、或る時など、お役人の前に改悛の意を表して、如何なる屈辱にも忍んで、なるべく早く出られる工夫をして見やう、と思った事さへあったのです。私の後に同志と云はれる人たちが沢山ついて居ります。親とか親類とか云ふ人たちさへ手紙一本寄越さない私の足かけ四年の囹圄の生活を経済的に又精神的に支へて居てくれたのは全く此の同志たちなのです。同志とは文字通り志を同じふする人たちと云ふ事です。で、私が、さふした態度を執ったなら、同志は皆私に背を向けるでせう。而し、私にとっては、百人の同志より一人の自分の方が大事ですし、敵からも味方からも捨てられて、よし監獄の門を跨いだ刹那に自殺をしやうとも、私は、今の自分を獲得する必要があるのだ。ノラは人形の家を捨てた。其れだけで好いんだ。……私は、其の時、さふ思ったのです。

 お役人さん、及び弁護人諸氏、私は此のおしゃべりの最初で、理想そのものを否定する。そして自分の上に「斯ふせねばならぬ」など云ふヒチ面倒な謂ゆる「使命」なんかは認めない。私の行為の法則は『自分は今斯ふしたいから斯ふする』の一言に尽きる。即ち、私は、自分の行為の凡てを等しき値ひに於て認めるのです。

 斯ふ云へば、もう後は云はずともお判りだらうとと思ひます。つまり、私は、曽て自分を疑ふた。そして其の時自分は独りになるべきであった、と後に気がついた。そして其の為にお役人に頭を下げやうか、とも思ふて見たが、到頭下げなんだ。而し、其れ等は凡て、さふしたとしても、私にとっては当たり前の事であり、さふしなかったとしても、やはり私に於て当り前の事なんだ。皆さん。お判りですか──。

 私は最後に云ひます。私は外の事情から云へば犠牲になるのだ。私は決して其の事実に眼を反らしもせねば、体の好い瞞かしもしない。私は大胆に其れを肯定する。が而し、私は今、其の事をかなしみもせねば、悔ひもしない。私は至極穏な気もちで、自分の凡てを肯定し、而して自分の凡てを否定して居る。

 も一つ、私が過去に於て、又現在に於て、大逆の名を以って呼ばるべき思想をもって居た。又もって居る。そして其れを実行しやうとした事もある。尚、自分のさふした言動に、反省する余地はない、他人に対しては言ふまでもなく、自分自身に対してすら。──其の事を此処で改めて言っときます。

 其処でかふした私の態度に発せられたと憶える昨日の上村氏のご質問に対し、徹底的に答へて置きます。上村氏は私が『もうどうせ此処まで来たのなら』と云ふ風な気もちでお役人の訊問に応じた事はよかったかとのお訊ねでしたが、其の先がちと曖昧だった。『もうどうせ此処まで来たのならエラク見えるやうにやってやれ』と云ふのか、又は『もうどうせ此処まで来たのなら、面倒臭い、ギロチンまで行ってちまへ』と云ふのだか。で其の二つ共に答へます。

 私は決して自分が売名欲をもって居ないとは言ひません。いな、タップリもってるでせう。而し、お役人の訊問に対する時、さふした気もちに動かされて答へた事は、まず無いやうな気がします。

 其れから第二の意味に就いては、斯ふお答へしませう。大して生に興味をもって居ない私の事です。或はさふした気もちに動かされた事が有るかも知れん。而し、いくら強がっても私はやっぱり生きているのだ。で、或はなかったかも知れん。が何にしても、私は其の時、自分がさふ云ふ事を欲したからさふ云ったのだ。つまり云ふべくして云ったのだ。で、よしんば其れがエラク見せようと云ふ幼稚な虚栄からであったとしても、又は強がりの痩せ我慢からであったとしても、私は其の事に就いて誰にも義務は負はない。私は只、私自身に質して見さへすれば其れで好いのだ。

 弁護人諸氏、私は斯く歌ひ、斯く踊ります。其れに就いての御判断は全く諸氏の御自由です。

 〆

 これで私のヨふは終ひです。

 処で、書記さんは私の利益の為にこれを書いて欲しい、と云はれた御要求のやう、伝へ聞きましたが、其れに応じた私は決して裁判所に対して自分の謂ゆる利益を主張する為に書いたのではありません。

 現に此処に監獄のお役人を前に置いて私は云ひます──。

私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。
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# by pugan | 2011-06-17 17:37

金子文子と中西伊之助5-2

③ 今日

(前史 備前又二郎、小野十三郎、『黒色青年』『叛逆者の牢獄手記』に描写された追悼)

鏝と鋏           小野十三郎

「××××が生前使ってたものだ」

そういって仲間は手にしていたものを畳の上に並べた。

それは古風な鏝と鋏であった。

鏝は赤く錆つき、異様に太い鋏は手垢で黒く光っていた。

俺はいまさらのように彼が女であったことを想い出した。

ここにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦ってきた路があった。

叛逆児××フミが女性であったということは必ずしも偶然ではなかったのだ。

錆びた鏝を持ちあげてしずかに置いた。

         初出『弾道』(第二次)

第一期 秋山清、小松隆二による評価。一九五〇年代から六〇年代。アナキストたちからの言及。

一九六一年七月「金子ふみ子の回想録」『春秋』七月号

一九六一年七月『自由思想』六号、小松隆二

一九六三年三月、四月 森長英三郎『法律時報』「朴烈・金子文子事件」

一九六四年『日本の女たち』佐野美津男、三一新書

一九六五年「朴烈大逆事件」『昭和史発掘』文芸春秋社

一九六六年六月 朴烈「共産主義と私」『統一評論』六月

 私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。

一九六九年七月「金子ふみ子のこと」秋山清『思想の科学』七月号

第二期鶴見俊輔、井上光晴、瀬戸内

晴美らによる言及。一九七〇年代。牧丘町、ムンギョンにおける碑の設置。

一九七〇年 鶴見、井上による対談

一九七〇年八月『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房、収載「対談 金子ふみ子をめぐって」作家井上光晴、作家鶴見俊輔 七〇年七月三日、「最暗黒の東京」「日本の下層社会」「何が私をこうさせたか」あとがき、鶴見俊輔、

「明治、大正、昭和、戦後も含めての日本の進歩的知識人の書いてきた思想史の裏側になってきている人だという気がするのですがね」鶴見俊輔

一九七二年六月三〇日 『余白の春』瀬戸内晴美著

一九七三年七月二三日  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

一九七三年九月一日 『朴烈』金一勉著、合同出版

一九七四年一月一七日  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

一九七六年三月二〇日  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

韓国ムンギョンでは官憲の監視下、金子文子の墳墓は盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなかった。そして一般には知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「………………我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。………小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

 実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。

一九七九年一二月 秋山清「はるかに金子文子を」──「自叙伝」を再読しながら──

季刊『三千里』特集「朝鮮の友だった日本人」

第三期 大審院公判記録の刊行。研究

評価、表現の対象となる。七〇年代末から九〇年代。

一九七七年 『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会、黒色戦線社 手書きのまま複製

一九八一年六月二二日 栗原一男死去

一九八七年七月 『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

一九八八年 『続・現代史資料アナーキズム』小松隆二編、みすず書房 訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録

一九九一年一二月二五日 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社、本文は「続・現代史資料アナーキズム」の複製、付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻版収録、『連帯』誌 山梨での碑の除幕式報告掲載 1976.4.15発行、が刷り込まれている。

一九九六年一二月五日 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

一九九九年九月一五日 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

山田昭次による研究は従来の断片的な金子文子研究にとどまらず彼女の全体像を描こうとする。

故郷といえる山梨の人たちによる金子文子の把握、演劇としての表現。一九八〇年代。

この時期、歌人、道浦母都子は金子文子の伝記を書きたいと公に発言していた。その過程で印刷中に発禁処分とされ「幻」の歌集となった『獄窓に想ふ』自我人社刊、を山梨県立図書館から「発見」し、埋れていた史料を世に出す契機をなした功績がある。しかし間もなく道浦は現代短歌に言及する場合、天皇〈制〉に収斂されるコメントが発せられるようになる。現皇太子の結婚式、皇室のための歌会始への肯定的言及がマスコミにおいて散見される。金子文子の天皇否定の立場と矛盾する表現であるが、道浦はその立場に関して何ら説明を行っていない。
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# by pugan | 2011-06-17 17:00
金子文子 手紙          
同志栗原一男宛 参考テキスト『婦人サロン』掲載原本複写 データ入力2002.12.29

<四月二十四日> 

三尺の高窓から、本当に春らしい麗かな陽ざしが、三疊の畳の上に、くっきりと影を映して、蒼空の遠い彼方の断面が、疲れた瞳に心地よい憩いを送って来ます。思うともなしにヂット空

の色に見入っていると、郊外の家に、大勢の仲間と一緒に、とりとめもない談笑に送っていた或る日のことや、今はあの世の逝って了った朝代さんと一緒に、柄にもなく芹とりに行った日

のことなど、如何にも忘れ難いロマンチックな思い出となって、甦って来る。

 と──コツコツと重い扉を叩く音が、幻想の世界から妾を引き戻す。  

『四十九号さん-』それは何時もやさしく呼びかけてくれる主任看女さんの声── 

妾は一通の分厚い便りを渡された。云うまでもなく、それは一昨日、貴方と面会した後から、貴方が妾のために骨折ってくれた差入物のことどもを詳しく書いてくれた手紙でした。

妾がそれを読終わるまで、N(仮にこう呼んで置きます)看守さんは、頁をくる妾の手許と、文字を走って行く妾の眼先をヂッと見つめて居られる。

『今日は本当に春らしいいいお天気ですのね……』  

お天気をいろいろと話していた妾は急にお天気に誘惑され、こんないい日には、ゆっくりと庭を散歩したり、何んにも考えずに庭の青草の上に寝ころびたくなったのです--  

そうです。本当に自然の美しい世界は、妾の、いや囚われている者の、先づ第一に要求する世界です、憩い場です、糧です、そして自由な心の洗濯場です。  

庭には雑草が一ぱい生えていた。で妾は、N看守と一緒に、草取りに出ることを許されました。  

 

  うづくまり 庭の日陰に小草引く  

      獄の真昼は、いと静かなり  

 

本当に静かです、屋根瓦の上で雀が囀る位のものですね……

又色々の事が思われます。  

 

  指にからむ 名もなき小草、つと引けば  

      かすかに泣きぬ「われ生きたし」と  

 

指先が慄えて、手を外すこともあります。可哀想になってね……けれどもまた、  

  抜かれまじと 足踏んばって 身悶ゆる  

      其の姿こそ、憎く、かなしく  

 

で、こと更に荒々しく引き抜いて了うこともあります。  

ちょっと痛快ですね、時にはまた--  

 

  うつ向きて 股の下より 人を見ぬ  

      世のありさまを、さかに見たくて  

 

こう云う変った芸当もやって見ます。

 その日は恰度日曜日--免役日でした。女囚が五六人--二名の看守に護られて草をとっていました。遊びがてらにね。  

 

  免役日、若き女囚が結い上げし  

      銀杏返しも今日は乱れず  

 

若い女の髪が乱れていない。当り前のことですが、その当り前のことにも、斯うした天と地とに囲まれていては、云い知れぬ淋しみを誘うものです。

彼女等の傍らに、その着衣と同じ色の躑躅が咲いていました。彼女等は奇麗だと云って立どまりました。

が妾には、  

  ギロチンに 斃れし人の 魂か   

     庭につゝじの 赤きまなざし  

 

斯う思われてなりません。  

二三日前、久しぶりで出廷したら、四谷見附近の立派な邸宅めいた家の門角に、同じ色した躑躅が咲いていました。  

  ブルジョアの 庭につゝじが 咲いて居り   

     プロレタリアの 血の色をして  

 

斯うした観方をする妾を、哀しくさえ思います。美しいものを、只美しいと肯定されない妾自身の心を……  

赤い躑躅の上に、女囚の銀杏返しの上に、遅れ咲きの桜の花弁が、ホロホロと音もなく散りかゝりました。  

 

  花は散る、花は散れどもギロチンに   

      散りて花咲く××かな  

ねえ--こんな時の妾は馬鹿に元気がいいでしょう。

でもね、たまには庭に立ったまゝ、考え込むこともあります。  

 赤い入陽に背を向けて……  

 青い木陰にたゞずめば  

 うすむらさきの悲しみに  

 くろくおのゝくわが心  

 銀の色して鐘がなる  

この意味と、こうしたロマンチックな気持ちが、お解かりですか。

午後四時--妾は今、草取りを終わって心地よく疲れた身体を、二尺と一尺ばかりの小さな机の前に運んでいるのです。

たった一人!妾の好きな生活、たった一人きりでいるその生活--

妾は何時も独りで、こうしてヂッと時の流れを見つめていたい、色々のことが想い出されてね。  

 

   上野山、さんまい橋に より縋り  

      夕刊売りしこともありしが  

 

その頃の、張りつめた、そうです、生きることにと云うより、その日の食をとるために専念していた頃の、自分の姿を省みます。  

 

   籠かけて、夜の路傍に佇みし  

      若き女は、いま獄にあり  

 

この身の転変! 

情熱とはち切れる程の元気に燃え立っていた自分を、自分を、自分ながら驚いて眺めて見ます。  

 

   居眠りつ、居眠りつ尚お 鈴ふりし、  

      五とせ前の、わが心かなし  

 

云い様のない哀れな、痛ましい、しんみりとした気持ちになります。

座ったまゝ眼をつむっていると--  

 

   滝白く、松緑なる ××山の  

      すがたちらつく獄のまぼろし  

 

汽車で、あの妾の故郷である街と山との風景を貴方が見送られるなら、きっとこの言葉を憶い出して下さいまし。

夕方になると暮れる日を惜しんでか、どよめき立つ娑婆の雑音が、鉄の扉と金網越しの高窓から、手にとるように響いて来ます。  

どんなにか、娑婆の夕方は五月蠅ことでしょう。

警笛──電車──自動車──子供、子供、女、籠を下げた、車に乗った急がし気な人間の波が、次から次へ街と角に流れる。  

洪水--色々な頭や帽子や、店先の色とりどりな品物の走馬灯が、妾の目の前でぐるぐると転回します。

黙々と歩いて行く男、物欲しげに店頭に瞳を送って行く女……女、それぞれ自分を自覚しようとしまいと、人は皆只生きるために生きているのですね。

謂わば生きようとする力に引きずられているのですね。  

 

    生きんとて 生きんとて 犇き合う  

       娑婆の雑音、他所事にきく  

 

生きようとして藻掻いている姿や、そのために掻き起される争やを、ヂッと斯う見つめている時、

妾の心は不思議な程にも静かに落ついて「真如」とでも云いたいような気分になるのです。

所謂悲しみをも喜びをも超越し去った淋しい程にも静かなニヒルの境が、此処に展開されるのです。

でもね、やをらこの現実に瞳を落すと、超越ばかりはしてはいられません。

人間的な──そうです、あまりにも人間的な欲求が頭を拡げます。

が妾はこの人間的な欲求をヂッと押えて、素直らしい仮面をかむっていなければなりません。

がこの仮面は、此処にいる妾ばかりではありませんね、凡てが仮面を冠っています。  

考え込むとこの仮面が、仮面舞踏会の役者共と一緒に生きていることが癪にさわって胸がむしゃくしゃに引掻き廻されて本当に厭になります。  

 

    ひと夜ならで、何時ゝゝ 迄も覚むなると

       希いて寝ねる、近頃のわれ  

 

本当にこう思うことがあります。柏蒲団を冠って、人知れず亡き濡れることもあります。

するとね、蒼白い死の世界の怪物の月が、この上にも妾をいぢめつけるのです。   

 

   うら若い 囚われ人は たゞ独り   

       さみしくもいて、身じろかず   

──月影   今宵もまた高窓越しに   黒い格子を寝顔にうつし……  牢舎の夜は、墓場です。

文字通りに死の寝床です。妾の意識も、みんなこの墓場で憩います。が朝ともなればまた、   

 

   朝くれば 此の屍に 心戻り   

       鉄格子見ゆ、暗く明るく  

 

笑ってはいや! 閉ざされた部屋とは云え、朝のすがすがした空気は、淡い乍らも燃え立ってくる希望を、妾の心に喚び覚します。

 が、こうしている、いなくてはならない自分であることを知ると、今日の一日も亦かと暗い気持ちに襲われます。   

 

   わが魂よ、不滅なれなど 希うかな   

        とじ込められて獄にいる身に   

 

何故ってね……   

 

   肉と云う 絆を脱し わが魂の  

        仇を報ゆる すがたなどを想いて  

 

この気持ちは、貴方には恐らくお解かりでしょうね。いやこうしている者の誰もが、一度は思う気持ちでしょうね。

未練がましいと仰云られますか? 妾も亦考えないではありません。こんないさかいを続けている自分の魂も滅んで了って、

人の世の、ありとあらゆる醜と手を切ることが出来るなら、それに越したことはないではないかと……  

何時も食人種のうわ言しか云わない妾が、今日はいやに神妙になって、長い手紙を書きました。さよなら。

 

<四月の或る日に──>

「達者でいてくれ、同志はみんな達者だ!」とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!

差入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人まで獄死しているぢゃないの?

「達者でいてくれ」、有りふれた古い言葉にも新しい心根が植付けられているとは云え、そうした言葉をきくよりも、

こうした事実を知らされた方が、心が引きしまる──「××の圧制に勇敢にも戦った同志は、斯うして獄に斃れて行く、

……だが妾は? 妾は決して意気地なく牢死等をしてはならない」斯う思ってね、だらけた心根も引きしまる。  

生前に会った同志G兄のガッチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、

何とも言われぬ悲痛な気がする。惜しかった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、

あの人は不遜ビラ位で、命を落とす人でなかった。 そう思うと、妾は今、心の中で泣いている胸が一杯になって来て──

こうした時に、心から同じ道を歩む者としての、堅い堅い結束の程が望ましい。売名屋さんや、妥協主義者や、日和見主義の、

そうしたなまくら者の一切を超越して××への復讐を、実感を以って叫んで見たい。その行動を生活したい──

と、貴方がたは、ぐるになって、妾の耳に、娑婆の生々しい血のしたゝっているニュースは入れないように工夫しているのだね──

よろしい、覚えておいで、妾があの世で先廻りをしているから、その時にはきっと、ひどい目に遭わしてやるから……  

ここまで書いていると、数日前貴方に宛てた手紙──

「不逞な夢の報告」が怪しからんと云って、不許になって舞い戻って来た。

いや、夢にまで不逞な真似を演ずるのは怪しからんと斯う云う訳さ、誰かゞ妾の言葉が強烈すぎると云った。

妾には判らない、生活を奪われている者にとっては、そして殊にPのように彼女の夫ニヒリズムに徹底していない妾にとっては……

また改めて書くことにしましょう。  

帯、あんまりボロボロになって捨てて了ったので、贅沢な言草だが、一筋きりしめ代えがないから、妾の荷物の中──

鼠の復讐から無難だったら、帯、縮緬帯揚げ、モスリン下帯、黒い解かし櫛、以上の品々を差入れていただきたい、ではお願いまで。

 

 

<あたしの宣言として──>  

……貴方からの手紙が来た、そこであまり大きな声では云えないが、上半身裸体のまゝ隅の蒲団の上に腰うちかけて、

早速読み初めた、

「女性としてのあなただもの、娑婆にいた頃の、せめてもの思出に、

娑婆にいた時の物が獄内で用いられゝば、心地よい思出の一つともなろう……」

なる程、懐郷病患者の情が充たされると云うそれだけなら、とも角として、

妾の上に、そんなロマンチックな想像を冠せようとは、

「女性としての妾」を知って「人間としての妾」を知らないものよ、まあ人を見て法を説いて貰いましょうか……  

以上の前提による結論としての蒲団毛布等の差入れでしたら、きっぱりとお断わりしましょう。  

蒲団は、一女性である妾が、(貴方等が妾に与えてくれた資格を逆用して)一人間の資格に於て勇敢に返上する、

そしてこう宣言する。 「貴方がたは、妾を一体なんだと見ているのだろう。女性としてか、人間としてか、女性としてのあなたが……」

妾に対してこんな言葉を用いることをかたく禁じる、妾は女性としてこの世にあったのだろうか、

では女性である妾、いや一女性にすぎない妾と、人間としての妾を圧制していた××との間にどんな交渉があるのでしょうか、──

姦通制裁の撤廃運動でもやる方が、ヨリ正しくはなかろうか──

妾は人間として行為し、生活して来た筈だ。そして妾が人間であることの基礎の上に、多くの仲間との交渉も成立していた筈だ、

そしてそう見ることによってばかり初めて真の同志ではなかろうか、即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、

人格的な結束ではあるまいか。  成程Pと妾との間は、同志としての意外の交渉もあった、だがそれは外のことではない。  

今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。

そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。  

又、同一戦線上に立つ者達の間に、何の性的差別観の必要があろうか、性欲の対象としてても見ない限り、

女とか、男とか云う様な 特殊な資格が、何の役に立つであろう。同じ人間でいいではないか、

そしてそれ以上に何が必要であろうか。  妾はセックスに関しては、至極だらしのない考えしか持っていない。

性的直接行動に関しては無条件なのだ、それと同時に妾が一個人間として起つ時、即ち反抗者として起つ時、

性に関する諸々のこと、男なる資格に於て活きている動物──そうしたものは妾の前に、

一足の破れた草履程の価値をも持っていないことを宣言する。  

今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。  

妾は人間として活きている、妾は以上の理由に基いて、「か弱き性を持った」女性として見られることを拒む──

と同時に、その前提の上に立つ諸々の恩恵を、一切キッパリとお断わりする。  

相手を主人と見て仕える奴隷、相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを、ともに私は排斥する。

個人の価値と権利とに於て平等観の上に立つ結束、それのみを、只それのみを、

人間相互の間に於ける正しい関係として妾は肯定する、従って妾と他人との交渉の一切を、

その基礎の上にのみ求めることを、妾は今改めて、声高らかに宣言する。

 

 

<九月一日の思出に──>

今日は九月一日──

震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、

なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……

隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。  

土手下で、身重の女が、大正琴を弾いていた、広い草原の彼方には、真紅な稲が燃えていた、

月が、夕焼けの太陽のように変って……あゝ物凄い黄昏だったね……

でも何んだか馬鹿に、遠い遠い昔の出来事が、夢の中の出来事の様な気がする……  

▽貴方は此頃とても煙草吸になったのね、今朝来た手紙の中にも。数日前差入れた本の間にも、

煙草の小刻みが、落ちていた、そう思って書物を開くと、何んとなしに煙草臭い、それでも高々バットを吸う、

いやそれより以上吸えない身分なんだから、やかましく言はないとしょうね……  

▽それに貴方は、本当に引越しの名人だ、だから結局、貴方の住所は覚えない方がいい、

なまじっか覚えていると、とんだことになって了う。   

 

とき色の 吸取紙に にじみたる   友の宿居をたどりては読む  

 

▽今日は午前中、二度も三度も、とてもいい目にあった、その一は   

 

窓硝子は 外して写す 帯のさま 若き女囚の 出廷の朝    

 

と云うわけで、かねて頼んで置いた「願の件」で、法廷からお呼び出しになって、

久しぶりに、のんびりとした娑婆の空気を吸った、

その二は   

 

藍の香の 高き袷に包まれて 腑甲斐なき身を、ひとり哀れむ  

 

と云う訳で、腑甲斐ない自分を哀れんではいるものゝ女の浅墓さとでも云うか、

新調の着物に身をくるんだので、誰かに見てもらいたい、見てくれる者もないのか、それとなしに物足りないが、   

 

監視づき、タタキ廊下で××の 同志にふと会う獄の夕ぐれ  

 

その三は、まことにたまさかな、偶然の邂逅であるのに、嬉しくって、夕飯の味を忘れて食べ終った、それ程……、  

だけど、夕方、お役所から帰ってからと云うものは、何故か知れぬ、ばかに娑婆が恋しい。

自嘲してゴロリと横になって見たもの、淡い五燭の電燈の光を、遮切って、澄んだ月影が、高窓の鉄格子を、

くっきりと畳の上に落しているのを、それとなく見つめているとこうして、こんな処に遊び暮らしている──

(妾のすきなせいではないのだけれど──)妾が世間の貴方がたに較べて、惨めな敗北者のように思えて

ならない。何だか世間の貴方がたがねたましい気がする、笑って下さいませ、斯うした気持ちのする時も、

たまにはあるものですよ……さよなら

 

<最後の手紙──> 

 ここは地獄のどん底──地下何千尺の坑内に引きずり込まれているような、

威圧された感じと、もうどうにもならない、最後の一点に起たされている──

そうした妾自身を今日と云う今日こそ、真ともに凝視します。  

永い間、いろいろとお世話になったことも、直接間接に御迷惑をかけたことも、

凡ては忘れ難い追憶であり、感謝でもあります。  

だが、今度こそ、その最後の日が来ました。もう二度と法廷にこの醜い身体をさらすことも

ありますまい。と同時に、悲しくもまた淋しくも、元気で朗らかに輝いている貴方がたとお会いする

機会もありますまい。  

お別れです、おさらばです、こう云うと、妙にメランコックに堕りますが、若しこれが、本統に、最後の

最後の手紙だとしたら、妾は、本当に泣いて了うでしょう。  

が、妾の知る限り、予断される限り妾の手紙はこれが最後となるでしょう。

 

 

夏の夜をそゞろに集う若人の 群を思へば、われも行きたし  

白き襟、短き袂にみだれ髪  われによく似し友なりしかな  

今はなき友の遺筆をつくづくと 見つゝ思ひぬ、友てふ言葉  

友と二人職を求めてさすらひし 夏の銀座の石だゝみかな  

肉と霊、二つの心いさかひに  持つこと久し、今の我が身は  

 

 

凡ては思い出──かすかな感傷を伴って、この世に捨て残して行きます。  

妾自身について云えば、本当に永い間(三年もの間)こうした日の来ることは予測せぬではありませんでした。

ですから、その日のために、幾度か強い強い覚悟と決心とが必要だと思われ、出来るならば、まことに安々と、

平気で眠る様にその来たるべき瞬間を甘受しようと努めていました。 「神」--ある時は、非常に散漫である妾の心を叱って、

これを統率するために、思想に核心を与えるために、「神」を考えぬではありませんでした。

若し神なる観念によって永劫不動な所謂安心が得られるとすれば、この場合、妾はそれで結構でした、が生まれつき、

妾は片意地で、強がりでもあったか知れませんが、神は妾を嘲笑しました。

何故って、神の使徒が寝る目も寝ないで書きのこした著書をば、妾が嘲笑したんですもの──

永い悩みの挙句、妾は、結局私自身を嘲笑して、神や安心やについて、こだわっている自分から、

さっぱりと抜け出して了いました。つまり、神や「死の恐怖」やを忘れて了ったのです。  

それから約二年の歳月は、永いと云えば、永くもあり、短いと云えば、あまりにも短い、そして忽然とこの最後の瞬間に蓬着した様です。  

ふり返って見れば、愚痴が多く、たゞ徒らに煩悶があり、不満があった様です、けれど、

今日となった今日は、案外にも落着いたある種の心の「ゆとり」を獲得していそうです。  

大げさに「悟り」だとか「大悟の境」だとか云うと吃度貴方がたには笑われて了うでしょうけれど、

結局は、悩みの人間は勝利者なんですね、約一年半の間「これではならぬ」とばかり焦心していた妾が、

その焦慮を忘れて了ってそれ以来、二年後の今日、意外にもこんな大それた言葉を書きつけられるんですもの─  

 

 

悲しくもいさかふ心内に見て、  三日ばかりはくつろぎ居しが  

 

 

これは、二年も前の或日の感想です。今は毎日毎日くつろぎすぎているせいか、どうか知りませんが、

これと云ういさかいの心を認めることもありません。  

妾は依然として一介の理想主義者で、今日の妾を諦め切ってもいないし、あまねく世の中に対しても、

これでいいとは決して思っていません。従って所謂世の「曳かれ者の小唄」を歌う気持ちにもなりません。  

これでいいとも思いませんが、これをどうにかしたいと悶えることも致しません。

では運命とかの前に、ひれ伏すかと云うに、それ程大胆な志士的な英雄的な分子は、妾の中に巣食っていそうにありません。

一寸正体の知れない気持ちです。なるようになった訳ですね。来るべき場所に来て了ったのですね。  

この万年筆と、柄にもない妾の「死の勝利」の書物とが、貴方への唯一の遺品となることです。

時折は、かつてこうした不逞な一人間が、女性らしくない人間が存在していた。そしてこの人間が幾分にもせよ、

貴方とかなり永い間、然も深い間交際を続けて来た──と云う事実を思い出して下さい。若しも貴方が、

妾を追憶してくれて、或る時の侘しい妾の気持ちを充たしてくれようとおっしゃられるのなら、

妾の墓石の前にすっきりと、新芽を伸ばしている常盤木の一枝を、捧げて下さいませ。  

 

妾は、咲いては萎んで了う、草花を一体に好みません。

あまり華々しく競って咲き誇る花類を好みません、

奇麗ではない、人目はひかない、だがいつも若々しく、

蒼天に向って、すっきりと伸び上がっている常盤木のその新芽を、

妾はこの上もなく、限りなく愛しています。  

では、新しく伸び上がるであろう常盤木の新芽、

中天に向って雄々しくもまた優しく呼びかけている新芽、

その再び廻り来る日のことを信じて、

妾は貴方に最後のお手紙を、差上げることに致します。 

バカボンド──貴方の幸福の日を祈っています

……では本当にさよなら。
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# by pugan | 2011-06-16 17:40
金子文子全歌集

2003.1.4 2005.6.3改訂


1920年代から30年代に刊行、雑誌に発表された以下のテキストを底本とした。

1 遺著『獄窓に想ふ 』 <黒色戦線社による復刻版ではない>

2 「女死刑囚の手紙」

3 「獄中雑詠」

以下は1988年に刊行されたテキストを底本

4 「補遺」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』の補遺

5 「手紙六月」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』掲載の栗原一夫宛

それぞれの掲載順に通し番号を付した。

共通して掲載されているものに、若干の文字の異動が存在するが

その場合『獄窓に想ふ』を底本とした。栗原一夫による編集の際に生じたと推測する。

不明漢字の修正は後日(1から5のアップ2005年6月3日)

遺著『獄窓に想ふ』

自序

 

歌詠みに何時なりにけん誰からも学びし

事は別になけれど

獄窓1



我が好きな歌人を若し探しなば夭くて逝

きし石川啄木

獄窓2



迸る心のまゝに歌ふこそ眞の歌と呼ぶ

べかりけり

獄窓3



派は知らず流儀は無けれ我が歌は壓しつ

けられし胸の焔よ

獄窓4



燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値

を探し給ふな

獄窓5



  折々のすさび

獄窓にて        金 子 ふ み

 


獄窓6 

散らす風散る桜花ともどもに潔く吹け潔

く散れ

(大審院判決前日の歌1926.3.25「獄窓に想ふ」 )



己を嘲けるの歌

獄窓7

ペン執れば今更のごと胸に迫る我が来し方のかなしみのかずかず

獄窓8

そとなでて独り憐れむ稔りなき自がペンダコの恒きしびれを

獄窓9

自が指をみつめてありぬ小半時鉄格子外に冬の雨降る

獄窓10

炊場の汽笛は吠えぬ冬空に喘息病の咽喉の如くに

獄窓11

空仰ぎ「お月さん幾つ」と歌ひたる幼なき頃の憶い出なつかし

獄窓12

あの月もまたこの月も等しきに等しからぬは我の身の上

獄窓13

月は照る月は照らせど人の子は果なき闇路を辿りつゝあり

獄窓14

大杉の自伝を読んで憶ひ出す幼き頃の性のざれ事

獄窓15

早口と情に激する我が性は父より我へのかなしき遺産

獄窓16 雑詠29

朝鮮の叔母の許での思い出にふとそゝらるゝ名へのあこがれ

獄窓17 雑詠19

是見よと云はんばかりに有名な女になりたしなど思う事もあり

獄窓18 雑詠8 手紙9

上野山さんまへ橋に凭り縋り夕刊売りし時もありしが

獄窓19

籠かけて夜の路傍に佇みし若き女は今獄にあり

獄窓20 雑詠10 手紙11

居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし五年前の我が心かなし

獄窓21 雑詠1 手紙19

窓硝子外して写す帯のさま若き女囚の出廷の朝

獄窓22

人がまた等しき人の足になる日本の名物人力車かな

獄窓23

稼がねば飯が食はれず稼ぎなば重荷いや増す今の世の中

獄窓24 手紙7

ブルヂュアの庭につゝじの咲いて居りプロレタリアの血の色をして

獄窓25手紙21

監視づきタタキ廊下で労運の同志にふと遇ふ獄の夕暮

獄窓26

砕毛散りまた音もなく忍び寄るさゞ波かなし春の日の海

獄窓27

朝な朝な爪立ちて見る獄庭の銀杏の緑いや増さり行く

獄窓28

山椒の若芽摘み取りかざ嗅げばつと胸走る淡きかなしみ

獄窓29 雑詠21 手紙1

うすぐもり庭の日影に小草ひく獄の真昼はいと静かなり

獄窓30 雑詠22 手紙2

指に絡み名もなき小草つと抜けばかすかに泣きぬ「我生きたし」と

獄窓31 雑詠23 手紙3

抜かれじと足踏ん張って身悶ゆる其の姿こそ憎くかなしく

獄窓30 雑詠30

盆とんぼすいと掠めし獄の窓に自由を想ひぬ夏の日ざかり

獄窓33 雑詠4

浴みする女囚の乳のふくらみに瞳そらしぬなやましきさ覚えて

獄窓34 雑詠12 手紙12

瀧白く松緑なる木曾の山の姿ちらつく獄のまぼろし

獄窓35

狂ひたる若き女囚の蔭に隠れ歌ふて見しが咽喉は嗄れ居り

獄窓36

我が心狂ひて歌しなどふと思ふ声あげて歌うたふて見たさに

獄窓37

初夏やぎぼしさやかに花咲けば緑の色の褪せ行く

獄窓38

手に採りて見れば真白き骨なりき眼にちらつきし紅の花

獄窓39 雑詠25 手紙4

うつむきて股の下から人を見ぬ世の有りさまの倒が見たくて

獄窓40

踉めきつ又踉めきつ庭に立てば秋空高し獄の昼過ぎ

獄窓41

返り咲き庭の山吹三ツ五ツ佇みて思ふ己が運命を

獄窓42

秋たける獄にかなしりんりんと夜すがらすだく鈴虫の音に

獄窓43

鈴虫よさあれかこつな我もまた等しき道を辿りつゝあり

獄窓44 雑詠3

電燈の瞬基きながら消え行くを見れば我が胸かなしく慓ふ

獄窓45

誰がために思ひ悩むか愁ひげに首うなだれて咲くコスモスの花

獄窓46

語れかし我にも情ありコスモスよ汝が胸のかなしき秘密を

獄窓47 雑詠6

ホイットマンの詩集披けばクロバアの押葉出でたり葉数かぞふる

獄窓48 雑詠7

四ツ葉クロバア手触り優し其の心誰が心とぞ思ひなすべき

獄窓49

女看守の火を吹いて焼くめざしのにほひ鼻にしむかな獄の昼すぎ

獄窓50

裁判所帰り冬の夜の電燈暗き牢獄に下り立てば中天に懸る三日月寒し

獄窓51

冬の夜の電燈暗き牢獄にロメオとジュリエットの恋物語読む

獄窓52

寂寞は獄を領しぬ冬の夜に老ひし女看守の靴音寒し

獄窓53

獄衣着て唖の女囚は働けり音なき世にも悩みはあるか

獄窓54

窃盗は恥には非ずなど云ひつひそかに覚ゆる蔑みの心

獄窓55

真白なる朝鮮服を身に着けて醜き心をみつむる淋しさ

獄窓56

風よ吹け嵐よ吠えよ天地を洗ひ浄ひめよノアの洪水

獄窓57

我が霊よ不滅なれなど希ふかな閉し込められの獄に居る身は

獄窓58 手紙17

肉と云ふ絆を脱し我が霊の仇を報ゆる姿など思ひて

獄窓59

さりながら我が霊滅び人の世の醜と手を切る其れもまた好し

獄窓60 雑詠26 手紙13

生きんとて只生きんとて犇めき合ふ娑婆の雑音他所事に聞く

獄窓61

光こそ蔭をば暗く造るなれ蔭の無ければ光又無し

獄窓62

照る程に蔭濃く造る××我は光を讚むる能はず

獄窓63

何処やらの大学生と議論した夢みて覚めぬ獄の真夜中

獄窓64 手紙23

白き襟、短き袂にみだれ髪われによく似し友なりしかな獄窓

獄窓65

些細なる鼻風邪ひきても医者を呼ぶブルには薬は用のなきもの

獄窓66

薬売るは貧乏人の搾取なりなど我云ひ張りぬ湯に行きがてら

獄窓67 手紙25

友と二人職を求めてさすらひし夏の銀座の石だゝみかな

獄窓68 手紙24

今はなき友の遺筆をつくづくと見つゝ思ひぬ、友てふ言葉

獄窓69

口吟む調べなつかし革命歌彼の日の希ひ淡く漂ふ

獄窓70

彼の日には赤き血汐に胸燃えて破るゝなどゝは思はざりしを

獄窓71

凧のごと黒き糸をば脊につけて友かなしくも巷さすらふ

獄窓72

獄に病む我を護れる汝が思ひ早く癒えんと我は誓はん

獄窓73 雑詠15

友の服は破れ我に白き襟番号かなしきまどいよ予審廷の昼

獄窓74 雑詠14

ぐんぐんと生ひ育ち行く彼の友と訣るゝ日近し我のかなしみ

獄窓75

今日はしも我等の為に同志等が闘ふ日なり雨晴れよかし

獄窓76

講演会集ふて叫ぶ若人の群を思へば我も行きたし

獄窓77 雑詠5

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

獄窓78

黒雲は渦巻き起ちて天つ日を覆?いて暗し夕立の前

獄窓79 雑詠13

去年の今日我を見舞ひし友二人獄に逝きて今はいまさず

獄窓80 雑詠28 手紙6

ギロチンに斃れし友の魂か庭のつゝじの赤きまなざし

獄窓81

亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日

獄窓82

谷あひの早瀬流るゝ水の如く砕けて砕く叛逆者かな

獄窓83

叛逆の心は堅くあざみぐさいや繁れかし大和島根に

獄窓84 大審院判決前日の歌1 1926.3.25

色赤き脚絆の紐を引き締めて我後れまじ同志の歩みに

 

獄窓に想ふ

獄窓85

金は有れど要り道は無し思ひつゝ買ふて見たり新らしきペン

獄窓86

我が欲しき紙は無かりき田舎町友を離れし淡きさびしさ

獄窓87

ちくちくと痛む瞳をしかめつゝペンの歩みを追ふもかなしき

獄窓88

縁無しの金蔓眼鏡もあながちに伊達ばかりにはあらざりしかな

獄窓89

誰彼の年を数えて自の子供らしさに気休めを云う

獄窓90

ひそうなる誇りも覚ゆ仲間では一ばん年の若き己を

獄窓91

店あらば一度に年を五ツ六ツ買入れんなど思ふをかしき

獄窓92

我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時

獄窓93

嘗めて来し生の苦杯の終りかななどと思はれてそゞろ笑なれき

獄窓94

斯程までかなしき事はなかりけり××とやら沙汰されし時

獄窓95

何や彼やと独り喋りて?がりしいとそゝかしき看守長もありき

獄窓96

とりどりに的を外れし想像で推し量られし我のさびしさ

獄窓97

これと云ふ望みも無けれ無期囚のひねもす寝ねて今日も送りつ

獄窓98

思ふまゝに振舞ふてあり行きがけに強くもあるか無期囚の身は

獄窓99

今日もまた独り黙しつ寝しあればかうもり飛び交ふ夕暮れの空

獄窓100

独り居る春の日永し監獄に繰り返し読むスチルネルかな

獄窓101

春の夜の空は独りで小雨降る遠き水田に蛙鳴くかも

獄窓102

ふらふらと床を脱け出し金網に頬押しつくれば涙こぼるゝ

獄窓103

六才にして早人生のかなしみを知り覚えにし我がなりしかな

獄窓104

意外にも母が来りて郷里より監獄に在る我を訪ねて

獄窓105

詫び入りつ母は泣きけり我もまた訳も判らぬ涙に咽びき

獄窓106

逢ひたるはたまさかなりき六年目につくづくと見し母の顔かな

獄窓107

他の意など何かはせんと強がりの尚気にかくる我の弱さよ

獄窓108

ヴワニティよ我から去れと求むるは只我あるがまゝの真実

獄窓109

此の町の祭礼ならんけだるくも太鼓は響く春の夜すがら

獄窓110

暗き夜に山吹咲きぬあざやかに獄に我が見る夢の如くに

獄窓111

一夜ならで我が夢永久に覚むるなと希ふて寝る心かなしも

獄窓112

朝来れば此の屍に意識戻り鉄格子見ゆ暗く明るく

獄窓113

雀鳴く?き心の朝あけにふと思はるゝ同志の事ども

獄窓114

訣るゝがいと辛かりきいや増しに同志恋ふ思ひが胸に募りて

獄窓115

何がなと話し続けの共に居る時延ばさんと我は焦りき

獄窓116

唯一人女性にてある此の我は四年前から監獄に在り

獄窓117

笑ふこといとまれなりき又しても思ひ出さるゝBの面影

獄窓118

我十九彼二十一ふたりとも同棲せしぞ早熟なりしかな

獄窓119

家を出て彼を迎えに夜更けたる街を行きたる事もありけり

獄窓120

余りにも高ぶりしかな同志にすら誤られたるニヒリストB

獄窓121

敵も味方も笑はゞ笑へ××××我悦びて愛に殉ぜん

 

「補遺」 黒色戦線社版『獄窓に想ふ』

補遺1

今宵また鉄窓に見る満月の何故かは知らぬ色赤ふして

補遺2

彼もなせしか我にもありき彼の部屋に彼の友とせし大人びし真似

補遺3

人力車梶棒握る老車夫の喘ぎも嶮し夏の坂道

補遺4

人力車幌の中には若者がふんぞり返って新聞を読む

補遺5

資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな

補遺6 =手紙5

補遺7

秋たけし獄舎はかなし夜ごと夜ごと鈴虫の音の細ぼそり行く

補遺8

語れかし我にも情けあるものを汝が胸のかなしきひめごと

補遺9

クロバアをレターに封じ友に送るたはぶれのごと真剣のごと

補遺10

たはむれかはた真剣か心に問へど心答へずにっとほほ笑む

補遺11

まじまじと「人」をみつめて憎しみに胸燃やしつつむせび泣く我

補遺12 =手紙14

補遺13

踏みすくみ我は坂道を登り行く足下暗し理智の月影

補遺14

黙々と悩み多げに獄衣きて唖の女囚は働きてあり

補遺15 =手紙20

補遺16

雪降ればどぶも芥も蔽はれて白き仮面は嘲りげに笑ふ

補遺17

霊と肉の二つの心のいさかひを持つこと悲し今の我が身は

補遺18

ペン買はんいやそれは済まんなどと又しても二つの心つかふ苦しさ

補遺19

笛喇叭豆腐屋の鈴にレールの軋り獄に想ふ娑婆の雑音

補遺20

内容はとにも角にも門札は「刑務所」と書く今の監獄

補遺21

彼なりき彼の木賃宿の片隅に国家を論ぜしSにてありき

補遺22

Aと言えばBととらるる此の頃よ胸もて知りぬ理解されぬ悩み

補遺23

彼の友が薬売らんと言ひ出でしを反対せしは我なりしかな

補遺24

同志てふ言葉を他処に権力の腕に抱かれ友は逝きけり

補遺25 =手紙18

補遺26 =手紙22

補遺27

「ふみちゃん」と友は呼ばはり鉄格子窓に我も答へぬ獄則を無視して

補遺28

この獄に友十八名も居ると言ふ便りを読みし或日の夕暮

補遺29 =手紙8

補遺30

文見れば又もや人は越してありぬ風の吹くままさすらひの子よ

補遺31

ダイナマイト投ぐる真剣さもち床の上に彼はぶちまけぬ冷えし紅茶を

補遺32

飲み余せし湯を投げつるにや身構ひしあはれ陰謀に破れし男女

補遺33

塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ

補遺34

手足まで不自由なりとも死ぬといふ只意志あらば死は自由なり

補遺35

さりながら手足からげて尚死なばそは「俺達の過失ではない」

補遺36

殺しつつなほ責任をのがれんともがく姿ぞ惨めなるかな

補遺37

囚の飯は地べたに置かせつつ御自身マスクをかける獄の医者さん

補遺38

皮手錠はた暗室に飯の虫只の一つも嘘は書かねど

補遺39

在ることを只在るがままに書きぬるをグズグズぬかす獄の役人

補遺40

言はぬのがそんなにお気に召さぬならなぜに事実を消し去らざるや

補遺41

狂人を縄でからげて病室にぶち込むことを保護と言ふなり

 

 

手紙六月1

地球をばしかと抱きしめ我泣かん高きにいます天帝の前

手紙六月2

ころころと蹴りつ蹴られつ地球をば揚子の水に沈めたく思ふ

手紙六月3

水煙揚げて地球の沈みなば我ほゝえまんしぶきの蔭に
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# by pugan | 2011-06-15 17:43
金子文子訊問調書 部分

調書(大正十二年十月二十五日東京地方裁判所)   金子 文子

(元本 冒頭略)

一問 氏名、年齢、族称、職業、住所、本籍及出生地は如何。

答 氏名は金子文子。年齢は戸籍面では二十二歳でありますが本当は二十歳であります。族称は平民。職業は人参行商。

朴烈の妻か。

入籍して居るか。

何時朴と一緒に為ったか。

昨年五月中より朴と同棲して居ります。

虚無主義です。

不逞社に加入して居るか。

本年四月中私と朴とが相談して不逞社を組織しました。

不逞社の仲間は誰か。

第二回被告人訊問調書(大正十三年一月十七日東京地方裁判所)

虚無主義の思想

家族関係「私には其の様に両親もあり弟妹もあり乍ら、私は両親か捨てられ姉弟離散して仕舞って家庭の味を知りませぬ。無籍者で生れたと云ふので社会制度の欠陥あり、私は社会から圧迫を受けました。私は親の愛を疑ひ社会を呪はずに居られませぬ」

「幼い頭の私に今でも其の様に其印象が明に残って居る程父は酷しく母を虐めた上私等親子三人を捨てて仕舞ひました。私は父の愛を疑はずには居られませぬ」

家庭環境、母親の同棲相手から虐待、「無籍者であると云うので、学齢に達しても小学校に入学する事が出来ませぬでした。」校長に嘆願

父親、伯母(文子の母親の妹)と同棲

「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」

九歳の秋に朝鮮に送られる、

「朝鮮でも私は非常に無理解な待遇を受けました」

12行だけの記述

6歳の春母の郷里山梨に返される

父親の対応、実の叔父と結婚させようとした

大正九年四月私の十七歳の時に上京

苦学を始めた、大叔父窪田方、新聞売捌き店、昼間、正則英語学校

本郷区湯島に間借り、粉石鹸の夜店、浅草区聖天町、砂糖屋に女中奉公

本郷区追分町社会主義者堀清俊方に同居、印刷屋の活字拾いをして苦闘

「其の間私は母の郷里にも父方にも一二度出入りしましたが、当時私が堺利彦氏の著書や社会主義の雑誌を読んで居りましたので、父母は夫れを見て漸時私が社会主義的傾向を持つ事を怖れて居る模様でありました。大正十一年三月頃私は無資産にして無名の一鮮人朴烈と相知り、同人と同棲仕様と決心しましたので、私は父に対しては口上で母に対しては手紙で其の旨を宣言しました。父は面と向かって賛意を表しませぬでしたが、同年五月私が朴烈と同棲してから父から私に宛て、苟くも太政大臣藤原房前卿の第百何十代やらの後裔を生んだ私が卑しい鮮人と同棲すると云ふ事は光輝ある佐伯家の家系を汚す者である、今日限り勘当するから親ありと思うなと云う旨の手紙が来ました。私は捨てられた父から勘当を受けたのであります。」

父親の愛の移動

「父の心の空虚を補ふ間のみ所謂子供に対する愛が動いたのでありました。」

「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」

父親の元栄への批判の勝手

父親への批判、母親への批判、

「強者への屈従の約束が所謂道徳であります。」

「此の道徳が各時代を支配し各社会を構成して居ります。左様して支配者は何時も此の道徳をより長く保つ事を第一義的条件として居ります。」

「従って私は父を母を恨みませぬ。」

「此の呪を何処に持って行くか、自然を呪ひ生物を呪って私は総ての物を破壊して自分は死なうと思ひます。私が親族的関係を中心として虚無的思想を抱く様に為った一端は今迄申し上げた通りであります。」

  第3回1924年1月22日

一問 虚無的主義を抱く様に為ったと云う次第は什うか。

「社会制度の欠缺(けん、こん)による侮辱の総てでありました。

社会制度の欠缺は私が無籍であったと云う事に依って私が社会から受けた待遇が一端として十二分に証明して居ります。前回申上げました通り私は幼児無籍でありました。つまり私は日本の土地の御厄介に成り乍ら日本の人間でも無く何処の国の人間でも無く私の籍は天国に在ったが為め、私は日本の人間で無いのに拘らず、日本の制度から精神的にも堪え得られない虐待を受けました。」

無籍と法律

東京での生活、上野三橋に立って毎晩夕刊を売りましたが、

三箇の思想団体、仏教済世軍、キリスト救世軍の一団、血を吐く様な悲鳴を挙げる長髪の社会主義者の一団であり…

堀清俊方の話、九津見房子への幻滅

二問 それでは被告の所謂虚無主義とはどう云ふ思想か。

三問 日本の国家社会制度に対する被告の考え方

第一階級は皇族であり

第二は大臣、其の他政治の実権者であり、

第三階級は一般民衆であります。

第一階級たる皇族を丁度 摂政宮殿下は何時何分に御出門と云う様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思います。

「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年11月6日の欄に私は次の様な事を書きました。

<人間の命なんて権力の前には手毬の様に他愛なく扱われて居る。御役人方遂々私を監獄に投り込みましたね。だがね悪い事は言いませぬよ。今度の事件を具体化した様な未然に防ごうと御思召なら此の際です私を殺して仕舞はなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても再び私を社会に出したなら、必ず必ず遣り直して御目に懸けますよ。貴方方の御手を煩わす世話の無い様に先ず私の此の身体を亡して御目に懸けますよ。まあまあ私の此の身体を何処へなりと持っていらっしゃい。断頭台へでも八王子へでも。どうせ一度は死ぬ身体です。勝手に為さるがいい 君等が私を左様する事は飽く迄も自分に生きたと云う事を証明して呉れる丈けです。私はそれで満足します。>」

「御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しましょう。<私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽くまで自分の裡に終始します。それが御気に召さなかったら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです>

四問 其の思想を抱いてから朴烈と知ったのか

答 左様であります。私は朴を知って後互に思想を語り合って共鳴したので、同人と運動を共にするが為め同棲する様に為ったのであります。」

第4回被告人訊問調書               1924年1月23日

「大正11年2月頃朴烈を知り、其後同年4月末頃東京府荏原郡世田谷池尻412番地相川下駄店の二階を間借りして朴と同棲を初め、大正12年3月頃私等は同府豊多摩郡代幡町代々木富ヶ谷1474番地に移転して居住中検挙されたのであります」

<朴と知り合った状況>校正刷り「青年朝鮮」朴烈の詩「犬コロ」力強い叛逆気分が漲って居る事を感じて、初めて朴烈と云う人の名を知り、其の印象を受けました処程無くして鄭方にて朴に会い、交際するようになった。

<朴との結婚の経緯>

「主義に於ても性に於ても同志であり協力者として一緒に為ったのであります。」

<朴の思想>

「私は大正8年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」

第5回訊問調書1923年1月24日

一問 「被告は朴と同棲の前後主義上の会を組織し、又は雑誌を発行した事等があるか。」

「左様であります。私が朴と知り合った以前大正十年秋頃とか朴は元鐘麟、徐相一、申焔波等各種の鮮人主義者を糾合して≪黒濤会≫と云ふ名称の思想研究会を組織し『黒濤』と題する機関雑誌を発行して居りました。此の会は私が朴と一緒に為ってから後も尚継続して居りましたから、私も此れに加入しましたが、大正十一年九月頃共産主義者派の会員と無政府主義派の会員との思想上の衝突から分裂して、無政府主義側は≪黒友会≫を、共産主義側は≪北星会≫を組織しました。」

<黒濤会が組織されていた、分裂、黒友会の設立、『民衆運動』朝鮮文で発行>

<大正11年11月頃『太い鮮人』発行、不逞鮮人は許可されず>

「……無政府主義者として会員は会員の自由意志を羈束する様な事をしませぬ。此の主義を理解し共鳴する会員の有志は主義として権力に反抗し之を破壊せんとするものでありますから、其の有志の間には直接行動を執る事を相談した事もありました」

第6回訊問調書1924年1月25日

問「朴烈は金重漢に対して爆弾の入手を頼んだ事があるか」

答「あります。私と朴の思想や意図する処は前回以来申し上げました通りであります。私も岩崎おでん屋に居た頃帝国議会に爆弾を投げ込んで有象無象を殺してやろうと考えて、岩崎おでん屋に来る政治ごろに帝国議会の内部の模様を色々詳しく聞いた事もありました。朴も私と同棲する以前から其の様な事を計画して居たそうであります。私と朴とは同棲するに際して互いに以前の秘密を告白し合いました。それ故私と朴との間に秘密はありませぬ。………私と朴とは同棲する以前日比谷公園や神保町の支那料理屋に会合して。左様した復讐の<シーン>(光景)を語り合った事も居りました。それ程ですから私と朴とはそこに共鳴して同棲することを決意し、同棲後始終その様な計画の相談をして居りました。大正12年1月頃私と朴と相談の上朴は金に上海から爆弾を手に入れて来てくれる様に頼んだのでありました。………」

「私と朴との同棲の第一条件が其処にありましたから、私等は始終其の相談をして居りました。」

「………有栖川だと記憶しますが……半病人だと云う事が書いて在るのを見て、朴は半死の奴なんか後ろから突いても突き甲斐が無い、面白くないから突き甲斐のある奴にしたいと云いました」

「それで私は一人ばかりではつまらぬ、もっと一緒くたにせねばつまらぬと云った事もありました」

<爆弾入手の経緯><暗号の手紙><桃色の日本封書><爆弾入手依頼を船員にした>

第7回訊問調書1924年1月25日 

[爆弾入手問題をめぐる新山初代、金重漢との経緯]

[新山、金子の微妙な関係]

<爆弾入手の次第><昨年1月中、金重漢を紹介される><黒濤会の李康夏から>

「昨年四月二十六日に金が其の入学して居た学校を退学して上京したと申して私方を訪ねて参りました」

<同年5月頃金に爆弾を上海から同年秋迄に入手依頼><発覚の恐れがあることを懸念>「先達日記の内容を申し上げました通り、朴でも私でも今に爆弾を入手し使用する事の考えを思い止まって居りませぬが、金は真実朴が其の意思を無くしてそれを依頼し愚奔したものと誤解して、不逞社の第四回例会の際朴に喧嘩を吹っ掛けて来たのであります。」

<大正10年冬頃新山初代との面識>

<昨年5頃再び新山と往復する、不逞社への加入>

「昨年6月頃金と新山とが『自擅』と題する雑誌の発行を企て……又、新山が朴に対して思想上行詰まって死なうと思って居ると云った時朴は新山にどうせ死ぬなら自分は今年の秋死なうと思って居るからもっと有意義に死んではどうかと申した………」

「私は政策上私と朴とが爆弾を手に入れる様計画して居る事を新山に秘し、朴一人が夫れを計画して居て私は夫れに関係して居らぬ振りをする為め左様か夫れなら朴が新山の心を引いて見たに過ぎない、朴を理解して呉れたなら朴が其の様な男で無い事が判ると云ふ意味の事を答へて置きました。」

<朴と金との喧嘩>

<(朴は)新山への私達の計画を言わぬ方がよいと……>

三問 上海の何処から爆弾を手に入れて来るのか。

答 其の事は私は知りませぬ。

第8回訊問調書1924年1月29日

<身体の事>

第9回訊問調書1924年3月19日

<爆発物取締罰則違反、追起訴>

<大正13年2月15日、爆発物取締罰則違反被告事件の追予審請求書中起訴事実を読聞けたり>

<金某李某との爆弾入手関係>

「…一層の事爆弾の事を自分が認めて置いて警視庁の連中の注意を自分に向けさせ、新山に向ける鉾を外せ様と決心して爆弾の事を是認し、其の関係丈けをお係り様に申上げて仕舞ったのであります」

「齟齬を来たして仕舞ひました」

「暗号の手紙の相手方は義烈団の金翰と云う人であり、其の手紙を取次で呉れた者は李小紅と云う官妓であったのであります」<昨年4,5月頃朝鮮の官憲に補縛されて、金翰は服役中><補縛されたので私等の計画が頓挫したのであります><李小紅は京城茶屋町の百八番地に住んで官妓をして居ります><義烈団との関係>

第10回2月31日

<金翰との折衝の次第>

「朴は無口の上に細かい事に頓着せぬ人でありますから、つまらぬ余計な事を私に喋らぬ風でありました。…

二問 暗号書の内容

「爆弾の事には触れて居なかった筈だと記憶します。」
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# by pugan | 2011-06-14 17:49
第11回訊問調書1924年4月10日

<朴と金翰との爆弾の事>

一問 最初から知って居たか。

答 「九月中朴が京城に行って帰って来てから…会見した事を聞きました。

「其の時の会見は朴と金翰との間に夫れ程進んだ爆弾の事に就ての交渉は無かったであろうと思ひます。私は其の会見の詳しい模様を聞いて居りませぬ」

「朴が同年十一月中再び京城に行ったのは主として金翰と爆弾の事を交渉するが為めでありました」

三問 被告は崔?鎮を知って居るか。

答 知りませぬ。

四問 朴は爆弾の事を相談したと申して居るがどうか。

答 左様でありますか。私は只今初めて其の事を聞きました。…私と朴とが一緒に為る以前の事でありますから、私が知らぬ筈であります。

第12回訊問調書5月14日

一問「被告が朴と相談の上金重漢に対して爆弾入手の事を頼んだのは皇太子殿下の御結婚期にそれを使用する考からであったとの前回の申立ては相違無いか」答「左様です」

二問「被告等が金翰に対して爆弾の事を頼んだのも矢張り殿下の御結婚期を期して居たのでは無いか。」

答「私は朴が金翰と連絡を執る為めに京城に行った頃には其の近い将来に坊ちゃんの御結婚式が挙げられると云ふ事を知りて居りました。

其の当時坊ちゃんの結婚式の時日は確り極って居なかったと記憶します。兎に角其の近い将来に結婚式の行列の実現される事が予想されて居りました。夫れ故私は其の最も好い機会の行列に迄に爆弾を間に合はせる為めに朴が京城に行ったのであったと記憶して居ります。

三問 「朴が京城に出発するに際して被告は朴との間に御結婚式迄に間に合はせる事を協議したか。 

答「私は朴と御成婚御式の際には坊ちゃんに爆弾を献上仕様と云う事で始終話合って居りました。夫れが朴の京城に出発する以前の事であったか只今確と記憶して居りませぬ。兎に角私は朴が京城に出発する頃から御結婚式に爆弾を使用する事が一番好いと思って居りましたので、朴も金翰に対しては夫れ迄に爆弾を間に合はして呉れる様にと云った筈だと思って居ります。」

四問「朴は京城から帰って後被告に対して金翰との間に御式迄に爆弾を間に合はす様に協議して来たと告げたか」

答「私は朴から其の様な話があったとは聞いて居りませぬ。朴は京城から帰って来てから私に愈々金翰から爆弾を分けて貰ふ様にして来たと申した丈けでありました」

五問「御式迄に爆弾を使用する事を協議したか」

答「記憶が残って居りませぬ」

六問「金重漢との関係

七問「誰に投げる

答 「つまり坊ちゃん一匹をヤツ付ければ好いのであります。」

「天皇は病人ですから…」

八問「誰が投げる」

答「無論私も朴もそれを投げる筈でありましたが、其の外同志の新山や崔圭しゅう、山本勝之にもそれを頼む心算でありました。……私と朴とは此の三人を使って私等が爆弾を投げると同時に議会や三越、警視庁、宮城等に手を分けて爆弾を投げて貰う心算でありました。……」

九問「皇太子殿下に爆弾を投げる事を唯一の目的として居たのか」

答「坊ちゃん一人に爆弾を投げれば好いのでありますが、……メーデー祭の時とか議会の開会式の様な時に其の爆弾を投げ様として考へて居りました。」

五行未入力」

一〇問「朴も被告と同じ様に主として殿下に爆弾を投げる心算で居たのか。」

答「左様であります」

一一問「被告は何故 皇太子殿下に其の様な危害を加へ様としたのか」

<人間の平等をめぐり意見を展開>

問「皇太子になぜ危害を加えようとしたか」

答「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば総べての人間は完全に平等であり、従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある又為されるであろう処の行動の総べては、完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

従て自然的存在たる基礎の上に立つ之れ等の地上に於ける人間に依って為されたる行動の悉くは、人間であると云ふ只一つの資格に依って一様に平等に人間的行動として承認さるべき筈のものであると思ひます。然し此の自然的な行為此の自然の存在自体が如何に人為的な法律の名の下に拒否され左右されつつあるか、本来平等であるべき人間が現実社会に在っては如何に其の位置が不平等であるか、私は此の不平等を呪ふのであります。

私は遂二三年前迄は所謂第一階級の高貴の人々を所謂平民とは何処かに違った形と質とを備へて居る特殊の人間の様に考へて居りました。処が新聞で

写真等を見ても所謂高貴の御方は少しも平民と変らせられぬ。御目が二つあって御口が一つあって歩く役目をする足でも動く手でも少しも不足する処は無いらしい。いや其の様なものの不足する畸型児は左様した階級には絶対に無い事と考えて居ました。此の心持つまり皇室階級とし聞けば、其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて居るのでありましょう。語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。

 元々国家とか社会とか民族とか又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に現在行われて居る処の神授君権説であります。苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に一般民衆を欺瞞して居る。

 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が此の神様の保護の下歴代の神様たる天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに明白に証明して居るではありませぬか。全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに死んで行くではありませぬか。此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。御役人さん左様でしょう。……寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。

天皇の現に呼吸して居る傍で多くの人間が焼死したと云ふ昨年の惨事は、即ち天皇が実は愚な肉塊に過ぎ無い事を証明すると同時に過去に於ける民衆の愚な御目出度さを嘲笑して居るものであります。

学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を擁護するものであるか否かの一事を標準として総ての是非を振り分けられて居る。そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官はサーベルを下げて人間の行動を威嚇し、権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。

嘗て基督教が全盛であった時代には其の尊厳を保つ為に、其の説く処の神の迷信的な奇蹟や因襲的な伝説の礎の揺がざる事を虞れて科学的な研究を禁止したと同様に国家の尊厳とか 天皇の神聖とかが一場の夢であり単なる錯覚に過ぎない事を明にする思想や言論に対しては力を以て之を圧迫する。斯くして自然の存在たる総ての人間の享受すべき地上の本来の生活は能く権力へ奉仕する使命を完ふし得るものに対してのみ許されて居るのでありますから、地上は今や権力と云ふ悪魔に独占され蹂躙されて居るのであります。左様して地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表者は天皇であり皇太子であります。私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから出発して居るのであります。地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって搾取されて居る。其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を現に搾取されつつある一般民衆に明にし、又それに依って天皇に神格を附与して居る諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る為めの方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、そうして従来日本の人間の生きた信条として居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって地上に生を断とうと考えて居りました。私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し光明を持たせたものに過ぎないのであって、取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、私自身を対象とするそうした考えが即ち今度の計画の根底であります。私自身を対象とする考え、私の所謂虚無思想に就いては既に前回詳しく申し上げて置きました。私の計画を突き詰めて考えて観れば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上に於ける権力の倒壊が窮極の目的でありました。私が坊ちゃんを狙ったのはそうした理由であります。」

一二問 「身体の都合は什うか。」

答 「身体の都合ですか。夫れはとっく前に済みました。

一三問「被告は改心しては什うか。」

答 「私は改悛せねば為らぬ様な事は断じてして居りませぬ。成る程私の思想や行動計画は他人の迷惑と為るから悪だとも云へませうが、然し之れと同時に夫れは私自身を利するものであります。自分の利の為めに計る事は決して悪では無く却って夫れは人間の本性であり生きる事の条件であります。若し自分の為めに計る事が悪であるとするなら、其の責任は人間自体にあり<生きる事>にあります。私に取っては自分を利する事は即ち善であると同時に自分を不利にする事は即ち悪であります。

然し私は善なりと信ずるが故に計画を行って来たのではありませぬ。為たいから為て来たに過ぎないのであります。他人が悪なりとして如何様に非難しようとも自分の道を枉げ得ないと同様に、御役人が善なりとして如何様に私を煽てて下さいましても、自分が為たく無ければ致しません。」

「私は今後も為たい事をして行きます。其の為たい事が何であるかを今から予定する事は出来ませぬが、兎に角私の生命が地上に在らん限りは<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」

第13回訊問調書1924年5月21日市ヶ谷刑務所

「坊ちゃん一匹をやっ付ければ好いと申し上げた点を 皇太子一人を殺すれば好いのであると申し上げて用語を訂正したいと思います……」

訊問、十ヶ月の「放置」
第14回訊問調書1925年3月5日

<金翰が義烈団ではないかという問い>

第15回訊問調書1925年5月4日

<自由に話した><大審院管轄事件として取扱う>

第16回訊問調書1925年5月5日

「……反省する訳には行かぬか。」「……到底反省の余地はありませぬ。」「……弁護士一切を御断りします。」

第17回訊問調書1925年5月9日市ヶ谷刑務所

「被告は目下の生活方法を全く変換して自然化学の研究方面にでも没頭する訳に行かぬか。」

「若し私に生を肯定することが出来る様になれば、或は御訊ねの様に自然化学の研究にでも入ることが一番私の気持ちに近い生き方でしょう。」

第18回訊問調書1925年5月9日市ヶ谷刑務所

<此程度で終わる、弁解することがあるか、23人の証言要旨、供述要旨、聴取書を告げる>

立松判事宛手紙

「……調書未だ云い足りない点が有りました。……尚其の節は私の『財産』をも御持ち下さる事。私宛の書信は、速くお廻し下さい。私出しの書信も速くお出し下さい。……市ヶ谷監獄独房で 金子婦人美」

第19回訊問調書1925年5月21日市ヶ谷刑務所、予審判事立松懐清

<……金重漢の申立ては独断がある、真意を明らかにしておきたい、上申書を出した>

「金さんが叛逆者としての信用を増す様に思はるることを話したのは事実です。併し私共は夫れを全的に信じはしなかったのです。さうしたことの上に其人への信用を投げ掛けるには私共は余りにも多く人間の言葉とさうして所謂同志への失望とを体験して居ます。……」

立松判事宛手紙

「今、朝の六時過ぎ。……二三日前差入れられた、或るロシア作家の論文集を開けて見たら、ふと斯う云う文句が目についたのをキッカケに、あなたに説教する。『生きる事を欲する人間に、生きる事を欲しないように説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与える人間に向って、彼には生きる事が極めて不愉快であろうと語る事は誠に滑稽である。と同様に……』云々。で私は、あなたに云います……『生きる事を欲しない人間に、生きる事を欲するようよう説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与えない人間に向って、彼には生きる事が極めて愉快であろうと語る事は誠に誠に滑稽である。』最後に、アルツイバシユフは云った。……判事さんあなたは不徹底で困る。……二十一日朝 金子婦美」

第20回訊問調書1925年5月30日市ヶ谷刑務所、予審判事沼義雄

「……刑法第73条皇室に対する罪に当る様にも思えるので、そういう事であれば事重大であり、管轄も大審院の管轄になる事となるから、当職も此事件に干与し立松予審判事と共助することとなり、今一応被告に対して確かめるのであるが、之迄………」「……皇太子殿下を亡きものにし様と計画したのであったか。」「左様です。」問「被告は朴と相談の上爆弾投擲を企てたに関わらず朴は主として天皇陛下と皇太子殿下を爆弾投擲の対象とし、被告は主として皇太子殿下を其対象とし二人の間に相違あるのはどういうわけか。」

答「比較的可能性の多いと思われた皇太子を第一対象として計画を進めた迄の事であって……」

左の歌を書いて置いてください。

谷合いの早瀬流るる水のごと砕けて砕く叛逆者哉

叛逆の心は堅し薊草いや繁れかし大和島根に

第23回訊問調書1925年6月6日東京地方裁判所、予審判事立松懐清

<21回22回は掲載されていない>

「……殿下に危害を加うることは計画して居たことは間違い無いか。」

「そうです」

「被告は殿下の結婚式が大正12年の秋頃挙行去るることをどうして知って居たか。」

「…新聞記事を通してあった様に記憶します。」

問「皇太子殿下の御結婚を期し殿下に危害を加えることは計画していたことは違いないか」

答「そうです」

問「日本古来の地に生まれたる被告に対しては特に反省して貰いたいがどうか」

答「日本古来の地に生まれたるが故に私の之迄の考えて居たこと、しようとして居たことがより必要であり、より正しいものであることを信じます」

特別主要調書予審終結決定

爆発物取締罰則違反被告事件予審を遂げ終結決定すること左の如し

主文

本件は当裁判所の管轄に属せず

被告人両名に対する勾留状を存す

理由

被告人両名は虚無的思想を抱懐するところ大正拾弐年四月中、治安を妨げ且つ人の身体財産を害する目的を以て爆弾を東京市内に使用せんことを共謀し、金重漢に対し、支那、上海より其輸入を依頼し、其承諾を得たりと云うに在り、仍て之を審按するに…

現状打破の先駆として皇室の倒壊を期するの要ありと信念し居たる折柄、大正拾壱年弐月、此被告人朴準植を識り其意図を同人に告白して投合を得たるの結果、茲に被告人両名は同年五月中、…代々幡町代々木富ヶ谷…屋舎等に同棲して其目的遂行を画策し、終に当時大正拾弐年秋比挙行さる可しと謂える、皇太子殿下の御結婚式の時に於て其行幸便を使宜の街路に擁し、畏くも爆弾を投じて 天皇陛下又は 皇太子殿下に危害を加えんことを共謀し、其用に供する為め

一、朴準植は大正拾壱年拾壱月比京城府に赴き、当時帝国政府に反抗する目的を以て組織せる暴力団体義烈団と連絡して朝鮮に爆弾の輸入を画策せる民族主義者朝鮮人金翰と会見し、其分与方を申入れて其約諾を得

一、大正拾弐年五月比東京市本郷区天神町三点下宿金城館等に於て数次無政府主義者金重漢に対し、支那、上海に赴きて右義烈団等と連絡し同所より爆弾を輸入せんことを依嘱し同人の約諾を得たるも都度齟齬を来し之を入手するに至らずして事発覚し、大逆を実行するに至らざりしものにして其嫌疑十分なりとす。

即ち之を法に照すに、被告人両名が他人に嘱して爆弾輸入のことを共謀したる所為は爆発物取締罰則第四条に該当すと雖も、天皇 皇太子に対し危害を加えんとしたる所為は刑法第七拾参条後段に該当し、裁判所構成法第五拾条第弐に則り大審院の特別権限に属する犯罪なるを以て刑事訴訟法第参百九条に依り管轄違いの言渡を為し、被告人両名に対する勾留状の存置に付き同法第参百拾八条第弐項を適用し主文の如く決定す。大正14年7月7日予審判事立松懐清」

金子文子、予審請求書訊問調書(第1回)1925年7月18日市ヶ谷刑務所、

刑法第73条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件予審掛東京控訴院判事立松懐清……

二問 年齢は。

答 御役人用は二十四年ですが自分は二十二年と記憶して居ます。併し本当のことを云えばどちらのことも信じて居ませぬ。又信ずる必要もありませぬ。年が幾つであろうと私が今私自身の生活を生きて行くことには何の関係もありませぬから。

三問 族称は。 

答 神聖な平民です。

四問 職業は。

答 現に在るものをぶち壊すのが私の職業です。

五問 住居は。

答 東京監獄です。

六問 本籍は。

答 諏訪村 だそうです。

七問 出生地は。

答 横浜市だそうです。

第2回訊問調書8月29日

「……被告の両親は何れも被告が卯年の1月25日に生れ当年23になると申して居るが……」

第3回1925年9月2日、立松懐清

「…爆弾投擲の意思」

第4回1925年9月21日、東京地方裁判所にて、立松懐清

「朴と同棲後の生活方法」<朝鮮人参を売ったり会社ゴロ>「どんな人が被告等に好意を有って補助して呉れて居たか。」「有島武郎辺りです」<生活費>

第5回1925年9月22日立松懐清「反省する余地は有りませぬ。」意見書1925年9月30日公判開始決定1925年10月28日「本件に付公判を開始す。」
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# by pugan | 2011-06-13 17:51

金子文子・朴烈大審院判決



理由

被告準植は其の幼時より受けたる環境の影響、民族の現状に関する不満の念よりして

偏狭なる政治観及社会観に陥り遂に地上の万類を絶滅し自己亦死するを以て究極と

する其の所謂虚無主義を抱持するに至り此の思想を実現せしむる為我 皇室に対し

危害を加ふるの非望を有し、被告文子は幼にして父母の慈を享けず荒らたる家庭に

生立ち早く既に惨憶に流離辛苦の余骨肉の愛を信ぜず孝道を否定し権力を呪ひて 

皇室を蔑視し現代社会は其の身を絶望の域に陥らしめたるものなりとして其の無情を

憤り生類の絶滅を期する虚無的思想を懐くに至り大正十一年二月頃被告両名相識るや

互に其の思想を語りて意気投合するものあり同年五月頃

東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷に一戸を構へ同棲するに尽いて両者の

略一致せる極端なる思想は輒滋々高潮して其の理想を実現せしむる為具体的計画を

樹つるに至れり大正十二年の秋頃挙行あらせらるる趣に伝えられたる 皇太子殿下の

御婚儀の時を機として至尊の行幸又は 皇儲の行啓を便宜の途に擁し鹵簿に対し爆弾を

投擲して危害を加へ奉らむことを謀議し其の企画遂行の用に供する爆弾を入手せむが為

被告文子と協議の上被告準植は大正十一年十一月頃朝鮮京城府に赴き当時義烈団と

画策せる朝鮮人金翰と同府観水洞四十七番地なる其の住居に於て会見し爆弾の分与を

申し込み其の約諾を得、越て大正十二年五月亦被告文子と協議の上被告準植は

東京市本郷区湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他に於て、

数次無政府主義者金重漢と会合し前示義烈団と連絡して上海より爆弾を輸入せしむことを委嘱し、

其の承諾を得たるも之を入手するに至らざりしものなり証拠を案ずるに以上の

事実中被告朴準植に於て金重漢は義烈団と連絡を取ることを承諾せるのみこして

爆弾輸入に付承諾せるに非ずと否認し被告金子文子に於ては金重漢に対する依嘱に

関与せずと否認する外前示犯罪事実は総て各被告の当公廷に於て認むる所なるのならず

本件犯罪及其の原因、動機に付ては左に挙示する所に拠りて其の証憑十分なりとす

被告朴準植が朝鮮京城に趣き金翰と会見し爆弾分与の交渉を為したる事実は各被告の

訊問調書に同趣旨の供述記載あり又証人金翰の訊問調書に

大正十一年十一月頃日本政府に反抗する目的を以て組織されたる

暴力団義烈団の金元鳳と呼応し朝鮮に爆弾の輸入を画策し当時其の数個既に安東県に到着し居り

数日を出ずして入手する手筈なりし折柄京城に於て朴準植と会見し同人より

爆弾分与を依頼せらし之を承諾したる趣旨の供述記載あり別件記録中

(治安警察法違反爆発物取締罰則違反事件を指す以下皆同じ)同証人訊問調書にも

京城観水洞四十七番地なる居宅に於て朴と会合し爆弾の分与を受諾したる旨及朴とは

妓生李小紅事李小岩の訊問調書に金と朴との間に於ける文書往復に付取次を為したる

旨の供述記載あるとに依り之を認むべく金重漢との関係に於ては証人金重漢の訊問調書に

大正十二年五月中湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他数か所に於て朴烈と

会合せる際同人より爆弾を輸入する為連絡を取ることを依頼せらし之を承諾したるに相違なき

趣旨の供述記載あると別件記録中の被告金重漢の訊問調書中に右と同趣旨及自分は上海に

赴き独立党又は共産党の者に朴の意思を伝へ其の連絡を取り取次を為さば自分の任務を了る筈にて

朴に費用の支出を求めたる旨及或時朴烈より今秋御婚儀に使用する為上海の義烈団と連絡を取り

爆弾を手に入れ呉れと頼まれ其の位のことならば行ふべしと承諾したるに朴烈は費用は有島の処より

調達することとせる旨の供述記載あり同記録中に於ける被告朴準植の訊問調書に爆弾の入手を

金重漢に依頼したる旨の供述記載あるによりて之を認む

金翰及金重漢に対する依嘱が被告両名の共謀に出でたることは被告朴準植の当公廷に於て

自認するのみならず同被告の訊問調書に金翰金重漢に対する依嘱に付ては金子文子も其の

相談に与しる旨の供述記載あり別件記録中の被告金子文子の訊問調書に金重漢の人と為りを

認めたるより朴と相談の上朴より金重漢に対し爆弾を上海より輸入せしむことを依頼したる旨の

供述記載あるに由り之を観れば被告両名の共謀に出たること明にして被告文子の当公廷に於て

金重漢の依嘱には関与せずとの弁疏は之を採用せず

右爆弾入手の企図が畏くも我 皇室に対し危害を加へんとするの目的に出たることは被告両名の

当公廷に於て自認する所なるのみならず被告朴準植の訊問調書に 天皇陛下 皇太子殿下に対し

危害を加ふることを計画したるに相違なき旨被告金子文子の訊問調書に同趣旨の各供述記載あると

別件記録中に於ける被告朴準植の訊問調書に自分は日本より虐げらるる朝鮮民族の一人として日本の 

皇室に対しては拭ふべからざる叛逆心を有する旨、朝鮮の一般民衆は我 天皇陛下 皇太子殿下を

名実兼備の実権者にして倶に天を戴くこと能はざる讐敵なりと思ふが故に

其の存在を地球より抹殺し去るを以て朝鮮民衆の革命的独立の熱情を

刺戟するに有効なる一方法なりと考へたる旨殊に大正十二年秋季に挙られるべき 

皇太子殿下の御結婚期に爆弾を使用するは朝鮮民衆の日本に対する意思を世界に

表明するに最好機なりと思ひ出来得る限り其の時期までに間に合ふよふ

計画を進めたる旨而も是単なる理想に止まらずして其の実現を期し計画を

進めたる旨の供述記載あり又別件記録中に存する被告金子文子の訊問調書に

大正十二年四月頃の新聞紙上に 

皇太子殿下の御結婚が同年秋季頃に行はるるとの報道掲載ありしより

此の時期を好機として爆弾を投擲せんと計画したる旨、朴が京城に赴き

金翰に交渉したる当時に於ても其の時期までに爆弾を間に合はし呉れるよう話したる筈にて

金重漢との関係に付ても自分と朴との間には行列に使用すべく話したることある旨及 

天皇陛下を爆弾投擲の対象とせざりしにあらさるも比較的可能性多き 

皇太子殿下を第一対象として計画を進めし旨の供述記載あるに依り明確なり 

犯罪の原因動機に関しては被告人朴準植が

朝鮮慶尚北道聞慶郡麻城面の一農家に生れ家貧なるに拘らず学に志し

朝鮮総督府の施設せる公立普通学校の過程を卒へ進みて

高等普通学校師範科に入るに至り日鮮人間に差別待遇あるものと做し

日本の統治に不満を懐き民族的独立の思想を抱きて

大正八年十月頃東京に来り各種の下級労務に服し僅に生活を支ふるに?ひて

広義の社会主義に入り次で無政府主義に変じ更に虚無的思想を抱くに至り

人類社会は弱肉強食を事とする醜悪の府なりとし自己は圄(固)より万物の存在を否定すると同時に

堪へられざる虐待の下に弱者として忍従するを得ず総ての物の絶滅を志し

一面朝鮮民族の一人として日本の権力階級に対して叛逆的復讐心を有し之が為我 

皇室に対して報復せんと企て畏くも 天皇陛下 皇太子殿下に危害を加え奉らむことを

図りたることは別件記録中に存する被告朴準植の訊問調書に其の旨の供述記載あり

又被告金子文子は佐伯文一金子きくのの間に私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り

孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め人生を悲観し、

社会を呪ふに至り大正九年の春東京に出て爾来或は夕刊売となり或は夜店商を為し

又或は他家に雇はれ其の間学校に通学したることあり又思想に関する書籍を耽読し

且各種の主義者と交り過去の生活の総て強者より蹂躙せられたりとして権力を否認し

人類の絶滅を期するを理想とし大正十二年二月頃被告朴準植と相知るや両人

の主義思想の投合するあるよりして東京市外代々木富ヶ谷に一戸を構へ同棲し

遂に本件犯行を為すに至りたることは別件記録中に於ける被告金子文子の訊問調書に

其の旨の供述記載あるに依りて之を認む

之を要するに本件犯行は以上叙述するが如く被告等の環境の影響と謬しる

社会上政治上の観念とに依り其の主義思想の悪化せるに基くものにして

被告朴準植は日韓併合の真相を解せず

被告金子文子は矯激なる偏見に囚はれ肯謀りて畏くも 

皇室に対する大逆事犯を企画し因て以て光輝ある我国史に

一大汚点を印したる其の罪責は極めて重きものと謂はざるべからず

法律に照すに被告両名の前示すの如く 

皇室に危害を加へむとしたる所為は刑法七十三条に該当し

右の目的を以て金翰金重漢に爆発物を注文したる所為は

明治十七年太政官布告第三十二号爆発物取締罰則第三条に該当し

爆発物の注文は 皇室に対し危害を加へむとしたる所為に外ならざれば

刑法第五十四条第一項前段に依り重き同法第七十三条の刑を以て処断すべく

訴訟費用は刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条に依り

被告両名をして連帯負担せしむべきものとす仍て主文の如く判決す

検事小山松吉同小原直関典

                                     大正十五年三月二十五日

  大審院第一特別刑事部

              裁判長判事
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# by pugan | 2011-06-12 17:53
金子文子
A 生い立ち「何が私をこうさせたか」
幼児期 横浜・山梨 無籍ということを自覚させられる
六才にして早人生のかなしみを
知り覚えにし我がなりしかな
少女期 朝鮮
「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」
一九二四年一月二三日第四回訊問調書。
金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一男編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。大審院判決の理由においてすら「………私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め……」と断定された。

一九〇〇年頃 佐伯文一は仕事で滞在していた諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。

一九〇二年頃 きくのは文一と横浜に出る 

一九〇三年一月二五日 二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。文一ときくのは二五年、立松判事から証人訊問を別個に聴取され、記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。文一は土方部屋事務や神奈川県巡査に従事していた。

一九〇八年から〇九年 文子の叔母(母の妹)、たかのが山梨から横浜を訪れ父と同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼みこみ地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と「駆け落ち」。母は男と同居を繰り返す。中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされる虐待を受ける。次の母親の同居相手、小林は寝て遊んで暮らし母も仕事を離れてしまい、文子はその母により「女郎屋」に売られようとする(第二回被告人訊問調書、二四年一月一七日)

一九一〇年、一一年 文子は母と共に「八歳の秋」小林の郷里山梨県北都留郡の村に移る。さらに小林と別れた母の新たな「婚家」先や母から離れて諏訪村の母の実家で暮らす。 
「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」(第二回訊問調書)

一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。祖母が無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと、母方の祖父母の五女として入籍させられる。

一九一五年頃 文子は岩下家から女中扱いをされ始める。

一九一七年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を卒業。その夏岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。………中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。………南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」
一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。『彷書月刊』執筆原稿改定



B 自立期 山梨→東京・上野
勉学と宗教、社会運動への接触、朴烈と知合う

一九一九年四月一二日 朝鮮を去り二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母親の実家に戻る。

一九一九年夏 文子は父から母の弟元栄(文子の叔父、当時二二歳、一里離れた望月庵の住職)との婚約を強制されたまま、父が叔母たかのと暮らす浜松に移る。裁縫学校に入るが秋には退校、東京での勉学希望を父から拒否され生活面での圧制がいやになり諏訪村に戻る。叔父は愛人がいながら、文子の素行が悪いと因縁をつけ破談にする。「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」(第二回訊問調書) 

一九二〇年四月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚の家でひと月前後暮らす。上野の新聞捌売り店に住込み上野三枚橋で捌き売りを始める。女子医専入学を目標として午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

上野山、さんまい橋に より縋り  
     夕刊売りしこともありしが

一九二〇年夏 上野で演説に来ていたアナキストから冊子を購入。露天での粉石けんの商い、浅草の砂糖屋の女中と、勉学との両立のため職を変える。

一九二一年一月 本郷の社会主義者の印刷屋堀清俊方に住込みで働くがひと月余りで出る。学校で社会主義者と知り合い関連文献を読み、その思想に影響を受け始める。

一九二一年 一一月 「金子文子訊問調書」による。社会主義者が集る日比谷の小料理屋、通称「岩崎おでん屋」の

女給として住込む。昼は働き夜学に通い新山初代を知る。
少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの出会いを経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。
 新山は二〇年三月、女学校を卒業後、正則英語学校夜学に通う。金子文子はそこで知り合い、「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語る。
 金子文子は東京で社会主義者と交流を始め、朴烈と出会い彼に力強さを見出す。「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

C 活動期 東京府世田谷池尻、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷、黒濤社 不逞社での活動、新山初代からの影響『労働者セイリョオーフ』、アナキストの仲間たちからの影響

新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。二三年五月、朴烈、金子文子らの不逞社に加入、仲間の金重漢と恋愛。八月中旬、新山は雑誌『自擅』を金と共に発行。八月二〇日、根津での大杉呼びかけによるアナキストの同盟を目論んだ集まりに参加。
金子文子は二二年の春、世田谷の池尻で朴烈と同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を共に発行、執筆もする。

我十九彼二十一ふたりとも
同棲せしぞ早熟なりしかな

一九二二年二月 中西伊之助『赭土に芽ぐむもの』改造社刊行される

一九二二年四月 朴烈は淀橋署に一六日間検束される。[英国皇太子来訪のため予防拘束]ギロチン社、中浜哲は皇太子の訪問地を移動

一九二二年四月末か五月始め 金子文子、朴
烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻四一二 
相川新作方二階 現在地世田谷区池尻二の三
一の一五か一七

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊号発行
連絡先は自分たちの住居 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生「ボロ長屋の二階より」金子活浪

一九二二年八月一〇日『黒濤』第二号発行
「此の態を見て呉れ」烈生「思ったこと二つ三つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

中西伊之助「一本の蝋燭」活字潰し八行、実質二段分の創作を掲載。以降続編の掲載は無し。二面。三面には名刺広告、「赭土に芽ぐむもの」著者、中西伊之助 東京府下中渋谷六九四」

一九二二年八月 朴烈は信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]


一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表
秋にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆する。金子文子の訊問調書における記憶と『労働運動』紙掲載記事では結成月に違いがある。


一九二二年九月 黒濤会分裂。「私が朴と知り合った以前大正十年秋頃とか朴は元鐘麟、徐相一、申焔波等各種の鮮人主義者を糾合して『黒濤会』と云ふ名称の思想研究会を組織し『黒濤』と題する機関雑誌を発行して居りました。此の会は私が朴と一緒に為ってから後も尚継続して居りましたから、私も此れに加入しましたが、大正十一年九月頃共産主義者派の会員と無政府主義派の会員との思想上の衝突から分裂して、無政府主義側は『黒友会』を、共産主義側は『北星会』を組織しました。(金子文子第五回訊問調書、二四年一月二四日)


一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子「破れ障子から」文子、去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた
一九二二年末 布施辰治「文子さんを語る」『運命の勝利者朴烈』「大正一一年の末頃だったと思う。前から知っている朴烈氏の妻君だという名乗りを上げて訪問を受けた瞬間は、大変キビキビした婦人だという印象を受けた。………柳某の渡米の送別会を不逞社の一味が襲撃したというので西神田警察署へ検束……刑務所で朴烈氏の有名で貴重な長髪を既決拘留刑執行のために刈取ろうとした紛議から私に電報を打ってよこしたので面会ができ、正式裁判の申立もでき結局公判で無罪になった事件の弁護と、その無罪を警察官憲の糾弾にまで逆襲した人権蹂躙官憲糾弾演説会が神田三崎町の朝鮮キリスト教青年会館で開かれた一連の交渉と協力は、私と朴烈氏とを大変親しいものにしたのである。私のそうした関係とその後の事件と最近朝鮮の甥を通じて私のところへ寄越している手紙等から、私の見た朴烈氏と私が先に挙げた初訪問の文子さん、およびやはりその後の交渉と事件を通じて知った文子さんとは、非常に強く強く結びつけられるもののあったことに、一種の不思議を感じさせられるくらいです。………文子さんの自殺の原因は後に詳しく書いておこうと思うが、ある者の飛ばした妊娠のためだなということは誣罔も甚だしいデマであることを断言しておく。………私がその前最後に朴烈氏に会ったのは、いわゆる『不逞鮮人』の発行が禁止されて『太い鮮人』になったり、出版法の問題その他何の計画だったかは忘れたがともかく何かの問題で、カンパを起こすというような用件で、震災の翌日には私の所へ来た時です。………」

一九二三年三月 黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊、未見 

一九二三年三月一五日『現社会』第三号発行 世田谷池尻四一二

一九頁に中西伊之助の著作広告
『赭土に芽ぐむもの』『汝等とその背後』『死刑囚と其の裁判長』
「××」烈生「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
一九二三年三月 金子文子、朴烈 東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷一四七四 番地に移る。
現渋谷区富ヶ谷一-二八 NTT裏辺り 二〇〇三年五月 現地確認
一九二三年四月 金子文子、朴烈は不逞社を組織
一九二三年五月 金子文子はメーデーの集会、デモを闘う
「……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……」『現社会』第四号六月三〇日
《今年のメーデー》  掲載紙『我等の運動』
              金子 ふみ子
 二三日前から検束に次ぐに又検束其の数二百とは、特に寛大さを声明した其の筋の宣伝であつて実は五百名近くと聞きます。
 五百名! 斯くも多数なる戦闘分子を引き抜かれた当日の示威運動が一昨年よりも比較的活気が抜けた様に見えたのも又事実です、而し表面に現はれた此の事実は決して我々の戦闘気分が鈍つたのではなく、寧ろ我々の血がますます白熱化して、奴等をして謂ゆる寛大さをにほわせるだけの餘祐を輿へなかつたためだと思ひます。
 略
 旗をもぎ取られた其の時! 口を緘せられた其の時! 其の時こそは我々はいさぎよく、ダイナマイトに最後の運動を打ち切ることが出来ると信じます。
 朝鮮内地に於ける鮮人の同志の勇敢なる思ひ切ツた運動振りを見せツけられて、ますます此の感を深ふします。
掲載紙『我等の運動』創刊号、大正十二年六月十五日印刷納本、大正十二年六月十七日発行、第一巻第一号、定価金拾銭、自由人社刊、巣鴨宮仲二六五六、創刊号内容■宣言■我等の主張■メーデー鳥瞰■ロシアの悲劇 バアクマン■朝鮮問題と僕等の立場 李苦山■反動思想家生田長江君を駁す 加藤一夫

一九二三年五年二一日 朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、
二〇〇二年一一確認

一九二三年五月二七日 不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ

一九二三年六月一〇日 不逞社第二回例会、望月桂を招く

一九二三年六月一七日 不逞社第三回例会、加藤一夫を招く

一九二三年六月二八日 朴烈、中西伊之助の出獄を出迎える
「朴烈君のこと」
山田清三郎
 震災当時、朴烈君が殺られたといふ噂があつた。代々木富ヶ谷の寓居から引かれて行つたきり、消息がわからなかつたからだつた。……解禁された新聞の記事は、僕の心をむち打つた。新聞を前に、頭を抱へて、自分を恥ぢた。面接も許されたといふから、早速たづねたいと思ひながら、未だに僕は、はたさずにゐる。……僕が朴君と始めて知つたのは、僕が新島栄治と下落合に同居してゐた頃、新島か、或は飯田徳太郎かに紹介された時からであるやうに覚えてゐる。中西伊之助の出獄を中野の刑務所に迎えに行って、一緒になつたり、朴君から頼まれて鄭然圭君の本の会の世話をしたりなどして、段々と親しくなつて行つた。下落合にゐる頃は、今でもあるが、高田馬場駅前の牛飯屋で、十銭の牛飯を、よく一緒に食つたものだ。…

一九二三年六月二八日 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会

一九二三年六月三〇日 『現社会』第四号発行
府下代々木富ヶ谷一四七四 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 [現東海大附属高校] 
「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……
一六頁に中西伊之助の入獄と出獄日時の消息掲載
一九二三年七月一五日 不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

作家平林たい子は二人と交友し文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。………〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。………」(「金が欲しさに」二八年『婦人公論』一二月初出、『著作集』収載)。
リャクとは会社回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。同居した同志である朴烈との共同した活動を表現している。

一九二三年八月三日 黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開かれる

一九二三年八月一〇日 黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が朴烈による爆弾計画の話を暴露 

一九二三年八月一一日 不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、朴烈と金重漢と論争
一九二三年八月二九日 警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ
思ひ出深し九月一日
一九二三年九月三日 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束
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# by pugan | 2011-05-23 16:38

金子文子と中西伊之助2

D 獄中期 市ヶ谷 四つの文書と抹殺された獄中日誌

D 獄中期 市ヶ谷
四つの文書と抹殺された獄中日誌

《訊問調書》 金子文子自身のテキストではなく裁判所書記の筆記。しかし思想を表現させようとする文子の意思は現されている。
調書で表現された平等主義、天皇という存在への疑問
「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。…」
《獄中からの手紙》 監獄当局の検閲があるが文子の意思が適確に語られている
二月二六日の手記 一晩で書きあげる
手紙を読み解くことの必要
《自伝》 朴烈を知る時点まで。栗原和男が編集、刊行される
《歌》 主として手紙に書かれる 

抹殺された獄中日誌 第三回訊問調書記載「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年一一月六日の欄に私は次の様な事を書きました。……」

 調書で表現された平等主義、天皇という存在への疑問
「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば総べての人間は完全に平等であり、従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある又為されるであろう処の行動の総べては、完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である」

手紙を読み解くことの必要
「…即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、人格的な結束ではあるまいか。今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。…」

「今はあの世の逝って了った初代さんと一緒に、柄にもなく芹とりに行った日 のことなど、如何にも忘れ難いロマンチックな思い出となって、甦って来る。人間的な ──そうです、あまりにも人間的な欲求が頭を拡げます」

「……妾は人間として行為し、生活して来た筈だ。そして妾が人間であることの基礎の上に、多くの仲間との交渉も成立していた筈だ、そしてそう見ることによってばかり初めて真の同志ではなかろうか、即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、人格的な結束ではあるまいか。今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。 相手を主人と見て仕える奴隷、相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを、ともに私は排斥する。個人の価値と権利とに於て平等観の上に立つ結束、それのみを、只それのみを、人間相互の間に於ける正しい関係として妾は肯定する、従って妾と他人との交渉の一切を、その基礎の上にのみ求めることを、妾は今改めて、声高らかに宣言する」

一九二三年一〇月二〇日 不逞社同志が治安警察法違反で「予審請求」される。

被告朴準植は虚無思想を抱き権力の破壊を念としたるより有力なる同志の集団を組織せんことを企て本年四月中旬豊多摩郡代々幡町大字代々木富ヶ谷千四百七十四番地自宅に於て相被告金子文子…相会し無政府主義傾向の同志を糾合団結し其主義上必要なる社会運動及暴力に依る直接行動を目的とせる秘密の団体を組織せんことを協議し被告等共謀の上不逞社なる名称の下に表面同志の親睦計るの如く装ひ其実前記の目的を達成すへき秘密結社を組織して之に加入し被告……は六月中就れも右不逞社に加入したるものなり…

一九二三年 一一月二七日 新山初代死去。二二歳。

「ふみちゃん」と友は呼ばはり
鉄格子窓に我も答へぬ獄則を無視して

一九二三年一一月頃 中西伊之助「朝鮮人のために辯ず」執筆『婦人公論』一一年一二月合併号掲載
 一 ……
──それは即ち朝鮮人の不逞行動と云ふ流言蜚語でありました。それに対する日本人の強い憎悪と反撃でありました。かうした混乱時代に、正確な報道機関のない場合、かかる事柄も、或は無理でないかも知れませんが、少しく朝鮮を研究し、朝鮮人を意識してゐるものならば、あまりにその真相の空虚なるに驚かずにはゐられないのであります。…
 二
 私は、所謂不逞鮮人と世間から貶称されてゐる朝鮮青年をかなり多く知つてゐます。そしてその人達の訪問を受けることもあります。
……殊に古代東洋文化史上から見るならば、朝鮮はむしろ日本の先進国であると云つても、決して過言ではないのであります。……
(明治初年の征韓論に触れ)日本人が朝鮮人に対する知識、感情の錯誤は、この近代的歴史の事実が生み出した不幸であると云つても、決して誤らないのであります。そしてこの不幸が、今尚深く日本人の潜在意識となつてゐるのであります。
 三 (報道への批判)
 試みに、朝鮮及日本に於て発行せられてゐる日刊新聞の、朝鮮人に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられてゐますか、私は寡聞にして、未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは、殆どないと云つていゝのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷、──あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人──近頃は不平鮮人と云ふ名称にとりかへられた新聞もあります──の不逞行動を報道してゐます。それも、新聞記者の事あれかしの誇張的な筆法をもつて。……

朝鮮及朝鮮人に対する日本人の近代的知識は、私から見れば、絶無と云つてもいゝのでありまして、それに対する知識の普及が全く欠如してゐると云つても決して差支えはありません。……

朝鮮は、四千年の歴史を有する、東洋の君子国であります。……朝鮮民族は、平和の民であります。彼は決して侵略の民族ではありません。彼の歴史は、明かにそれを証明してゐます。…
朝鮮は芸術の国であります。東洋の形象美術は、むしろこゝにその発祥を為したものであると申しても、決して過言ではありません。否、世界史上に於ける、美術の先進国であると申しても、差支えないのであります。私は、あの楽浪時代の建築美術が、その同時代に、世界のどこにあれくらゐの発達を遂げてゐたかをきいてみたいのであります。

…日本人の兄姉よ、どうか卿等のその脳底から、黒き幻影としての朝鮮人をとり去つて下さい。そして、明るい、愛すべき民族としての朝鮮人をながめて下さい。日鮮問題は、そこから雪のやうに解けて行きます。

一九二四年一月二二日 金子文子第三回訊問調書 

問 虚無的主義を抱く様に為ったと云う次第は什うか「社会制度の欠缺による侮辱の総てでありました。社会制度の欠缺は私が無籍であったと云う事に依って私が社会から受けた待遇が一端として十二分に証明して居ります。前回申上げました通り私は幼児無籍でありました。つまり私は日本の土地の御厄介に成り乍ら日本の人間でも無く何処の国の人間でも無く私の籍は天国に在ったが為め、私は日本の人間で無いのに拘らず、日本の制度から精神的にも堪え得られない虐待を受けました」            

問 日本の国家社会制度に対する被告の考え方「第一階級は皇族であり第二は大臣、其の他政治の実権者であり、第三階級は一般民衆であります。第一階級たる皇族を丁度 摂政宮殿下は何時何分に御出門と云う様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思います」

「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年一一月六日の欄に私は次の様な事を書きました。人間の命なんて権力の前には手毬の様に他愛なく扱われて居る。御役人方遂々私を監獄に投り込みましたね。だがね悪い事は言いませぬよ。今度の事件を具体化した様な未然に防ごうと御思召なら此の際です私を殺して仕舞はなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても再び私を社会に出したなら、必ず必ず遣り直して御目に懸けますよ。貴方方の御手を煩わす世話の無い様に先ず私の此の身体を亡して御目に懸けますよ。まあまあ私の此の身体を何処へなりと持っていらっしゃい。断頭台へでも八王子へでも。どうせ一度は死ぬ身体です。勝手に為さるがいい君等が私を左様する事は飽く迄も自分に生きたと云う事を証明して呉れる丈けです。私はそれで満足します」    
一九二四年二月一五日 《爆発物取締罰則違反、追起訴》爆発物取締罰則違反被告事件の追予審請求書中起訴事実を読み聞かせる…(金子文子第九回訊問調書二四年三月一九日)

一九二四年五月一四日 平等主義、天皇の存在、天皇国家批判「…消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上に於ける権力の倒壊が窮極の目的でありました。私が坊ちゃんを狙ったのはそうした理由であります。……私は今後も為たい事をして行きます」 (金子文子第十二回予審訊問調書)

一九二四年二月 朴烈「一不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ」執筆、汝等暴虐なる日本の権力者階級よ………他国他人種又は他民族の暴戻に対しては、美しい正義人道の名の下に殆んど狂的に迄で興奮して騒ぎ廻る癖に、自分達の夫れに対しては、何処を風が吹くかとばかりに受け流すが如き最も破廉恥なる汝等日本の権力者階級よ?………東京監獄一独居房にて  
              
一九二四年五月一四日 

金子文子、天皇国家批判「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば総べての人間は完全に平等であり、従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。 具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある又為されるであろう処の行動の総べては、完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

……此の心持つまり皇室階級とし聞けば、其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて居るのでありましょう。語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。

元々国家とか社会とか民族とか又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に現在行われて居る処の神授君権説であります。苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に一般民衆を欺瞞して居る。

斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が此の神様の保護の下歴代の神様たる天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。

然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに明白に証明して居るではありませぬか。全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに死んで行くではありませぬか。

此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。御役人さん左様でしょう。

……寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。

……学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を擁護するものであるか否かの一事を標準として総ての是非を振り分けられて居る。そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。

法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官はサーベルを下げて人間の行動を威嚇し、権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。

又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。 ……地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表者は天皇であり皇太子であります。 私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから出発して居るのであります。地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって搾取されて居る。

其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、

又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を現に搾取されつつある一般民衆に明にし、又それに依って天皇に神格を附与して居る諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、

故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る為めの方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに 他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に過ぎない事、

従てそれを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、そうして従来日本の人間の生きた信条として居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、従て総ベての〈モノ〉は自分の為に存在し全ての事は自分の為に為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」


「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって地上に生を断とうと考えて居りました。私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し光明を持たせたものに過ぎないのであって、取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、私自身を対象とするそうした考えが即ち今度の計画の根底であります。

私自身を対象とする考え、私の所謂虚無思想に就いては既に前回詳しく申し上げて置きました。私の計画を突き詰めて考えて観れば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上に於ける権力の倒壊が窮極の目的でありました。私が坊ちゃんを狙ったのはそうした理由であります。

……私は今後も為たい事をして行きます。其の為たい事が何であるかを今から予定する事は出来ませぬが、兎に角私の生命が地上に在らん限りは〈今〉と云う時に於ける最も〈為たい事〉から〈為たい事〉を追って行動する丈は確かであります」第十二回予審訊問調書  

一九二四年一二月二九日 朴烈「働かずにどしどし喰ひ倒す論」執筆         

一九二四年一二月三〇日 朴烈「俺の宣言」執筆、人類は生れながらにして唯如何にしても死なざらんとする生命慾の塊であると同時に、……

一九二五年三月一日 朴烈「陰謀論」執筆

一九二五年五月二一日 金子文子、立松判事宛に手紙を書く「今、朝の六時過ぎ。……二三日前差入れられた、或るロシア作家の論文集を開けて見たら、ふと斯う云う文句が目についたのをキッカケに、あなたに説教する。『生きる事を欲する人間に、生きる事を欲しないように説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与える人間に向って、彼には生きる事が極めて不愉快であろうと語る事は誠に滑稽である。と同様に……』云々。で私は、あなたに云います……『生きる事を欲しない人間に、生きる事を欲するようよう説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与えない人間に向って、彼には生きる事が極めて愉快であろうと語る事は誠に誠に滑稽である。』最後に、アルツイバシユフは云った。……判事さんあなたは不徹底で困る。……二十一日朝 金子婦美」(金子文子第一九回訊問調書に転載される)              

一九二五年五月三〇日 大逆罪であると判事から告げられる。歌二首を記す。「…刑法第七三条皇室に対する罪に当る様にも思えるので、そういう事であれば事重大であり、管轄も大審院の管轄になる事となるから、当職も此事件に干与し立松予審判事と共助することとなり、今一応被告に対して確かめるのであるが、之迄……」「……皇太子殿下を亡きものにし様と計画したのであったか」「左様です」問「被告は朴と相談の上爆弾投擲を企てたに関わらず朴は主として天皇陛下と皇太子殿下を爆弾投擲の対象とし、被告は主として皇太子殿下を其対象とし二人の間に相違あるのはどういうわけか」答「比較的可能性の多いと思われた皇太子を第一対象として計画を進めた迄の事であって……」 (金子文子第二〇回訊問調書、市ヶ谷刑務所、予審判事沼義雄)                   

一九二五年六月六日 問「皇太子殿下の御結婚を期し殿下に危害を加えることは計画していたことは違いないか」答「そうです」(金子文子第二三回訊問調書東京地方裁判所、予審判事立松懐清)

一九二五年七月七日 予審終結決定

一九二五年七月一七日 検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法七三条と爆取罰則で改めて予審起訴

一九二五年七月一八日 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類年物品の授受禁止にする 金子文子、朴烈第一回予審訊問

一九二五年八月 栗原一男は不逞社の消息に関して運動紙に記述
編輯餘滴
「尚ほ、私用に紙面を借りるが、あの震災直後、同志の一網打尽の収監によつて、殆ど手も足も出しやうのなかつた、市外代々木富ヶ谷一四七四現社会社、不逞鮮人社は事実上、そのまゝになつてゐるが、その跡始末に就ても亦其後限りない迫害に消息不明だつた同志に就ても、大抵お答出来る。心に思つて下さる諸君は照会して呉れ給へ」。クリバラ記
『自我人』大正十四年八月十八日印刷 八月二十日発行、第一号、編輯発行兼印刷人、松永鹿一、東京西巣鴨宮仲二五七三
発行所自我人社東京市芝区仲門前町三ノ三 一部十銭、一面《ツツヂの花》と題して文子の歌を数首掲載

ギロチンに…、ブルヂュアの庭に…、ぐんぐんと、生ひ育ち行く…、友の服…、一度は捨てし
三面《世は太平無事》朴烈
 聞けば、今度の××でも、亦例の何とか法を、取扱ふと云ふんぢやないか。
 矢張り誰が内閣を作つても日本の国を治めて行くためには、是非とも例の何とか法が必要だと見えるね。
 だが必要とあらば、為政者は、何とか法にしろ、遠慮なくドシドシ発布施行して、その権力の行使を、徹底させるがよい。そうして、それによって、日本の国が、全く泰平無事に、治めて行くことが出来れば、誠に結構だ、そしてまた、それとは正反対に行つても、それは誠に結構だ。それは、どうであつても結構だ。従つて日本の為政の徒は、その外境の屁の如き毀誉褒貶なんかにくよくよせずに、正直にそして頑強に、最も大胆にその信じ得る処を、上滑的でなく、徹底的に断行して貰たいものだ。…… 
四面、刑務所消息、朴烈生
昼寝の運動
…お差入れ下さった書籍と衣類とは即日受取った。(原文が中略)


一九二五年一一月一一日 接見禁止を解く

一九二五年一一月末か一二月初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

【報道】

一九二五年一一月二五日『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉              

一九二五年一一月二五日『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画〉《近く刑務所で正式の結婚式、自叙伝を書く文子と読書にふる朴烈》「朴列、金子文子の両人は東京刑務所に収容されそれぞれ独房におとなしく公判の日を待ってゐるが最近は訪れるものもなく、係り弁護士に朴烈の実兄である朴庭植(四〇)が時々訪れて両人を慰めてゐるさうである、最近係り弁護人である布施氏が両人を訪れると両人は非常に健康で、両人とも読書三まいにさびしく日を送り、文子は自分が今日になったのは血のにじむやうな生活がかく至らしめたものでいまその歩いて来た過去の生活を「生い立ちの記」として執筆中で既にいま五百枚からの紙数になり引続き稿を続けてゐるさうである又朴烈は専ら読書に耽つてゐるが今度の取調べに対し可なり不満を抱いてゐる模様で「日本の権力階級に対する不てい鮮人」とか「陰謀論」などをこれに執筆し裁判長に提出したさうである、それは裁判官が必要以外な取調を行ひ必要以外の圧迫を加へたといふて憤慨してゐるとかであるが金子文子との間柄は単に内縁といふことになつてゐたのでいろいろ友人や弁護士の心やりや本人等の希望で近く裁判所側の諒解を得て正式の結婚式を所内で挙げることになつてゐる。」
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# by pugan | 2011-05-22 16:40

金子文子と中西伊之助3

「朴烈君のことなど」──冬日記──

              中西伊之助

冬の薄日の射す午過ぎ、僕は大阪から帰るなり市ヶ谷監獄にかけつけた。…B君は漸くこの頃、接見禁止が解けたのであつた。それを大阪にゐた僕に急報されたので、すぐその日の夜行で帰つて来たのだ。戒護主任が立会つて、客用の応接室で会はしてくれた。これには、僕も感謝したかつた。B君は××家だ。その人格を尊重してくれる戒護主任には好感がもてた。…──もう三年も会はないのだ。さうだ。震災前、僕の出獄を迎へてくれた時に会つて、それきりで、僕は千葉の海岸へ?を養ひに行つてゐるうちに、震災だつたのだから。…僕が、今年の夏、朝鮮へ行つた時の、あちらの事情を話したら、いかにも嬉しさうにきいてゐた。…(註 二五年八月、朝鮮滞在、朝鮮プロレタリア芸術と同盟の歓迎座談会八月十七日、大阪)「監獄の中で、正式に結婚式を挙げると云ふ話だが、なにか必要なものがあつたら」と、僕は云つた。「えゝ」と、彼は不思議さうな顔をした。「あれは嘘ですよ、あんなことを新聞が書いたんです」と、戒護主任が云つて、笑つた。「………」僕は黙つてしまつた。新聞記者なんて奴は、なんて不謹慎なことを書く奴だ。と僕は思つた。彼は今決してそんなことを考へてゐる、のではない! 

美貌の若い夫妻が同一の犯人だと云ふので、

軽薄な新聞記者が、そんなことを書いたのだ。

B君は、三年の牢獄生活でも、あまり疲れたと云ふところは少しもなかつた。却つて、小さつぱりとして、晴々としてゐた。──それ以上、ここでは書けない。それでも、同じ監獄にゐる細君のF子さんのことを云ふときらりと目に泪さへ見えた。「今日、家内がF子さんに会ふことになつてゐる」と僕が云ふと、「さうか」と云つて、嬉しげにほゝ笑んだ。三、四十分も話して、別れた。階下まで一緒に来た。網笠の下から、彼の、細そりとした、顔に、微笑を含んだのが、暗い廊下に見えた。

「左様なら。」「また来るよ、二、三日のうちにね、左様なら」黄色い日が、門の檜の梢にからみついてゐた。大審院の公判は、十二月の七、八日だ。さうすると……僕は、青空をふり仰いだ。そこの落葉樹の梢から、ぱらぱらと葉が落ちた。数週間前までは、古田君が、あゝしてゐたのだつたと、僕は思つた。

『文芸戦線』第三巻第一号一九二六年一月

【報道】

一九二五年十二月二日『日出新聞』

金子文子の公判は延期か

十二月八九両日開廷される事となつてゐるが金子文子から身体の異状其他の都合にて延期を申請してゐるから多分許可せられるであらうと…

一九二五年一二月二二日 朴烈「所謂裁判に対する俺の態度」執筆

      名前はハングル表記で朴烈

俺は総ての権威を否定する。従って国家の権威を否定する。従って又、其の法廷に於ける裁判の権威を否定する。俺に於ては、唯だ俺自身のみが、絶対の権威である。……

一九二六年二月大審院公判が開始される  

一九二六年二月二六日 夜、金子文子は手記を執筆、翌日の公判に提出

現に此処に監獄のお役人を前に置いて私は云ひます──。

私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。

一九二六年二月二七日  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑

一九二六年二月二八日 第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

一九二六年三月一日 第四回公判、弁論、金子文子の最終陳述、朴烈はせず       

一九二六年三月二〇日『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止二月二六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。              

一九二六年三月二三日  結婚届けを出す

大審院判決前日の歌 

色赤き脚絆の紐を引き締めて

我後れまじ同志の歩みに

一九二六年三月二五日  大審院死刑判決

【報道】                

一九二六年三月二六日付(前日発行)『東京日日新聞』夕刊、朴烈夫妻は死刑大審院でけふ判決朴烈事朴準植その妻金子文子両名の最後の審判の日が来た、廿五日の大審院界隈は東のまだ白まぬ頃から押しかけた傍聴人が午前六時頃までに三百余名、百余名の日比谷署員や憲兵がこれを整理し八時から入廷開始、長髪、ルパシカ、赤ネクタイなどの鮮人を初め栗原一夫、後藤学三、武良二、木下茂など朔風会、自然兒、解放戦線などの面々が八分通りを占め特別傍聴人の中には白根男、加賀谷皇宮警察部長などが見える。

九時十二分被告両名が文子を先に入廷する、文子は矢がすりの銘仙の袷にすゝき模様のメリンスの羽織、束髪をダラリとくづし金ぶち眼鏡の奥からうるんだひとみをキヨロつかせてゐる、朴は白リンスの朝鮮平服、ピカピカする頭髪をトンボのやうに真二つに分けてゐる、ふたりは椅子にかけ見かはして軽くうなづき温い茶をグッと呑みほす、やがて廿七分牧野裁判長以下五名の判官と立会いの小山検事総長、小原検事等着席、横田大審院長その他お歴歴もうしろに控へる、一脈厳粛の気が漂ふ、牧野裁判長は荘重な口調を以て先づ朴の悲惨な生ひ立ちから両名の犯罪事実の経路を述べた後、一段声を張りあげて『被告両名を死刑に処す』と断じた、この時朴は悠然と立ち上り『ご苦労さま』とはつきり述べ且つ何事か口走つたが付添ひの看守長等に引つ立てられ文子は流石にくらくらとなつて暫く立ちすくみ、やがてこれも悲しい声を振りしぼつて低く手をちよいとあげた、傍聴人は総立ちとなり一道の殺気流れると見る間もなく裁判長以下退場し被告両名も廷外へ拉致し去られた、時に九時卅五分。

(判決掲載年本籍と姓名)略

主文 被告両名を死刑に処す

(事件の概要、司法省発表)略

…帝国の基礎を破壊して反逆的復讐を…

…金子は朴の前記企図に同意し相共に之が目的を遂行せんことを謀り…

判決を終つて 金子も共同正犯 七十三条適用の理由

牧野裁判長曰く

牧野裁判長は語る『十数年前幸徳秋水を出し更に難波大助が現れ今また朴夫妻のやうな人間の出たことは誠に遺憾に堪へぬ、朴もふみ子も才智があり頭脳も明せきなのだから真面目に働けば相当社会に貢献したらうものを逆心を起したのはをしい、世間で噂される如くふみ子は朴に引きずられたのではなくて朴に共鳴し共に謀つたのだから刑法七十三条の適用を受くる責任が充分あるものと確信する』

死刑執行 本月末か来月初めにならう

朴烈夫妻の公判記録はこれを整理し行刑当局の手を経て司法大臣に差出しその命令により死刑の執行が行はれる訳であるが難波大助事件とは周囲の事情を異にするから執行はさまで急がぬらしく月末か来月初旬になるだらうと。

【資料】

金子文子に会いに上京した母親  

飯田徳太郎   

 (一)  

朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日-三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。李王世子殿下暗殺未遂事件の徐相漢、曩に朴烈と一緒に拘引された張詳重、韓?相、鄭泰成等もその中に居た。僕は主に中西夫人と知人の噂話をしていた。其処へ布施弁護士の代理の人が、死一等を減ぜられて無期懲役になった旨の通知書を持ってやって来た。一同は夫れを取囲んだ。



皆は文子の実母を囲んで、改めていろいろと談合した。



二十五日公判廷からの帰途刑務所に立ち寄り、面会所で三四十分間程文子と語り合ったのである。  

文子は毫も未練がないと云った。母親も、無論こうなった上は立派に死んで呉れ、世間態もあるから……と言って二人は互いに抱き合って、今生の別れを惜しんだ──



やがて時間が来た。看守が、みんな一度に面会させるからと云って、一同を大玄関へ導いて行った、玄関の石段の上には、黒い紋付を着た朴烈が、戒護主任と看守に守られて立っていた。真先に進んで行った者が、いきなり石段を駆け上って朴に抱き付こうとしたが、看守の手に遮られた。戒護主任は一同を制して、 「今日は一切言葉を交わしては可けない。ただ顔だけ見て引取って貰い度い」 と言い渡した。



朴烈に別れて玄関を背にした一同の口からは、一斉に深い吐息が吐き出された。その日は文子への面会は許されなかった。



(二)  



後の六人だけが文子の母親を見送る為に新宿駅まで歩くことにした。



発車時間に間があるので一同で三越の新宿別館へ彼女を案内し、食堂で簡単な昼飯をとった。その間中、婦人は悲しみの色も見せず、総てに満足し、感謝している様に見えた。中西夫人が主となっていろいろ説明する言葉を、さも東京見物に来た老婦人らしく一々嬉しそうに聴きとるのであった。



それから、辺りを憚るように小声で文子の話をしつづけた。

「あれは、子供の頃から頭が傑れてよかったので、私も安心して手離したのです。それに入り組んだ事情もありましたものですから………けれども朝鮮で引取って呉れた伯母がひどく虐待したので、十五六の時逃げて帰りました。それから本人は学校の先生になるつもりで勉強したのですが、それもうまく行かずに東京へ出て来たのです。……略

【報道】

一九二六年三月三十日『東京日日新聞』「母と娘が……悲しき抱擁」「死刑の判決を聞いて文子の母刑務所へ」

布施弁護士から出京を促された文子の母たか子は廿五日午前五時四十一分甲州日下部駅発、十時卅九分飯田町駅着、直ちに市ヶ谷刑務所を訪づれた、この時文子は死刑の宣告を受けて下げられて来たばかりであつた、刑務所では重大な罪人ではあるが特別の詮議を持て奥村看守長立会の上五分間の面会を許した。略          

「泣いて泣いて涙もかれた忘れられぬ朴烈の顔……文子の実母曰く」

【甲府発】朴夫妻に減刑の恩命が下る内意があるときいて山梨県東山梨郡七里村?子のわび住居にゐる文子の生みの母せひは比較的元気で『え? そりや本当の事ですか』とにぢり寄り流石に包み切れぬうれしさを見せた『でもあんな者達はそんなお情けなどかけずに……』とうなだれる。『私は廿五日に東京へ出て翌晩帰へつて来ましたがもう泣きつくして涙も出ません、何事も…前世の約束事です、略

【報道】

一九二六年三月三十日『東京日日新聞』「最後の望みも叶つて獄中で正式の結婚」「恩命を前に朴烈と金子文子届出即日受理さる」

……布施弁護士は極力これに反対してゐる文子の兄共冶、母親せひを説き伏せて遂に正式結婚の運びとなり死刑宣告の二日前の廿三日同氏の手によつて市ヶ谷刑務所から朴烈文子の拇印をおし市ヶ谷刑務所の看守長奥村輝氏の自書証明の付記された結婚届けが牛込区役所に提出され即日受理された。

 略

これにつき牛込区役所の戸籍掛主任小松原氏は『前から噂は聞いてゐたので出るか出るかと心待ちにしてゐると果して廿三日に布施弁護士の手で提出されました何しろ囚人同志の結婚届といふのは全く前例のないことですからこれが処置については大分頭を悩ましましたが裁判所の意見を聞いた上書式その他に何等の違反した点がなかつたので正式に受理したわけです』と語つた。

一九二六年三月二十六日付 『東京日日新聞』

聖恩、逆徒に及び 朴烈夫妻は減刑 死一等を減じて無期に 江木法相昨夕摂政殿下に拝謁 親しく勅許を仰ぐ

「朴烈事……然る仁慈に富ませらるゝ雲上の思召はこの逆徒の上にも加へさせられて特に減刑の恩命が降ることゝなつた、この恩命は憲法第十六条に明示する大権の御発動であつて治鮮の上にまた思想対策の上にいかに大御心をなやませたまふかが拝察される」

閣議を終へて法相伺候 有難き恩命を拝し近く正式発表「……閣員の同意を得た江木法相は摂政殿下の御都合を伺つて後午後五時廿分自動車で議員を出て同卅五分赤坂御所に伺候、親しく謁を賜はつた上朴烈夫妻判決について言上するところがあつた、畏くも摂政殿下には法相の言上する次第を聞し召されたが聖恩洪大特に死一等を減じて無期懲役に所するといふ恩典を御聴許になつた、法相は感泣して退下、再び議院で閣僚にこの旨を報告した、正式に近く左の形式で発表される事になるであらう」

赦状

死刑囚朴準植(二五)

死刑囚金子文子(二五)

特に死一等を減じ無期懲役に処す、内閣総理大臣勅を奉じてこれを宣す、内閣総理大臣名一九二六年三月二九日『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は? 

流石に夫を案ずる文子〉……判決後四日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

【資料】中西伊之助が二六年当時からの妻と別れたことを述べる。一九三四年刊行の著作、後書きにて。

中西伊之助著『満州』、昭和九年二月五日発行、二月十五日十版、序文、本著出版に就て

      ──序に代ふる言葉──

「妖怪が、日本の雑誌出版界を徘徊してゐる。──満州金融資本の妖怪である。本著は、明らかに満州金融資本の利益と対蹠的に立つ、儼乎たる独立の意志によつて創作された作品である。………(一九三二年七月脱稿)

「某大出版社との契約があつたのである。けれど脱稿と同時に内容を一瞥したその出版業者は、直に出版を拒絶した。作者は脱稿まですでに三年近い歳月をついやした。略」

「この間、約一ヵ年をついやした。出版は殆ど絶望だつた。作者の窮乏は極度に達した。…略」

「本著の出版にあたって、作者の感銘の一つは、同棲十数年の作者の妻が、愛児をすてゝ家を去ったことである。苦難の作家生活を営むものにとつて当然受けねばならぬ運命であらう。作者は本著のために、彼女をどのくらゐ失望させ、そして苦しめたか知れない。貧苦十数年の長い生活に、彼女はよく忍んで来た。愛児も今春すでに十二歳になって、母の手を要しなくなった。もっとゆとりのある、もっと人間らしい生活を求めてゆく彼女を作者はひそかに祝福してゐる。彼女の去った後、彼女に代って愛児の世話をしながら、本著のために努力してくれた愛甥富士雄にも感謝したい。……」淀橋柏木の寓居にて 作者記

また『無産運動闘士傳』野口義明著、社会思想研究所、三一年にも「中西伊之助」項目が掲載され当時の妻に触れている。

「……この時組合長である彼は全線を指揮して活躍目覚ましきものがあったがこれがためこの年入獄すること二回。この年三十三歳の彼は十八の新妻を迎へたが、新婚の夢も圓らかなるべきその頃、矢継早に二度も牢獄に繋がれたといふので夫人の親許でビックリ仰天、娘を取り返すといふ騒ぎもあつたが、夫人は夫を信じて動かず、その争議後、二三十人の失業者を抱えて生活に窮した彼と彼女は、新宿の電車の終點でアセチリン瓦斯をつけて鹽鮭を売つたりしたものだ。」
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# by pugan | 2011-05-21 16:43

金子文子と中西伊之助4

E 死去後

同志たちに金子文子の生き方は伝わる。そしてそれは今日まで続く。

① 二六年「遺骨」を同志宅に移し追悼会を貫く

② 備前又二郎、小野十三郎、『黒色青年』『叛逆者の牢獄手記』に描写された追悼。

植民地下の朝鮮、そして今、韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬される。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、警察から朴烈の兄に引き渡すという遺骨への徹底した管理態勢をとった。当時の新聞もその一旦を報じている。

「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある………………当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

一九二六年七月二三日 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩十分余り

七七年前、彼女の遺骨は朝鮮聞慶(ムンギョン)へ埋葬されたが、遺骨の行方をめぐり、事件が起きていた。事件としたのは官憲の側である。

 新聞は官憲側の立場で報道している。代表的な見出しは「金子文子の遺骨を盗去る 追悼の会がすんでから やうやく取戻された」

 概説すると、布施辰治宅から八月一日の早朝に朝鮮の同志が遺骨を追悼会のためにある同志宅へ移動させた。布施宅を包囲していたはずの池袋署は見逃しあわてて母親や同志たち二十名余りを検束した。しかしすぐに行方は判らず、公然の事務所を兼ねていたアナキストの部屋を急襲する。ようやく落合の前田淳一宅に安置されていたのを発見したという内容である。

 なぜ布施弁護士宅を包囲していたのであろうか。遺骨の出入りを管理していたのである。大逆事件の(犯人)であった者は死してなお遺骨は管理され追悼会が開かれることは許さないという政治的弾圧である。法律上の根拠があるわけはない。治安維持の立場である。追悼会といっても機関紙などで通知している時間はもとよりあるはずもない。同志たちがせめて遺骨を安置して偲ぶという行為までを認めないのである。

 「遺骨持逃げ」というの池袋署の談話は「盗人猛々しい」ということである。同志宅から奪ったのは官憲、池袋署である。ここに治安維持を最優先とした国家の正体が暴露されている。金子文子の遺骨、その奪われた遺骨は警視庁により東京から朝鮮の聞慶警察署に鉄道便で送られた。

 金子文子の死去した日は七月二十三日とされている。それは宇都宮刑務所栃木支所による発表でしかない。弁護士、母親、結婚相手朴烈の兄弟への死亡直後の迅速な連絡をすることなく遺体をすぐに刑務所の共同墓地に埋葬してしまった。全ては塀の中で進められたのである。「縊死」という発表に疑問をもった布施辰治弁護士と同志たちは仲間の医師を同行し検分のための遺体の発掘と仲間たちへの遺体引き渡しを追求した。刑務所は判断をたらいまわしにするも宇都宮刑務所長の引渡し決定でようやく七月三十一日に栃木町の共同墓地にて母親に渡された。ただちに医師が検分したが死後七日前後も経て正確な検分は困難であり死因は曖昧なまま火葬せざるを得なかった。一行は東京に戻り遺骨は同夜東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅に安置される。そして警視庁池袋署は数十名の警官で布施宅を包囲、監視をする。このような状況下で前述の「事件」が起きたというわけである。

 二週間後、朝鮮から朴烈の兄が遺骨を引き取りにくる。朝鮮に兄が戻り、八月三十日の 官憲が金子文子の墳墓を厳重な監視下におきながら訪問者もいないとの宣伝、見棄てられたという印象を日帝の植民地支配、官憲の手先となっている朝鮮での日本語新聞は伝えるのである。厳重な監視状態におきながら、一方で訪問者がいないという矛盾した報道をしている。

 刑法七三条(大逆罪)で「裁かれた」者は遺骨になっても囚われ続け人々から遠ざけられた。           

(『トスキナア』執筆原稿より)

山田昭次著『金子文子』では中西伊之助が遺骨の移動に関っているかのような記述があるが遺骨移動に関しては新聞記事一紙だけを参照したためか、誤読、誤認識である。同書では〈中西たちが遺骨を秘密のうちに移したのは、遺骨の朝鮮移送に対する警察の妨害を免れるためだったのであろう〉と記述。『朝鮮時論』掲載の中西の投稿を読めば中西は関与していないことが覗われる。

また『ある弁護士の生涯──布施辰治──』布施柑冶著、岩波新書においても布施の遺体発掘、死因究明の業績と遺骨の朝鮮への埋葬問題を混同している。同書では〈F氏は遺骨を引取って朝鮮の朴家の墓地へ埋葬の手続きをとった〉とある。

新聞は八日後に報道。

【報道】

一九二六年七月三十一日        

『読売新聞』「書き残れた手帳が抹殺され、引き破られて──ただ一通の遺書すらない 当局の失態は免れぬ」……文子は収容の時九百枚の原稿用紙、二本の万年筆、二個のインキ壺、七十五銭の切手を携へ乍ら一回の文通も許されなかつた斯くて彼女には一通の遺書なく余白なきまでに書綴られた三冊の手帳は当局が黒で抹殺し引破ってゐるかきらるゝ心で彼女の母は『仏に対する礼を尽して下さい』と一時間半も当局にかき口説いた而して遺留品として受け取つた新聞包には櫛三つ、現金四十五円廿八銭、万年筆『労働者セイリオウフ』、ダヌンチオの『死の勝利』、スチルメンの『自我経』の三冊があつた。而も書籍は到る処切り取られてゐる「せめて満足に読ませて遣りたかつた」と近親者は声を呑んだ。尚ほ文子の着物外所持品が三月前栗原氏宛に発送されて今も届かないといふ疑問一つ。十分間で絶命したといふ彼女を駈付けた支所前の斎藤医師が人工呼吸をしたのに遂に蘇生しなかつた事、当時検死した馬島医師が会見を申込んだが何故か逃げ廻る事など遂に謎は解くべくもない。

『大阪朝日』七月三十一日            

金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された

三十一日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万一に備へてゐたが一日午前五時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥十畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら二三名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後六時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等一味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等廿三名を釈放するとゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の二名が三十一日夜来布施氏方に詰めてゐたので右二人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが四十数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)

一九二六年八月二九日 



一九二六年九月 中西伊之助、金子文子の死を語る

『朝鮮時論』Vol1 N-roⅣ SEPTEMBER 1926 EHO欄 

柏木より           中西伊之助

O兄、

『朝鮮時論』をありがとうございます。……

O兄、金子文子さんは、とうとう自殺しました。それも既に新聞で御承知だらうと思ひます。公判の言ひ渡しを受ける一週間ほど前、私は妻と二人で面会に行きましたが、それが文子さんにたいする永久の別れだつたのです。今更らながら人生と云ふものが考へられます。あの若い、美しい文子さんが、一塊の骨となつて東京へかへつて来た時、私は文子さんのお母さんと池袋駅に出迎へに行つたのです。お母さんは、ともすると涙ぐみながら、生前の文子さんのことをもの語ります。私は、母と云ふものの尊さを思はないではゐられませんでした。

O兄、その翌日のことです。東京へかへつた文子さんの骨が紛失してしまひました。その結果が私や、文子さんの母さんたちまでも検束されねばならないやうなことになりました。私はお母さんたちと、半日池袋署に拘留されたのでした。なんのことだかさつぱり解りませんが、再び骨が発見れたので、家へかへつて来ました。暑い日の拘留は、文子さんへのなにかの手向けともなりませう。

O兄『朝鮮時論』はいゝ雑誌です。しかし経営はなかなか困難だらうとお察してゐます。朝鮮にも、日本人の手で、こんな雑誌が一つぐらいあつてもいゝのです。在鮮日本人の手で、経営されてゐる。新聞雑誌の従来のものは、あまりに超時代的産物です。あれでは朝鮮の青年が経営してゐるものに比較して、あまりに悲惨な対象です。日本人と云うものが朝鮮人よりもどのくらゐ、遅れてゐるかが、あまりに、明白に裏書きされるではありませんか。……         (八月十一日)        

【参考】同雑誌の文芸頁

詩及創作 ──朝鮮詩論年第一巻年第四号──一九二六年の無詩題シュミット毅 慟哭 (訳詩) 李相和 小説 飢餓と殺戮(和訳)  崔曙海 小説 黒薔薇の歌(創作) 鯊勲 小説 ピアノ(和訳及エスペラント訳)玄鎮健 一九二六年八月一六日 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く          

一九二六年八月二九日 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る

【報道】                

一九二六年八月三〇日 文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目 死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

一九二六年一一月四日             

《金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで》「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』                      

一九二六年一一月五日             

「金子文子の遺骨は予定の五日午前十時埋葬を変更して午前九時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官二名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面八霊里(聞慶邑内を去る西北二里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の二名であった。」『京城日報』一一月七日夕刊

一九二六年一二月一三日『京城日報』《訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし》

日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面八霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ一回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』

一九二七年七月一五日

「黒姫百合──金子文子さんへ──」

備前又二郎  追悼詩歌             

我戀す──ソフィアを

オロシアなる  ソフィアのごとき 女を

秘密結社のプランに就て

夜もすがら語らえり 黒濤社の 夏の一夜よ

左様(アデイアウ)なら 同志よ !

確と握りし君が拳の把握の今も忘れがたかり

「労働者セイリオフ」を胸に秘め 死に生きし君の  ………………の心しみゝに可憐し

命絶まる その刹那まで 

一筋に……………………に生きし 面影偲ぶ

『解放新聞』第五号一九二七年七月十五日、東京市外目黒駒場七八三、解放戦線社、後藤学三、農民労働者の解放は農民労働者自らの力に依りてのみ成就せらる、一面下段掲載

不逞社・真友連盟事件を契機とした四人の弾圧死

最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。

[自殺した(?)金子文さんのこと]

『黒色青年』一一号 一九二七年八月
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# by pugan | 2011-05-20 16:45

金子文子と中西伊之助5-1

一九二六年の弾圧

三つの大きな「弾圧と事件」があった。

金子文子・朴烈の「大逆事件大審院公判」

黒色青年連盟の「黒旗事件」(銀座事件)。

朝鮮テグ(大邱)の読書会グループにかけられた弾圧、「真友連盟事件」。

 従来、個別の事件と弾圧でしか語られていない。詳細に論じられているのは金子、朴の「大逆事件」だけであり、他の二つは断片的な記述だけである。しかし囚われた同志たち、関連づけられた組織は密接につながっている。

 当時、日本と朝鮮の官憲は国家権力の意を受け朝鮮半島、中国、日本列島の東アジアにおけるアナキズム運動、社会主義運動、共産主義運動、民族主義運動の壊滅を企図した。台湾、朝鮮への支配の徹底と中国への本格的侵略を開始するため各地域における活動を分断し孤立化させることが急務であった。その官憲の企図は八〇年近く経た今日にも及び全体像を把握することの困難を強いている。

 関東大震災を機に国家権力は戒厳令下、究極の治安弾圧を行使し、軍隊、警察、民間の暴力によって朝鮮人、中国人、社会主義者を虐殺した。その実績をもとに一九二五年、従来の治安警察法を超える治安法としての治安維持法を制定し、合法的、恒久的、法律の名のもとに社会体制を変革しようとする人々への弾圧を開始した。 

囚われたアナキストの死

一九二三年、関東大震災後の戒厳令、二五年の治安維持法制定と暴圧を行使する政治状況は整えられていた。従来、金子文子・朴烈の大逆事件においては金子文子の獄中死は知られている。さらに三人のアナキストたちが過酷な獄中弾圧が原因として病死したことは知られていない。彼女彼らの死は個別にも語られることもない。一五年前の大逆罪弾圧、幸徳事件では二四名のうち一二名が刑死し、さらに獄中病死者と弾圧の犠牲者が出ている。この金子文子・朴烈の件でも当初関連づけられた不逞社同志の人数は多かった。しかし大逆罪で大審院に付されたのは二人だけである。金子文子・朴烈が同志たちへの波及を阻止することと引き換えに、皇太子を打倒対象としていたことを予審で容認したのである。

結果として刑死者はなかったが、一連の経緯を調べる限り不逞社、黒友会への弾圧を端緒として関わった同志たちの死がある。

新山初代は関東大震災後、不逞社の仲間への逮捕が続くなか新山も九月二四日、警視庁に連行され治安警察法違反の容疑で逮捕。取り調べで病気が悪化、危篤状態で釈放。一一月二七日未明、芝の協調会病院で死去、二二歳であった。一二月二日、母親、妹たちと女学校の同級生一人だけの寂しい葬儀が行われたと新聞は伝える。        

洪鎭祐は一九二八年五月一八日午後五時二五分死去、三二歳。不逞社、黒友会に参加、朴烈、金子文子らと共に活動。朝鮮文アナキズム機関紙『民衆運動』、『自壇』創刊。関東大震災後逮捕。二四年夏、市ヶ谷を出獄、朝鮮に帰る。在郷一年、同志を呼合した「黒旗連盟」を組織するも逮捕され同志一〇名により不穏な計画と運動に着手したと、治安維持法により懲役一年の判決。服役中病が重くなり仮出獄をいったんはするが残余刑数ヶ月を大田刑務所で送り再び重体となる。京城大学病院にて、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に見送られ死去。

金墨(金正根)は一九二八年八月六日死去。三九歳。金子文子の死因追及のため同志四、五人、布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴く。東京に戻り追悼会を催さんとしたが遺骨が持ち出された件で検束。そのまま栗原、椋本と共に朝鮮へ送られ真友連盟事件で五カ年の懲役判決。大邱監獄に於て服役。肺患に罹り、二八年四月、最早見込みなしと出獄を許され、父親に抱かれ自宅へ帰る。「やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿」。家の周りは警察が厳重な警戒、同志友人等の訪問も自由にならないなか多量の喀血をなし八月六日、死去。

金子文子・朴烈の裁判過程から大審院判決後にかけて、同志たちは黒友会、不逞社の活動を継承する。

官憲の資料(『高等警察要史』慶尚北道警察部刊、三九年三月発行、六七年復刻版)に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が記述されている。

「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め……」

「内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等はあくまで朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て」

 さらに『高等警察要史』は不逞社が弾圧を受けた後に朝鮮に戻ったメンバーの名を挙げている。「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。ここには不逞社と真友連盟を結びつけた記述があり真友連盟を当初から機会があれば潰すというこんたんが認められる。

大審院開始前後に東京に滞在した朝鮮のアナキスト、チェ・カムニョンの回想からも黒友会の存在が明らかにされている。

「黒友会のイ・ホングンをしばしば訪れるようになった。………………黒友会の応接間、南側壁には朴烈、金子文子、新山初代などの写真が、北側壁には大杉栄、伊藤野枝の写真が貼ってあった。」さらに不逞社が二七年二月に黒風会と改称しチェも参加と語られている。

真友連盟事件は第二不逞社事件ともいうべき弾圧である。国家権力は朴烈、金子文子の大逆事件においては治安警察法ですら他の同志を公判に持ち込めず、黒色青年連盟による黒旗事件(銀座事件)において警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫した。国家権力が治安維持力の回復を誇示するため、アナキストたちによる「大逆犯」金子文子の追悼行動を契機として黒色青年連盟に参加していた椋本、栗原、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものである。                         

『高等警察要史』にはフレームアップされた真友連盟事件の概要が記されている。再び徐東星の名が出されている。

「一 大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが……朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるもの」

 不逞社のメンバーであった徐東星が大邱に戻り読書会を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付けている。すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのである。

「………同年十一月連盟員、方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず」

 方漢相が東京を訪れたのは大審院の公判傍聴が目的であろう。当初一二月に開廷されるはずであり、それに合わせての一一月の東京訪問である。               

「両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり」この記述が二人への更なる支援のための東京訪問であるということを証拠付けている。

 栗原一男、椋本運雄、金正根へのフレームアップは治安維持法を適用するため黒色青年連盟と関連づけている。

 また、金子文子、朴烈への死刑弾圧に対処するため栗原一男が事前に二人の身内、朝鮮の同志たちと接触したことも「事件」と関連付けられている。一九二六年四月から始まる。

「二、犯罪事実(一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年(一九二六)四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際………」

 金子文子、朴烈が刑務所内で結婚届を出したのが三月二三日、大審院死刑判決が二五日、減刑が本人に伝わるのが四月五日であるが栗原は急きょ判決直後に朝鮮に向かい朴烈の兄を訪れたのではないか。
 
 栗原自身も不逞社のメンバーであったが予審終結後に釈放され、金子と朴への救援活動、面会を続けていた。そして大審院法廷は一般傍聴人が第一回開廷直後に禁止されたが特別傍聴人となり二人の裁判を支えた。官憲にとっては栗原が裁判所からかちとった権利と二人への救援活動が憎々しかったのではないか。

 裁判所の一部は国家権力に抗することができず、免訴に対する検事抗告へ抗告裁判所は以下のように断定し、前の免訴を取消し公判に附している。この決定にはグループとグループを単純に結びつけることでしか「証明」できない治安維持法フレームアップの本質が示されている。

「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、」

「被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、」

「又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、」

「同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、」

「其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又は財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」

 椋本は金子文子の遺骨を新たに結成した黒化社の事務所で預かり、それ故官憲からの報復を受け、真友連盟に関わる治安維持法違反によりフレームアップ弾圧され懲役三年の実刑となる。



「自然児連盟は都合上解体、残務整理、府下上落合六二五 前田淳一君方」『黒色青年』一九二六年四月。次いで「旧自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼弘胤の三君、それに文芸批評社の麻生義君が一緒になって黒化社をつくった。機関紙『黒化』を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来月初旬より続々とパンフを刊行する由」(『黒色青年』二六年五月)

 
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 深沼火魯胤(弘胤)の獄中記「避難漫言」によると(『激風』創刊号、二六年六月掲載)、椋本、山田緑郎、臼井源と四人で二五年初夏「公務執行妨害、傷害」の弾圧を受け、椋本は市ヶ谷刑務所、豊多摩刑務所と合わせて三ヶ月も囚われ、二五年一〇月に出所とある。

 
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 金正根も椋本と同様に金子文子の追悼行動から検束された。金は一九二〇年、日本に渡り行商をしなが苦学して早大に入学。不逞社へ出入り、鶏林荘に滞在して運動、震災後は黒友会に参加し二五年五月、同志と共に家を借りその事務所とする。

「…金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが………」

 (「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮 宋暎運『自由連合新聞』四八号一九三〇年六月)

 椋本、栗原らはそのまま拘束され続ける。そのあげく椋本たちは朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ八月一五日大邱に送られるのである。

「重大犯人受取りのため警視庁へ出張した慶北道警察部の成富高等課長吉川判事、谷重高等主任以下五名は犯人主魁栗原一男以下四名を護送して一五日帰任した。犯人は目下大邱署で厳重取調べ中事件の内容は厳秘で取調べ進捗につれ拡大の見込みである」

と一般紙で報道される。

 一〇月、大邱地方予審に廻され、一九二七年三月八日、予審が終結し栗原、椋本、金墨(金正根)の三人は免訴になるが検事はこれを不当として覆審法院に抗告、その結果免訴は覆り公判に付され、二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。一方、東京では、同年六月二三日、黒色青年連盟が朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、抗議書を突きつけ同事件の関係者の即時釈放を要求する。

抗議書  

現在、朝鮮大邱府大邱刑務所に捕われつつある同志椋本運雄、栗原一男、金正根の三名は大正一五年八月、朝鮮官憲の依頼により警視庁より護送されたものである。該検挙の理由は、予審決定書の示す通り、只無政府主義者を抱懐するという実に根拠薄弱なものであり、且つ直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている。略

尚又、現在台湾にこれと略同様の困危に遭遇しつつある黒色連盟事件がある。我等は飽まで此の不法監禁に反対すると同時に、両事件の同志全部の即時釈放を茲に要求する。

昭和二年六月二三日   黒色青年連盟

 栗原、椋本は六月二五日判決公判で懲役三年、金は懲役五年の懲役を言渡され即日下獄となり、七月四日再び黒連は抗議書を突きつける。しかし京城西大門刑務所、大邱監獄へ移監させられる。

 ようやく満期の一九二九年六月一九日、椋本、栗原は釈放となる。「椋本、栗原出獄」「現在東京市外代々木富ヶ谷の〈A思想協〉に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。なお同事件関係の同志五名は大邱刑務所に被監禁中」。(『自由連合新聞』三七号二九年七月)

 朝鮮の同志たちは、一九三〇年一月二四日、二五日に一度は釈放になる。

(『自由連合新聞』四六号三〇年四月)

(『トスキナア』掲載原稿改定)


補遺

椋本運雄に差し入れられた和田久太郎著 『獄窓から』

 1927年3月10日発行
 編纂発行兼印刷者 近藤憲二 東京市本郷區駒込片町十五
 発行所 労働運動社

7月25日古書店より同書が届く。
 蔵書印と監房所持許可の印があるということで近代文学専門の古書店による価格は安く付けられていたが、蔵書印は「黒色青年連盟」、許可印の獄中者名は「椋本運雄」名であった。この『獄窓から』が残存していたこと、それを安価で入手できたのは奇跡に近い。
 

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# by pugan | 2011-05-19 16:59

金子文子と中西伊之助5-3

第四期韓国での評価、山梨での評価

アナキズム運動史の立場から、ウェブ上でのデータアップ

二〇〇二年七月二三日 「金子文子と布施辰治」シンポジウムが開催される

二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。現在の文子の墳墓がある山を朴家が手放したので移葬せざるを得ないという事情もあり、ムンギョン市長の朴烈への関心も高く計画が進められたという。そして〇三年一一月、移葬された。記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。

二〇〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。近郊まで至る高速道路が整備中で工事が進んでいた。五年前からも大きい変化である。かつて「鳥も通わない」と表現された鳥嶺山一帯の景観は様相が一変していた。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

 韓国からは金子文子・朴列に関わり研究者も来訪している。〇三年の七月にはキム・チャンドックさん、キン・ミョンソップさんが訪れた(『日本アナキズム運動人名事典』項目執筆)。四日間の文献調査と二〇年代、朝鮮アナキストゆかりの地を回り金子文子、朴烈が在監していた東京監獄年市ヶ谷刑務所跡の碑も確認する。跡地は大江戸線「東新宿」駅から五分程、余丁町の小さな公園にある。

 二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。私と交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時年国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員)、イ・ホリョンさん (当時ソウル大学韓国史学科講師、『韓国アナキズム運動史』著者)が番組内で解説。

二〇〇五年一月一三日、「布施辰治年自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学年明治大学法学部主催で開かれた。

 記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。

 布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし(一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された)、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査年抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。

弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。

第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。

第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。(アナキズム運動人名事典編集委員にソウルから加わっていた)李会長には昨年秋、ソウルにて開催された初期社会主義研究会の大会関連企画として市内見学があり友堂記念館の案内と設立の経緯の解説をお願いした。その際、山泉さんへソウルで開催された「布施国際学術大会(二〇〇一年)」に関わったことを紹介した。その縁で今シンポジウムへの招請につながった。

発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」(為さずして始める)を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。

翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。事典編集委員であった山口守さん(一九九〇年代にソウルで東アジアにおけるアナキズムをめぐるシンポジウムを企画、李文昌さんと交友が始まった)、李京錫(イ・キョンソク)さん(東アジアにおける近代政治史を研究、亜州和親会に朝鮮からの参加者が存在したという論文を発表)が同行した。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さん、牧丘町住民、教育委員会、山梨文芸協会、県生涯学習センター職員らこの間、金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。

牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会(市、市教委、布施辰治顕彰会主催)が開かれイ・ムンチャンさんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。

 講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋(こつなぎ)入会権訴訟を語った。

 李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。

韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

二〇〇四年七月二二日 平等主義に再評価

牧丘ゆかりの無政府主義者 金子文子

生誕100年 座談会や文化行事計画

1923年に起きた「朴烈事件」で死刑判決を受けた山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903ー26)が生誕100周年を迎えたのを機に、県内で再評価の機運が高まっている。23日に、幼少期を一時過ごした牧丘町で「文子忌」と座談会が行われるほか、山梨文芸協会などよる文化行事の準備も始まった。思想統制が厳しい時代、徹底した平等主義と反権力の立場を貫いた文子の先駆性が、あらためて脚光を浴びているようだ。

文子は少女時代、両親の別居や再婚で、親族の住む朝鮮や牧丘町などを転々として貧しい生活を送った。その後東京で新聞売りや行商などをしながら苦学するなかで、社会主義者や朝鮮独立運動の闘士・朴烈らと出会い思想を形成した。

23年9月、関東大震災直後の戒厳令下で「保護検束」の名目で朴烈とともに検挙。皇太子暗殺のため爆弾入手を計画していたとして当時の刑法が定めた「大逆罪」で起訴された。当初否認していた文子は、途中から容疑を受け入れる代わりに法廷を自分の考えを述べる場とし天皇制批判を展開した。26年の死刑判決後、恩赦で無期懲役となったが、文子は刑務所で首をつって自殺した。

事件はその後の研究で、社会主義や無政府主義の広がりを恐れた政府が、運動を弾圧する口実としてでっちあげたとされる。文子は獄中で手記「何が私をかふさせたか」を執筆し、貧しさゆえに虐げられた生涯を赤裸々に語った。

山梨文芸協会と県生涯学習推進センターは6月末、生誕100周年の記念事業を行うため実行委員会を設立。10月にも、県内外の研究者を集めたシンポジウムや講演会などの文化行事を開くことを決めた。同センターの小沢龍一所長は「文子ほど社会のおかしさや人間の本質を突き詰めて考えた人はいない」と文子の現代性を強調する。

韓国では、朴烈の出身地・慶尚北道で、朴烈と文子の記念館建設計画が進んでいるという。

23日の「文子忌」は午前10時から、牧丘町杣口に立つ文子の歌碑前で開かれる。遺族や地区住民のほか、文子に関心を持つ文化関係者ら約30人が出席する予定だ。式後には今回初めて、文子に関心を持つ人たちが集まり座談会を開くことになっている。

山梨文芸協会の佐藤信子会長は「文子はいまも国賊扱いを受ける。文学的才能や平等を求める不屈の志に正当な評価をして、名誉回復することが必要だ」と話した。    

【報道】

金子文子の生涯、歌碑前でしのぶ 牧丘町

牧丘町で少女期を過ごした山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903-26)が生誕100周年を迎えたのを記念して、同町杣口の歌碑前で23日、「文子忌」が開かれた。県内外の関係者約50人が出席して、78年前のこの日に反権力の姿勢を貫いて自ら命を絶った文子の生涯をしのんだ。

式典では、文子が暮らした大室(おお・むれ)地区の岡田秀雄区長が「文子は韓国の教科書でも絶賛されているというがこれまで知らなかった。世界に通じる郷土の誇りだ」。当地に住む文子の親族金子こま江さんは「文子は100年を経てようやく、心安らかに過ごせるようになった」などとあいさつした。

この日は、広瀬義一牧丘町長や萩原昌郎町教育長、山梨文芸協会の佐藤信子会長らも参列。文子の生涯をしのんだあと、一人ひとり歌碑の前に花を手向けて手を合わせた。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

金子文子の再評価進む/大逆罪は冤罪、と地元で

一九二三年の関東大震災直後、アナキストの夫朴烈(ボク・レツ)とともに「保護検束」名目で捕らえられ、爆弾事件の犯人として大逆罪などで死刑判決を受けて獄中で自殺したアナキスト金子文子(かねこ・ふみこ)(一九〇四―二六年)。生誕百周年を迎え、再評価する動きが、幼少期を過ごした山梨県や朴が生まれた韓国で盛んになり、遺族が抱いてきた後ろめたさもようやく晴れてきた。

金子と朴は二六年三月、爆弾で皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたなどとして大逆罪と爆発物取締罰則違反罪で死刑判決を受ける。翌四月、恩赦で無期懲役に減刑されたが、金子は服役した栃木刑務所で同年七月、首つり自殺した。

金子が生まれたのは横浜市。朝鮮や母親の実家がある山梨県牧丘町で幼少期を過ごした。

後世の研究により、「朝鮮人暴動」をでっち上げ、アナキズムの広がりを防ぐための冤罪(えんざい)と指摘され、亀田博さんも「朴は確かに爆弾を入手しようとしたが失敗し、そもそも使用目的すら決まっていなかった。容疑を裏付ける物証も一切なく、大逆罪は作られた物語にすぎない」と明言する。

しかし、反逆者とされた金子は地元牧丘町でも語られることは少なかった。遺族の 金子こま江(かねこ・こまえ)さん(86)は「戦後になっても『大逆事件』の犯人の親族として、家族が就職を断られたこともあった」と打ち明けた。

金子の七十八回忌に当たる七月二十三日、牧丘町で「しのぶ会」が開かれた。昨年は四、五人しか集まらなかったが、今年は町長ら約五十人が出席。秋には山梨文芸協会が記念シンポジウムを開催する予定だ。

朴が生まれた韓国・聞慶市では、朴の親族や研究者が「朴烈義士・夫人金子文子記念館」の建設を進める。二〇〇六年開館を目指し、市内の金子の墓も敷地内に移転。金子の生涯を紹介した「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(山田昭次=やまだ・しょうじ=著・影書房刊)も昨年、翻訳本が出版された。

「平等を求め権力と闘った活動家としてだけではなく、優れた自叙伝を残した文筆家として、先駆的な日韓の架け橋として、あらためて注目を集めている」。山梨文芸協会の佐藤信子(さとう・のぶこ)会長(73)は金子の再評価が進む理由をこう解説する。

こま江さんは「親族もこれまで後ろめたい気持ちで暮らしてきたけれど、だんだんと本当の金子文子が理解され、その気持ちも薄らいできた」と話している。     

二〇〇四年八月九日 ウェブ東奥 共同通信配信

金子文子の再評価進む/大逆罪は冤罪、と地元で

一九二三年の関東大震災直後、アナキストの夫朴烈(ボク・レツ)とともに「保護検束」名目で捕らえられ、爆弾事件の犯人として大逆罪などで死刑判決を受けて獄中で自殺したアナキスト金子文子(かねこ・ふみこ)(一九〇四―二六年)。生誕百周年を迎え、再評価する動きが、幼少期を過ごした山梨県や朴が生まれた韓国で盛んになり、遺族が抱いてきた後ろめたさもようやく晴れてきた。金子と朴は二六年三月、爆弾で皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたなどとして大逆罪と爆発物取締罰則違反罪で死刑判決を受ける。翌四月、恩赦で無期懲役に減刑されたが、金子は服役した栃木刑務所で同年七月、首つり自殺した。

金子が生まれたのは横浜市。朝鮮や母親の実家がある山梨県牧丘町で幼少期を過ごした。

後世の研究により、「朝鮮人暴動」をでっち上げ、アナキズムの広がりを防ぐための冤罪(えんざい)と指摘され、亀田博さんも「朴は確かに爆弾を入手しようとしたが失敗し、そもそも使用目的すら決まっていなかった。容疑を裏付ける物証も一切なく、大逆罪は作られた物語にすぎない」と明言する。

しかし、反逆者とされた金子は地元牧丘町でも語られることは少なかった。遺族の 金子こま江(かねこ・こまえ)さん(86)は「戦後になっても『大逆事件』の犯人の親族として、家族が就職を断られたこともあった」と打ち明けた。

金子の七十八回忌に当たる七月二十三日、牧丘町で「しのぶ会」が開かれた。昨年は四、五人しか集まらなかったが、今年は町長ら約五十人が出席。秋には山梨文芸協会が記念シンポジウムを開催する予定だ。

朴が生まれた韓国・聞慶市では、朴の親族や研究者が「朴烈義士・夫人金子文子記念館」の建設を進める。二〇〇六年開館を目指し、市内の金子の墓も敷地内に移転。金子の生涯を紹介した「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(山田昭次=やまだ・しょうじ=著・影書房刊)も昨年、翻訳本が出版された。

「平等を求め権力と闘った活動家としてだけではなく、優れた自叙伝を残した文筆家として、先駆的な日韓の架け橋として、あらためて注目を集めている」。山梨文芸協会の佐藤信子(さとう・のぶこ)会長(73)は金子の再評価が進む理由をこう解説する。

こま江さんは「親族もこれまで後ろめたい気持ちで暮らしてきたけれど、だんだんと本当の金子文子が理解され、その気持ちも薄らいできた」と話している。

さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

二〇〇四年一一月二四日         

金子文子生誕100年 26日に講演

山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903~1926)が眠る地を訪ねようと、山梨文芸協会会長の佐藤信子さん(74)が、韓国・聞慶(ムン・ギョン)市を訪問した。現地では、同志だった在日朝鮮人活動家・朴烈と金子文子の記念館建設が進んでおり「過激と見られた2人も、日韓交流時代には民族を超えてきずなを結んだ先駆性が注目されてきている」と話す。26日に協会などが甲府市内で開く金子生誕100周年記念行事で、訪問が報告される。

在京の金子文子研究者亀田博さんと2人で10月末の3日間訪れ、韓国の研究者ら5人が案内した。聞慶市は、朴烈の出身地で、植民地支配からの解放運動を指導した英雄のひとりとして尊敬を集めているという。02年から生家のまわりの広さ約14500平方メートルが公園として整備され、今年10月中旬からは記念館の建設も始まった。06年の完成時には、金子を紹介する特別室も設けられる予定だ。金子は、23年に起きた「朴烈事件」で大逆罪で死刑判決を受けたのち、恩赦で無期懲役に。その後、権力による減刑を潔しとせず、刑務所で首をつって自殺した。遺体は生前の本人の願いで、朴烈の生地に遺骨が送られ、長らく聞慶市の山中につくられた墓にひっそりと埋葬されていた。佐藤さんは、現地の人から「記念館を日韓の架け橋にしたい」と言葉をかけられたのが印象に残っている。

「少女期に虐げられた生活をおくった文子は、朝鮮半島の人たちを黙って見ていられなかった。言論統制の厳しい時代に、自由と平等を唱えた姿に、いまこそ光を当てる必要がある」と話している。

記念行事は26日午後12時50分から午後4時まで、甲府市朝気1丁目の県立男女共同参画推進センターで開かれる。県生涯学習推進センターと山梨文芸協会が主催し、牧丘町教委の後援。金子についての著作のある山田昭次・元立教大教授の講演や研究者らのシンポジウムがある。入場無料。

〇五年も山梨でシンポジウムが開かれた。

山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座のテーマが「日本とアジアの架け橋になった人々」。一〇月八日、第四回のテーマが「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」として開かれ再びパネラーとして参加した。

ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年〇七年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。

金子文子に言及した近年刊行の書籍、関連会議、集会等

二〇〇四年四月「金子文子」「新山初代」「栗原一男」「椋本運雄」項目掲載『日本アナキズム運動人名事典』刊行、ぱる出版。

二〇〇四年一一月「韓国人と一緒に生きようとした日本人もいた」『若者に伝えたい韓国の歴史』明石書店、李元淳・鄭在貞・徐毅植 著

君島和彦・國分麻里・手塚崇訳

二〇〇五年四月 亀田博「金子文子の生と死①」『トスキナア』創刊号、皓星社発売元

二〇〇五年五月『日本・中国・韓国=共同編集未来をひらく歴史 東アジア三国の近現代史』、コラム「金子文子──朝鮮人と連帯し天皇制国家と闘った日本人」日中韓三国共通歴史教材委員会、高文研。参考「シンチェホ」に関するコラムも掲載

二〇〇五年五月 鹿野政直著『近代国家を構想した思想家たち』岩波ジュニア新書、〈アジア・世界のなかの日本〉に金子文子の項がたてられる。参考文献として『日本アナキズム運動人名事典』「金子文子」の項が記述される。

二〇〇五年一〇月 亀田博「金子文子の生と死 ②」『トスキナア』二号

二〇〇五年一〇月 井桁碧「金子文子の思想と行動」『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』、日韓「女性」共同歴史教材編纂委員会

二〇〇六年二月 特集「もうひとつの大逆事件 金子文子のまなざし」『彷書月刊』二月号 

二〇〇六年五月二日、甲府で「金子文子研究会」の発足が話し合われる。七月二十三日に追悼八十年の集りを開くこと、会の活動等が検討された。

二〇〇六年六月四日、甲府市内で「やまなし金子文子研究会」の発足。

二〇〇六年七月二七日→三〇日「金子文子追悼八〇、プガン・ムンギョンの旅、研究交流」
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# by pugan | 2011-05-16 17:03

金子文子と中西伊之助6

不逞社、黒友会の活動

新山初代も含めて何々主義と規定するよりは、彼女彼ら自身の心の揺れ

シュティルナー主義、自我経、個人主義

天皇という存在に対する対極の主義

幸徳秋水事件十二人の処刑から十二年、公言できない

F 事件の構造

大審院判決理由

布施弁護士「最大最悪の不敬罪であって、大逆の犯人とはならない」「大逆事件をでっち上げた」「自白供述に求めただけで他に何ら物的証拠もない」『運命の勝利者朴烈』七五頁。

否定した調書は残されていない。

朴烈が爆弾を入手しようとした→ことごとく失敗→

目的、目標は確定していなかった→曖昧

金重漢、二十三年四月東京に来る、五月朴烈から話を聞く

爆発物取締罰則適用から刑法七十三条へ

朴烈が認めたことに対する金子文子の受容

仲間への波及を避けたい→新山初代の死

治安維持法の成立は二十五年

関東大震災での戒厳令

朝鮮、中国人の虐殺、社会主義者の虐殺

短い活動時期、黒濤社からでも一年半余り

朴烈を中心とした一九四五年以降のクロニクル

一九四五年一〇月二七日 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」

一九四六年一月二〇日 新朝鮮建設同盟結成、朴烈が委員長となる。副委長李康勲、元心昌。一九四六年二月一九日 建青、李奉昌、尹奉告、白正基の三烈士追悼会開催、李康勲、朴烈

一九四六年三月二四日『読売報知』広告「翌二五日、朴烈先生夫人故金子文子女史追悼会」

一九四六年一〇月三日 在日朝鮮居留民団結成。(日比谷公会堂)。団長朴烈、副団長李康勲。宣言書「我々同胞が帰国する日迄一致団結して我々の義務を忠実に遂行し」在留同胞の「民政安定」「教養向上」及び「国際親善」を期す。                

一九四六年『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵 、『新朝鮮建国の指標 独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念年思想を収録した"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection年」梶山コレクション所蔵

一九四六年一二月二五日 『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

一九四七年 張義淑と再婚

一九四七年二月二一日「民団新間」創刊号発行。                  一九四七年五月二三日 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。



一九四七年一〇月一、二日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。

一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社 目次 自序 第一章 思想立国 第一節 世界は一なり 第二節 現実に徹する思想 第三節 共産党を語る 第四節 死に生くること 第二章建国の指標 第一節 独立とは形式ではない 第二節 具体的に建国の立地条件を究めよ 第三節戦線統一への方向 第三章 青年と民族の運命 第一節 立国の支柱としての青年 第二節 操志ある青年 第三節 高き文化の使徒青年 第四章 生活革命運動の展開 第一節 民族的欠陥の反省 第二節 社会を発見せよ 第三節 公式論、原則論を排す 第四節 身を以て再起へ 付録 一 三千万我等とともに罪あり 二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて 三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す 四 前科者、受刑者、現科者 五 祖国愛と国際的観念 六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ 七 われらは先ず道義の昂揚から 八 小児病的左翼陣の暴挙を排す

一九四八年一一月二十日 朴烈『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所

一九四九年四月二日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。   

一九四九年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる

一九五〇年四月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国

一九五〇年六月二五日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況

一九五〇年六月二七日「朴烈行方不明になる」

張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈止連絡がとれたのは二七日の未明。「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、恥ずかしくない行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫(当時八ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(二年四ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。         

一九五六年七月二日 在北平和統一促進協議会常務委員となる、後に会長

一九六〇年一月「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』

一九六〇年一月号掲載 [再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった]

一九六六年六月 「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

一九七五年八月 「春一番」臼井吉見『展望』第二〇〇号掲載[解放後の朴烈と再婚、小説]
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# by pugan | 2011-05-15 17:04

金子文子と中西伊之助7-1

中西伊之助と社会主義者、アナキストたちとの関係      

中西伊之助不在の「場」、二六年当初まで

金子文子、朴烈と中西伊之助がいつ、どこで出会ったかの詳細は定かではない。現在まで原本複写、復刻版等で目にしてきた当時の運動紙誌には残されていない。公然活動に関る者同士の全ての出会いに触れてはいないが、運動紙誌の短信欄、編集記には意外な動向が記されているケースもある。それ以外にも官憲による動向調査の報告があるが同様に確認はできない。

二人と中西が出会ったのは集会か会議の場であると推測をする。そうすると両者を知っていた共通の同志がいたのであろう。中西の活動の足跡をたどることから始めたい。

また当時の東京市の地図を認識することが必要と考える。

一九〇九年測量、一九一七年修正測量の「陸地測量図」により黒濤社、不逞社、市ヶ谷刑務所の位置を把握できる。「番地早分かり東京市全図」は縮尺、東西南北は当てにならないが市電路線と停留所が書き込まれているので参考になる。労働運動社、新山初代の住まい、南天堂、市ヶ谷刑務所との位置関係が確認できる。

 東京交通労働組合関連で触れると一九二〇年の争議拠点の一つであった「大塚車庫」も同図に含まれている。

①中西伊之助と売文社、堺利彦 

平民大学から日本社会主義同盟 中西は不在、堺の労働運動指導者としての中西批判、作家としての評価、布留川桂の批判

中西伊之助はエッセイで回想し堺利彦の売文社へ出入りしていたことを語っている。しかしその堺は「『赭土』の中西君」と題した批評で労働運動指導者としての中西を評価せず前半部で「評判記」も含めて辛口の意見を述べている。(『赭土に芽ぐむもの』に対しては誉めている)。中西は後に大杉栄が労働運動の指導者としての自分を批判するのは堺利彦のところへ出入りしていたことで、堺との関係でこだわり批判を強くすると語っている。しかし当の堺自身も中西が指導した「東京市電争議」をめぐっては辛らつである。

山崎今朝弥という弁護士が当時活躍していた。《日本社会主義同盟》結成における山崎の役割は大きく、山崎が結成に向けて前の世代の社会主義者間に起り始めていた「対立」を封じ新たな世代の社会主義者を結集させたといっても過言ではないと考える。       

当時、山崎が発行していた『社会主義』平民大学刊(復刻版)、『労働運動』(復刻版)、一九七二年に弁護士、森長英三郎が著した『山崎今朝弥』(紀伊國屋新書)を参考に平民大学から一九二〇年の社会主義同盟結成、解散に到る経過を概観する。

山崎今朝弥が「平民大学」の看板を掲げたのは一九一七年五月七日、山崎が学長、山川均が教頭、岩佐作太郎が理事長となっている。岩佐は初期社会主義の時代にアメリカに在住しサンフランシスコに滞在していた幸徳秋水と交流。アメリカから戻った後はアナキズムの立場で活動を続けていた。

山崎は警察の妨害を受けながら講演会を開催、一九一九年八月には夏期講習会を開いた。会場は三田四国町、堺利彦、大庭柯公、川島清治郎、高畠素之、西川光二郎、室伏高信、荒畑寒村、生田長江、与謝野寛、大杉栄、山口孤剣、宮武外骨、山川均、馬場胡蝶の十四人の講師が七日間にわたる講演が企画された。山崎は所轄の三田警察署長と事前に交渉、聴講者を百人に制限、警察へ聴講券を無料進呈、来会者の氏名を書きとる、講演の内容が「過激」にならないよう、聴衆が騒がないように責任をもつと交渉、警察も不当な中止、解散を命じない、との「屈辱的紳士契約」をなす。四日目から弁士中止の連続、大杉の講演は翌日有楽町で臨監なしに実行した。

翌年も出席者は三百人を越え「平民大学学士会」と称した。

この平民大学夏期講習会はアナキストから国家社会主義者まで各派の合同、統一の運動としての意味をもち日本社会主義同盟の結成に向う。同盟が平民大学を事務所として結成されたのは一九二〇年十二月九日、創立大会は十日を予定していたが九日夜の在京同志の会合を急きょ創立大会に変更、十日は植田好太郎が経過報告、弁士中止解散となる、

前夜から日比谷警察署に検束された同志は久板卯之助、望月桂というアナキストたちであった。山崎は二一年一月一日付けで二人を告訴人として日比谷警察署長、警部、警部補、特高主任らの傷害事件として告訴する。(山崎の著作『弁護士大安売』に収録)。

同盟は「一九二〇年の夏頃から橋浦時雄、岩佐作太郎らが堺や山崎の意図を受けて働き平民大学を創立事務所として進められる」(森長『山崎今朝弥』)。しかし実際、前面に出たのは山崎今朝弥であることからみて山崎が堺を引き込んだとみてよいのではないか。

『新社会』を改題『新社会評論』を九月からさらに『社会主義』と改題、同盟の機関誌とする。『新社会評論』はすでに平民大学発行となっていた。友愛会、信友会、正進会、交通労働組合、鉱夫総連合、建設者同盟、新人会、暁民会と社会主義団体、労働団体、学生団体の参加、学者、思想家、文学者、弁護士らの参加もあり千人以上の同盟員となり増え続けた。

『社会主義』では結成準備の状況が描写されている。

「其の後の日本社会主義同盟は、やはり発起人が創立事務に忙殺されている状態に在る。……直ちに其の準備に取掛かるべしと云う意見が、十月九日の懇親会では盛んであったそうである。……創立事務、七名の世話人会が事務を執り、別に三名の編集委員が置かれたが、事務の複雑多端となるに及んで、事務を分担するの必要が生じ、目下は常務委員(近藤憲二、水沼辰夫、山川均)財務委員(麻生久、山崎今朝弥、吉川守邦)講演会委員(服部浜次、岩佐作太郎、加藤勘十)雑誌委員(赤松克麿、橋浦時雄、小川未明、大杉栄、山崎今朝弥)の四部に分かれて執務してゐる。

同盟会場、同盟の事務はやはり芝区新櫻田町一九山崎今朝弥方であるが、此処では主として通信、会計等の事務を執り、会合、相談等は麹町区元園町一ノ四四の新事務所でやる。新事務所には常務主任の近藤氏が居て、来客を歓迎してゐる。又同盟加盟者で新事務所を何かの会場(百名位ははいる)に利用したい場合には、都合のつく限り便宜を図るさうである。加盟申込者 今日の処(十月十四日)約一千名の申込者がある。……懇親会 同盟加盟申込者の懇親会を毎月第一、第三の日曜日夜に、新事務所で開く事になつた。……」

「日本の社会主義運動は、既に二十餘年の歴史を有して居るが。大逆事件以後、一時殆ど沈衰の有様となり、たゞ堺、大杉、荒畑、山川、吉川等の少数の先輩が、僅かに處々の孤壘を守つて居るといふ形であつた。

然るに、近来に至り、古い社会主義者以外、実質上の社会主義者が、続々として出現して来た。そこで、それ等の諸分子を打つて一丸とする、新しい團體組織の必要が、誰の頭の中にも痛切に感ぜられて来た。この形勢に應ずる為に、昨年七月頃初めて、『日本社会主義同盟』の創立が計画せられた次第である。

最初、古い社会主義者の間に先づその議が熟し、次いで諸方面の労働團體や思想團體の人々との間に交渉が成り立ち、この際、あらゆる態度あらゆる色彩の社会主義者を糾合して、一大團體を組織する事を目的とし、赤松克麿、荒畑勝三、麻生久、布留川桂、橋浦時雄……三十名の者が発起人となり、八月五日趣意書及び規約草案を社会に発表したのである。

然るに、その印刷物は直ちに頒布を禁ぜられ、それに次いで更に作製した別種の印刷物も同じく押収された。然しそれにも係はらず、諸方面諸地方から、続々として加盟の申込があつた。……」

「是に於てか、発起人は昨年十二月中に、事務所に於て数回に亘つて発起人会を開き、創立大会の委任事項を処理して、次の如く決定した。(報告頁の印刷に二分の一段 空白がある内閲で削除か?)」

同誌に執行委員の名も掲載されている。発起人と重なる名は赤松克麿、麻生久、布留川桂、服部浜次(宣伝)、橋浦時雄、岩佐作太郎、近藤憲二、加藤一夫、加藤勘十、北原龍雄、水沼辰夫、大庭柯公(編輯)、島中雄三、渡邊満三(宣傳)、和田巌、吉川守邦(會計)、高津正道(常務)である。

あらたに阿部小一郎、江口渙(編輯)、原澤武之助、百瀬二郎、望月桂、新明正道(編輯)、諏訪與三郎(常務)、杉浦啓一、高田和逸(常務)、吉田順司、竹内一郎(宣傳)、和田久太郎、渡邊善壽が執行委員となっている。(また二分の一段の空白がある)

「成立後の同盟は、今日まで如何なる仕事をして来たか。又其後の同盟はどうなつたか。……『社会主義』や、『労働運動』紙上に同盟の事を書けば、内務省の検閲係から抹殺されて終つた。この報告も余り詳しく書いて敵に内情を知悉される恐れあるを思へば、簡単に書く方が却つて利益であるかも知れない」

と記述され運動紙誌での報告が困難であることが記述されている。また『社会主義』には執行委員である布留川桂が「似非労働運動者へ」という題の論文を掲載している。

「労働運動は自己解放運動である。然るに一部の労働運動者は恰も他人の為にするかの様に云ひもし振舞ひもする。

 昨年このかた、労働運動の盛んになるにつれて、思想もなければ、労働階級に理解もない連中が、うるさい程飛び出した。大概は指導者面をしてゐて、それで飯を食はうと云ふ連中だ。そんな連中なら知らないが、苟も本当の労働者であり労働運動者であるならば斯る言動は絶対にない筈である。…略」、現場の労働者である布留川からの指摘は厳しい。

結局同盟の第二回大会は一九二一年五月九日に開催されるが事前から官憲の弾圧はすさまじく、当日は一瞬の挨拶だけで解散させられ、結社そのもの解散を命ぜられた。二一年六月四日発行の『労働運動』(週刊)一二号

に「開会──解散──検束」という題で報告記事が掲載されている。

──五月九日の社会主義大会──



 思想問題講演会と銘を打つた第二回社会主義同盟の大会は、昨夜六時から神田青年会館に開かれた。

 警戒振りの物々しさは、一昨夜から同主義者の門前に荒延を敷いて検束の網を張り、自宅監禁をしようといふ当局の作戦美事成功し、大杉栄氏を初め名ある同主義者は悉く籠城の余儀なきに到つたが、それでも青年会館は、サーベルの垣を造つて、三百余の警官は、便所から湯呑場まで一杯といふ景気である。

 入場者は、五時と言ふのに一千人以上締切つた扉に鮨のやうに押潰されて居る。この物々しい騒ぎの裡に飛び込んだ岩佐作太郎氏に引続き、堺真柄氏も門前で検束された。

……五時半、門を開くと、大会の主催者江口渙、高津正道の両氏が、警戒門を潜つて抜け道から弁士室に入つたが、程なく駆け付けた望月桂氏は引致され、次で露国の盲人エロセンコ氏が検束される。……折から堺利彦氏は、青の職工外套に鳥打で門前に来たが、解散と知つて忽ち姿を晦す。開会から解散まで殆んど一分間。……(十日の東京日日) 。「……」は引用時の略。

   三

 此の大会騒ぎの為に検束された者は左の如くである。

川口慶介、望月桂、露国盲人エロセンコ、高津正道、江口渙、服部濱次、加藤一夫、矢野芳雄、仲宗根源和、栗林四郎、川崎春次、福田英一、高野松太郎、林世照、堺為子、堺真柄、岩佐作太郎、内海朝次郎、川崎憲二郎、藤田■■、元鐘麟、鈴木文助、八幡博道、長谷川辰治、茂木邑治、渡邊政之輔、水谷武雄、和田久太郎、中名生幸力、新井文雄、秋好為一、神保貞一、谷川吉彦、徳田盈、小林安重、斎藤喜久次、武良二、浅原政義、秋元金七、尾崎文蔵、澤村三男、中澤秀定。その他十数名は氏名不詳。

中西伊之助は市電争議での収監と争議終結後の生活の確立もあり日本社会主義同盟には関れなかったのだろうか、大杉グループでもなく、また堺グループでもないという状況がうかがえる。同盟に関れば活動時間も多く割かれ、また同盟解散後の運動の「分岐」にも巻き込まれる可能性もあったのではないか。無縁の「場」に佇まざるを得ないゆえに、翌年発表される『赭土に芽ぐむもの』を執筆する機会も出来たのではないか。

②中西伊之助と大杉栄、「労働運動社」、(『労働運動』紙における市電罷業記事、中西伊之助の動向、第一次と第二次との評価の差。アナ・ボル連携の第二次では非親和的

大杉栄らが同志と共に活動していた「労働運動社」、周辺のアナキストたちの動向を確認したい。

 当時のサンジカリズム運動を中心とした概況にふれておく。一九一七年、ロシア革命、翌年の米騒動と労働争議、第一次世界大戦の影響による好景気をふまえ労働運動が盛んになる。そのような状勢の中、労働運動の活動家が集る研究会、北風会が始動。大杉栄を中心とした研究会と合併、『労働運動』紙の創刊に至る。

刊行準備段階では堺利彦や山川均、荒畑寒村にも同人を呼びかけていた。直接の参加は得られなかったが、当初は論文の寄稿や転載がみられる。

中西伊之助の名が初めて登場するのは第二号からである。ただし「新聞記者」の中西を理事長にしている日本交通労働組合に対抗して労働者が自ら組合を主導するという対抗する組合結成に関しての記事である。

三号では、市電争議の概略が飛び込み記事なのか最下段に掲載されている。

二〇年二月発行の第四号に初めて〈日本交通労働組合理事長〉として中西伊之助のアンケート回答が掲載される。同号の十四面《労働団体消息》には同労組の躍進が報告されている。

翌号と翌々号には市街電車従業員の争議が報告され中西が治安警察法違反で収監されたことにも触れている。結局、中西自身による争議報告は掲載されなかった。

二〇年末、大杉栄はコミンテルンの「密使」の誘いにのり堺利彦たちが二の足を踏んだ上海での極東での社会主義者たちの会議に参加する。そこで提供を受けた活動資金により共産主義の影響が強かった近藤栄蔵、高津正道たちと共同し、週刊で『労働運動』を復刊させる。(当事者たちは付していないが第二次『労働運動』と言われる)。しかし大杉が病気の間、近藤栄蔵はコミンテルンの指導もあったのだろうが大杉外しに動く。ところが近藤本人はコミンテルンからの資金を豪遊で使い込み官憲に逮捕されという醜態を演じる。第二次のこの時期は「アナ・ボル」協同路線をとった大杉もアナキストたちから批判を受け、高尾平兵衛たちは独自の運動紙を刊行する。その高尾は後にモスクワを労働者会議参加で訪問した後、東京に戻り「協同戦線」を主張し始める。

この第二次『労働運動』では中西の報告が一度掲載されるが、別の号では中西の関わる組合が二分されたということが数行で報告、それに中西から反論の投稿が掲載される。それ以降、中西本人の記事を同紙で見ることはない。最後に名が挙げられたのは翌二二年刊行の『労働運動』(第三次)七号で玉川電車の罷業に対する収束策への批判記事においてである。

労働運動社、アナルコサンジカリズムの立場からいえばまず労働者を主体とした労働組合が原則であり、当該組合の従業員でない「外部」の者が、理事長という立場とはいえ交渉主体というのは批判する対象でしかなかった。

中西本人も先に紹介した『朴烈君のことなど』で「獄中の中浜君が…昔僕が交通労働の幹部であつた頃、大杉栄君なんかが。よく同じやうな口調で僕等を馬鹿にしたもんだ。…」と語っている。
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# by pugan | 2011-05-14 17:05

金子文子と中西伊之助7-2

『労働運動』紙創刊準備から発刊

【資料】

一九一八年 六月十五日《状勢》近藤憲二等北風会を主催す。……参会者は主義者一三名未編入者数名なりしが同志和田久太郎、中村還一、荒畑勝三、村木源次郎、斎藤兼次郎等……一同「露西亜革命の歌」を合唱し…… (イ)会の名称 「北風会」(北風は渡辺の雅号)と称すること

(ロ) 責任者 近藤憲二

一九一九年一月一五日大杉一派の研究会は近藤憲二等の主催し来りたる北風会と合同することと為り

渡辺方にて毎月一日一五日二回会合することに決定せり

大杉栄、売文社を訪問、堺利彦との交友

一九一九年一月二六日 

大杉栄、堺利彦を訪問、飲食。

一九一九年二月一五日

北風会及大杉栄等の会との合同会合は例会を荒畑勝三、山川均両名出獄歓迎会として開く。山川は病気欠席。出席者三十一名にして荒畑は「英国の労働組合条件復旧問題」に関し講演。

大杉栄は一九年夏に、荒畑寒村、山川均らにも呼びかけ『労働運動』紙の刊行準備を始める。

一九一九年 八月二十三日

大杉栄は同志荒畑勝三、山川均、吉川守国の三名に対し午後一時より麹町区有楽町一の四、服部濱次方での『労働運動』(毎月一回)の発刊に関する協議を申込む

一九一九年八月二十八日

午後二時より大杉、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合……実際運動として来る九月一日より「北風会」を改称「労働同盟会」となす

【資料】『労働運動』紙と中西伊之助

一九一九 年一〇月六日『労働運動』第一号発行 本郷区駒込曙町一三

「労働運動の精神」大杉栄「賀川豊彦論上」大杉栄《読者諸君へ》中村還一、年二十二時計工。和田久太郎、二十七(歳)人夫、新聞紙違反で十ヶ月の牢獄生活を終えて出て来たばかり。近藤憲二、二十五(歳)早稲田大学政治科卒業。伊藤野枝。尾行巡査への傷害罪で入獄中の活版工延島(のぶしま)英一、十八(歳)

六面「日本労働運動史」荒畑勝三、十面「フォスタアに就いて」荒畑勝三

九面《労働団体の簇出》

東京市電気局従業員組合

電気局従業員には、別に交通労働者組合があるが、其の理事長に新聞記者中西伊之助君を戴いてゐる事に平らかならずや、真に労働者のみの組合を組織すると云ふ所から、新たに出来た組合である。

 巣鴨の相澤茂七君を発起人総代とし、新宿の佐野左江君、青山の井上良雄君等発起人となり、蔵原惟廓君、福田秀一君、綱島正興君、法学士山口作之助君を其の顧問に戴いてゐる。

 十月廿二日、小石川亭に其の巣鴨支部開会式が開かれた。

 会衆三百。蔵原君、網島君、福田君等の講演の後、会員十数名の熱烈なる演説あり傍聴者中の交通労働組合派盛んに弥次り、最後に佐野、相澤両君と交通組合の西村泰造君等との激論があつた。

 猶、新宿支部、青山支部等の発会式も続々ある筈。事務所、西巣鴨町庚申塚二五七相澤茂七君方。

十二面「労働運動者の類別」堺利彦

一九二〇年一月一日『労働運動』第三号、小石川区指ヶ谷町九二、関西支局 南区空堀町一一 武田伝次郎方主任和田久太郎、南出張所 南区水崎町七一九逸見直造方主任逸見直造、名古屋支局 中区西瓦町二の二三主任伊串英治

一九一九年一二月一八日「入獄の辞」大杉栄

一二月二三日「大杉は中野の別荘へ行った」

二面年三面「横浜電車と東京市電」

一九一九年十一月三日の市電争議、八日九人を解雇、交渉の経緯、(中西の名は触れられていない)十六面「友愛会幹部の人々」堺利彦

一九二〇年二月一日『労働運動』第四号本郷区曙町十三一面「征服の事実」大杉栄

二面《電車と郵便》市電騒擾

七面《組合合同の是非》

日本交通労働組合理事長年中西伊之助「一、私は労働総同盟を主張します。然らば現在の私共の団体では何うかと云ひますと、其の実行の程度に達するには甚だ遠いと思ひます。僅か一万や二万の組合員ですら、結果が却々困難であります。現在私共の団体では最も堅実な発達を遂げ、一糸紊れない歩調を取ってゐますが、元来排他的感情に富んだ、而も『縁の下の力持ち』をする事のきらいな日本人の団体には、却々面倒な事がそれからそれと湧いて参ります。兎も角も当分は総同盟とか合同とかは不可能だろうと存じます。私個人は前述の主張の為めには何時でも大同団結の為に土台石──でなければ地ナラシの石ころ位になる事を喜びます。

(註、原記事では二、がなく次に三が説明なく続く。単純な誤植の校正ミスと推測)

三、若し合同する機運に達したとしても私共の団体も総て真面目に労働者の解放運動に従事してゐる限り、特殊の希望条件があり得やう筈はありません。お互に寛大な心持と、他人の立場に同情と理解があれば結構です。」

(国際労働会議を動機としての既成組合の合同、連合の問題が起り始めた…アンケートを依頼、記者)十四面《労働団体消息》

日本交通労働組合、昨年八月設立以来すばらしい発達を遂げた。現在では三田、青山、新宿、早稲田、巣鴨、大塚、本所、有楽橋、広尾、三ノ輪の十支部があり、会員総数六千と号してゐる。近く玉川電車の六十名、王子電車の百名が加はったので、更に城東電車、京浜、京王等へも活躍せんとしてゐる。普選運動は自らやらないが、他の尻馬には喜んで乗るさうだ。仮事務所は芝区本芝二ノ二一番地。

一月一一日「豊多摩監獄から」大杉栄

「編集の後に年今月から久板が加勢して呉れる事になった」神戸支局市外東須磨鷹取駅下車、主任安谷寛一

一九二〇年四月三〇日『労働運動』第五号

小石川区指ヶ谷町九二、労働運動社麹町区有楽町一の四、一面《労働運動の転機》大杉栄

「一 とうとう不景気が来た。戦争中から、今に来るぞ、今に来るぞ、そして其の時には険悪な労働運動が起るぞ、と警戒されてゐた不景気がとうとう来た。………すべてはいろんな条件次第だ。そして僕は、其のいろんな条件の中でも、労働者の、しかも最も活動力のある労働者の心的状態に殊に重きを置く。最後の鍵はそこにあるのだ。

四 ………………

好景気の下の労働運動と不景気の下の労働運動とは余程違がふ。殊に不景気は、労働者にとっては、何よりも先づ失業を意味する。失業者問題は労働問題の一大難関である。日本の労働運動は、今其の一転機に際しつゝ、始めて此の一大難関にぶつかろうとしてゐるのだ。労働者はいやが応でも益々真剣にならざるを得ない。…」

一面「出獄の辞」大杉栄一九二〇年三月二三日一面「政治運動の夢魔」荒畑勝三(『解放』四月号から転載)「無政府主義の腕」大杉栄 マラテスタの逮捕

二面《内国時事》

《東京市街電車》「……昨年来提出の五ヶ条の要求中、八時間制と日給制度及び年功加俸の三主要条件が容れられないからだ。二月廿四日、巣鴨線従業員は故障車を連発し、平常八十五台運転のものが四十台となった。廿五日は、次第に減じて廿三台となり、午後七時には一部の運転を中止するに至った。これに続いて、各車庫にも怠業気分が伝播して、二十六日には、全線を通じて約三分の一の運転に過ぎなかった。

同日、組合理事長中西伊之助君は、治警十七条によって収監された。……

(巣鴨車庫に対し車掌小林大吉君以下三百五十九名、運転手森口辰吉君以下二百十五名を解雇した。……降雪中を、巡査隊、憲兵隊が犇々と固めた様は、恰も戦時状態の観があった)巣鴨車庫六百名の馘首と共に、従業員の結束は愈々強硬となり、全線殆ど罷業の状態となった。各車庫は警官隊の眼に包囲された。

 電気局に於ては、事件勃発以来鳩首密議の結果、廿八日夜、従業員代表と交渉し、巣鴨車庫員の馘首を取消し、所謂優遇案を発表した。廿九日、この所謂優遇案によって、巣鴨駒込線を除いて全線復旧した。巣鴨線も復職手続を済ませて三月一日から一勢に運転を開始した。【近藤憲二】

一九二〇年六月一日『労働運動』第六号 

指ヶ谷、有楽町、一面《社会的理想論》大杉栄「無政府主義者殊にクロポトキンはよく云ふ。労働者は先づ、其の建設しようとする将来社会に就いての、はつきりした観念を持たなければならない。此の観念をしつかりと?んでゐないと労働者は、革命の道具にはなるが、其の主人にはなる事が出来ないと。……

三 人生とは何んぞやと云ふ事は、嘗つて哲学史上の主題であつた。そしてそれに対する種々の解答が、謂はゆる大哲学者等によつて提出された。しかし、人生は決して、予め定められた、即ちちゃんと出来あがつた一冊の本ではない。各人が其処へ一字々々書いて行く、白紙の本だ。人間が生きて行く其事が即ち人生なのだ。労働運動とは何んぞや、と云ふ問題にしても、やはり同じ事だ。労働問題は労働者にとつての人生問題だ。労働者は、労働問題と云ふ此の白紙の大きな本の中に、其の運動によつて、一字一字、一行々々、一枚々々づゝ書き入れて行くのだ。観念や理想は、それ自身が既に、一つの大きな力である。光である。しかし其の力や光も、自分で築きあげて来た現実の地上から離れゝば離れる程、それだけ弱まつて行く。即ち其の力や光りは、其の本当の強さを保つ為めには、自分で一字々々、一行々々づゝ書いて来た文字其者から放たれるものでなければならない。………………」

二面《東京市電の罷業》「(二月の罷業によって発表された所謂優遇案を評して、全くの誤魔化だと云って置いた。果してさうだった。一時の糠喜びをした従業員諸君も、遂に其の幻影を破られた。四月廿四日、先づ大塚車庫が監督の排斥を導火線として怠業し、二十五日には全線一斉に運転を休止した。真先に罷業を企てた大塚車庫従業員は同日早朝、雑司ヶ谷の玉椿道場に集り、午後各車庫の従業員も来り加って一千五百名の大勢となった。城倉憲兵大尉の一隊と、富坂大塚巣鴨三署の巡査百五十名は、女子大学を本部として之を包囲した。午後十時に至って、前記三署のほか早稲田、神楽坂、淀橋の警官も来り応援した。午前零時、強制解散命令一下するに及んで、従業員は、どしや降りの中を一々警官の尾行を受けて解散した。が、此の際、一従業員が尾行巡査を突き飛ばしたのが因で、両者間の乱闘となり、真暗豪雨の内に怒号叫喚物凄いばかりであった。其の結果三十余名の検束者を出した。(二十六日、府下尾久村の硯運雲寺に集合、警視庁の池田方面監察官は急遽同寺に出張、南千住署、日本堤、王子、巣鴨の警官百二十名の応援、午後一時再び之を解散せしめた)(交通労働組合本部発表の電気局に対する要求案は次の如くである)

一、監代、乗務員の待遇を区別することなく公平、平等を期する事

二、八時間制の実施

三、最低日給八十銭

四、月手当二十六円以上

五、但一時間居残りは二割増し、二時間以上は五割増とし四時間以上に亘るを得ず

(市電当局は強硬な態度「解決の第一手段は先づ煽動者の一掃、警視庁と協力、百十余名の従業員の検束」弐六日は監督、監督代理によっ百数十台を運転した。(新聞報道は罷業を非難攻撃)二十七日、運転車台数は二百七十台となり、運転線もやや延長された。「S.M.U.」の杉原正夫は収監中の交通組合理事中西伊之助君に面会し続いて井上電気局長に面会して調停を試みんとしたが、遂に拒絶された。

(弐八日、友愛会本部に集合、罷業員を応援)

(罷業は刻々切崩された、三十日は早朝から平常通り運転、入獄者八十三名、馘首者約二百名)

★六号が発行された時点では杉原正夫が交通労働組合の新理事長となっている。罷業報告記事も杉原が筆者。亀田註

六面《メエ・デエの記》(日本最初のメエ・デエ、五月二日、上野に開催)、十二面大杉栄……■翌日の昼東京に出た、玄関から門を出て真っ直ぐ停車場へ行った。誰もお供が来ていない。■其晩は日比谷の服部の家で泊った。そして翌日、即ちメーデーの当日、服部と一緒に上野へ行こうとする所を日比谷署の視察共にちょっと署までと云われて、上野の会の済むまで其処に検束されて了った。■夜、鎌倉に帰ると、一四頁《広告》『一革命家の思出』が、先月の二十日に出た■この五月の下旬、僕と伊藤野枝の共著、小説集『乞食の名誉』が出版された第二次『労働運動』創刊

一九二一年一月二九日

週刊『労働運動』一号、

一面《日本の運命》大杉栄

一 (極東の政治状況)………………

二 ロシアから各国が手を引いた現状

の日本人は今目ざめつゝある。

五 二行活字潰し………七行活字潰し………僕等の態度は『其時』になつてきめていゝ。けれども、今から心がけてゐなければならない事だ。労働者は、一切の社会的出来事に対して、労働者自身の判断、労働者自身の常識を養へ。そして其常識を具体化する威力を得んが為の、十分なる団体的組織を持て。労働者の将来は、たゞ労働者自身の、此の力の程度如何んに係る。

「週刊『労働運動』は此の準備のために生まれる」英文一月二三日 住所労働運動社 神田北甲賀町一二、《同志諸君に》労働運動社同人近藤憲二、大杉栄、中村還一、和田久太郎、高津正道、伊井敬、竹内一郎、寺田鼎、岩佐作太郎、久板卯之助《病室から》僕ひとりここに引越して来た、露国興信所、実はロシアの下宿屋だ。麹町区有楽町三の一露国興信所内 大杉栄、三面「韓国労働運動の左傾」山川均

六面《本年度の計画希望及び予想》

交通労働組合・中西伊之助「昨年、罷業解決の時の公約が、未だ履行されてゐない矢先き、世間に失業者が殖えるに従って、従業員の賃金が却って低下する。その不平がいつ発するか。今日までの労働組合が、非常な努力と、多大の犠牲を払って、実に僅かづゝ積み上げて来た労働条件が、一吹きの小景気風で崩れ落ちて了った悲哀を、今、我々は味はされてゐる。此処に、与えられた暗示がある。そして、此処に、本年の労働運動の進路が展開される。僕等は、罷業以来、沈滞してゐる組合の挽回運動を起すに当って、今後の組合の運動が、労働運動の根本精神を自覚した同志──理想に生き熱情に動かされた人達の運動にあらねばならぬことを思ふ。少くとも、月二回以上の講演会を開くこと、広く全国的に宣伝運動を起すこと、等の希望を実現したい。(最後の三行活字潰しで判読できず)」

週刊『労働運動』八号 《退院します》鎌倉小町三月二八日大杉栄、

二面《光と闇》交通労働組合が二分して、新に全国交通運輸労働者同盟が出来、両者の間に内争が起つてゐる。次号で詳報しよう。

一九二一年四月二四日

週刊『労働運動』九号 駿河台から■大杉は一週間に一度位は社に来る、最終記事面に住所が記載される

《読者諸君から・誇大な見方だ》中西伊之助、第八号の記事への批判「下らぬ野心家の、出タラメな宣伝ばかりの材料では真相は判らぬ。全く現在は、労働者同志が内争する程の余力はない」

一九二一年五月一三日週刊『労働運動』一一号

一九二一年六月三日 同一五日附週刊新聞労働運動第六号に「青年に訴ふ」と題する記事を掲載せるを以て新聞紙法違反として取調中の処分新聞紙は単に内閲の為印刷せるに到り為め証拠不充分の理由に依り六月三日不起訴事処分に附せられたり

【資料】

「『赭土』の中西君」       堺利彦

『改造』一九二二年十月、四巻十号

 労働運動者としての中西伊之助君はまだ疑問の中に在る。社会主義者としての彼は一層の疑問である。只だ『赭土に芽ぐむもの』の著者としての彼は、あざやかに成功を示してゐる。…私は暫く彼と共に英文の社会主義書を読んだ事がある。(熱心である事だけは善くわかったが)それが果してどこまで進み得たかは、十分私にわからなかった。…兎かくする中、彼は労働運動をやりだした。交通労働組合理事長として彼の名が世間に知られて来た、其の運動の経過や、成功や、失敗については、私は其の委しい事を知らない。ただ其の成功が余りに早く、其の失敗が亦た余りに早かった事だけを記憶する。そして彼れの行動に対する善悪両様の批評を?々聞いた。否、卒直に云へば、可なり悪い批評の方を多く聞いた。私はそれに無理がないと思った。私自身が直接に彼から聞いた所だけから判断しても、彼には可なり術策が多かった、悪意の術策ではないにしても、労働運動者としての純真が足りないと感じられた点があった。

 然し彼は今、出獄の後に於ける新らしい勇気を以て、そして又、近く再び来るべき入獄の前に於ける感慨を以て、更に別個の労働運動をやっている、その労働運動がどんな経路を取っているか、どんな効果を示しているか、それはまだ私に分っていない。労働運動界には又いろいろ彼に対する批評が起っている。

 そこで要するに、労働運動者としての彼、社会主義者としての彼は、まだ疑問の中に在る私としては勿論、彼れの労働運動が純真なものになる事を切望しているが、それは総て将来の問題に属する。彼の此の次の入獄は、蓋し此の将来のを決定する為に、甚だ有力であるだろう。(私は直ぐに其の筆力に魅せられてしまった。「実にうまいもんだ? ── 私は?々ひとりごとの嘆息を発した、」)然し「赭土」はマズイどころの段ではない。寧ろウマすぎる。中西君にこういう文学的のタシナミがあろうとは、実際わたしの思いもかけない所であった。……私は固より、小説に対する私の批評眼を信ずるものではない。それで私は只、私に取っては「赭土」は「非常に面白い」という事だけを多くの人に語った。私の勧めに従って「赭土」を読んだ人は、大抵みな同じく「非常に面白い」と云った。文学批評について可なりの専門家もそれに承認を与えた。然し謂ゆる文壇は殆んど「赭土」を無視していた。

 けれども中西君、あまり早く「認められる」のは決して有りがたいものではない。永い「無視」と戦って遂にそれを征服する所に愉快がある、…(「不逞鮮人」に関して)

…「無視」の何んのと云ひながら、中西君はもう流行児になりかけているのかも知れない。少し早や過ぎる。自重が肝腎だ。

【資料】

「櫻花爛漫下の大ストライキ」中西伊之助  『改造』一九三〇年三月十二巻三号掲載

 だが、未だ何人も東京市内に二万の労働者を有し、全国に五十万の労働者を有して、しかも『公共事業』なるが故に他の産業労働者の如く賃金の値上げ、待遇の改善運動をなし得ざる虐げられた交通労働者の処女地を開拓しようとするものはなかった。…何とかして彼等に接近し、そして彼等に労働組合を組織せしめなればならぬと私は考えた。…大正八年の春は去り、夏は来た。私は幾度か市電青山出張所のあたりを徘徊した。けれど彼等に接近して組合を組織せよと説く手がかりを得なかった。

 八月下旬のある夜、私は恋人と逢曳をするような胸騒ぎを感じながら、本芝のある労働者の家に行った。…(しかし接触できたのは労資協調路線の労働者であった)

 市電青山出張所の佐々木専冶君に会つたのは、それから二週間ばかり後であった。…ある日、私は佐々木専冶君を説いて、階級闘争主義を奉ずる戦闘的労働組合を組織するように勧めた。秋は深くなった。麻布笄町の青山墓地下の私の家に、私はこの純真な一労働者と二人きりで、落葉の音をききながら、日本交通労働組合の揺籃を作る竹を削ったのである。…『大正八年九月三日午後五時、東京市外中渋谷宇多川、日本メソジスト教会講義所手塚六郎氏(従業員)方で、本組合の創立総会を挙げた。出席者三十五名、席上、当時時事新報記者中西伊之助氏を満場一致で組合理事に推した所、同氏は固辞されたが従業員の懇請と熱烈さに遂に承諾され、次いで「宣言」「綱領」「組合規約」を議決し、之を社会に公表することゝなった。

(八日午後五時第二回役員会)(同月十一日、本所支部発会式、「労働組合の話」中西伊之助「賃金基金説と同盟罷工」東京市長田尻稲次郎)

以下は引用略

(一九三〇年二月六日の雪の朝、第二回普選総選挙戦に狂暴なる弾圧と戦いつゝ稿)

一九二一年六月二五日、週刊『労働運動』一三号、一面掲載の英文要約が無くなる 北甲賀町、二面《どうするか》渡辺政之輔

一九二二年九月十日『労働運動』第七号

《中西君の行動》

相扶会 小野源之助「玉川電車罷業に関して中西君の採った態度」

③中西伊之助と中浜哲(アナキスト

詩人・ギロチン社メンバー)、非親和的な関係(『文芸戦線』における応酬)、中浜は信濃川事件の現地調査にも行く
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# by pugan | 2011-05-13 17:08

金子文子と中西伊之助7-3

④中西伊之助と金子文子、朴烈

A 運動紙への文章掲載

二人との出会いが「いつ」かと、推測をすれば遅い時期としては『黒濤』の創刊の頃、一九二二年七月一〇日から二号発行の八月の始めであろう。クロニクルにも記したが中西伊之助は二号二面に「一本の蝋燭」という創作を掲載している。以降続編の掲載は無い。同じ号の三面には名刺広告も掲載されている。「『赭土に芽ぐむもの』著者、中西伊之助 東京府下中渋谷六九四」

朴烈の動向を確認しておきたい。

一九一九年、一〇月に東京に移り新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫と仕事を続ける。

一九二〇年中頃に血挙団を組織する 

一九二一年一〇月 義挙団に加入

一九二一年一〇月 本郷駒込で友達と間借り生活

⑤中西伊之助と金子文子・朴烈を結

びつけたキー・パーソン、集りは?

朝鮮での新聞記者体験、朝鮮を舞台にした小説の発表、売文社での交友を通じてのつながり 

A 岩佐作太郎の可能性を検討する

 ここまで、中西伊之助の不在の「場」も含めて一九一九年から二二年のアナキストたち、また堺利彦の周辺の人脈を当時の運動紙誌から挙げてきた。堺の人脈と朴烈のそれと重なるのは岩佐作太郎、近藤憲二である。

一九二一年一一月 黒濤会、結成

一一月二九日 岩佐作太郎方で「エスペラント研究会」が開かれる。杉本貞一・聴取書、(一九二四年五月八日、東京地裁検事局石田基、漢数字は聴取書記載の番号)(二九日以前の動向。一一、演説会、朴烈検束、一二、その晩、麹町の岩佐宅「露国飢饉救済基金募集の相談会」二、三十名が集る、近藤憲二以外は名を知らぬ)一三、其翌々日岩佐方にエスペラント研究会があると云ふので柴田方と共に出向く、警官が来て柴田の講義を阻止したので空しく帰る

一九二一年一二月四日 岩佐作太郎方で忘年会が開かれる。《杉本貞一・聴取書一四》同年十二月四日頃岩佐方忘年会、堺の娘外二、三の婦人だけ、だんだん集って三十名くらい、和田久太郎、近藤憲二、木村(朴烈)、服部、原沢等が来ました。

黒濤会結成に関しては月日を特定した文献は残されていない。金廣烈の論文『一九二〇年代初期日本における朝鮮人社会運動──黒濤会を中心に──』では《一九二一年十一月二九日、朝鮮人活動家たちは日本人アナキスト岩佐作太郎の家で「エスペラント講習会」という名目で集る、監視の警官に労働問題を論じたという理由で解散させられる。この日の集りは朝鮮人による思想団体・黒濤会を結成しようとしたものであるが、警察はただの「エスペラント講習会」であったと認識したようである》と確定させている。根拠は後年にまとめられた官憲の文献である。《警保局内部資料二五年十二月の『在京朝鮮留学生概況』で初めて黒濤会の結成事実について記録》と金廣烈は記述。しかし官憲資料だけで傍証がない。

すでに引用したように金子文子・朴烈の予審における杉本「証人訊問調書」でも「エスペラント講習会」が開かれたことが証言されている。しかし黒濤会には全く触れていない。朴烈の予審であるから予審判事は真先に黒濤会の動向を追及している可能性はあるだろう。しかし「調書」には黒濤会の名が出されていない。組織としての集りではなく、個々の朝鮮人社会主義者の参加だったのではないか。

杉本貞一は一九二四年五月九日の証人訊問調書(予審判事立松懐清)で《朴烈からの爆弾入手の依頼、出合いの経過》を述べている。

以下要約をすると「一九二一年一一月末か一二上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武富を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での労働問題に関する演説依頼をする。 一二月上旬か四日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると《夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい》(杉本は後に出鱈目とこの供述を翻す)「英国皇太子が日本に来るその際爆弾を使用すれば革命が起こす事が出来るよい機会」「(東京に)十日間滞在している間に朴烈、原沢、岩佐作太郎、近藤憲二を知る様に為つた」「朝鮮基督教会館の演説会は朴烈が検束され閉会」

 焦点はアナキスト岩佐作太郎の存在である。

二一年末には朴烈と岩佐作太郎は面識を得ている。(ただし杉本証言以外では関連する記述がない)。岩佐は堺利彦の売文社へ出入りをしていた。そこで岩佐と中西伊之助は出会っている可能性はある。

二二年以降の朴烈の主な活動

一九二二年一月四日 一一名の連名で『朝鮮日報』紙一月四日号に「同友会宣言」を発表

一九二二年二月『赭土に芽ぐむもの』刊行

一九二二年四月 淀橋署に一六日間検束。[英国皇太子来訪のため予防拘束]中浜は皇太子の訪問地を移動。

一九二二年四-五月 金子文子と同棲、

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊

一九二二年八月一〇日 『黒濤』第二号                 

中西伊之助の寄稿

一九二二年八月 信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。

一九二二年八月頃 新潟現地調査に赴く。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表

一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

一九二二年 ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

一九二二年一〇月二日  大島製鋼争議支援

一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子

岩佐作太郎の消息にも触れておく。『労働運動』一九二二年十一月一日発行号では《個人団体消息》に「岩佐作太郎君、新聞紙法違反禁錮四ヶ月の刑を終へ九月二十七日東京監獄を出た。目下郷里へ帰省中」と記述。

また金子文子、朴烈と交流があるアナキストも「軍隊宣伝事件で東京監獄に収監され予審中であつた大串孝之助、平瀬権次、飯田徳太郎、石田正冶、後藤謙太郎、茂野藤吉、吉田早苗の諸君は、十月十七日から二十六日迄に掛けて、全部責付で出獄した。」と消息が記載。

B 二二年九月七日、信濃川事件(近年の地元研究者は「中津川事件」と呼称)現地報告集会、「信濃川事件」報道後の出会いの可能性は? 

朴烈、中浜哲も八月に現地調査に赴く、中西による言及、集会参加の記録は無い。

一九二二年の夏も注目される。七月に『黒濤』が創刊され八月発行の第二号には中西伊之助の寄稿が早くも掲載されている。そして信濃川事件も発覚している。『黒濤』創刊号を見てから中西伊之助は金子文子、朴烈たちに連絡をとった可能性も排除できない。

信濃川事件は一九二二年八月、読売新聞が最初に報道した。「信濃川に朝鮮人労働者の死体、何体か流れつく」と刺激的な見出しであった。当時「信濃川朝鮮人虐殺事件」と呼ばれた事件の発覚であった。実際に死体が発見されたのは上流の中津川であり穴藤の発電所を建設中の労働者であった。

この事件の真相解明の動きに関しては日本人の社会主義者で朝鮮への関りが薄くても参加している。中西伊之助が言及していてもおかしくは無いが、残された文献では確認はできていない。事件発覚後『東亜日報』は記者を新潟現地に特派し水力発電所建設現場の穴藤(けっとう)地区を中心に朝鮮人労働者への虐待、虐殺の調査と取材をもとに連載記事を掲載した。

中浜哲は『労働運動』第七号一九二二年九月十日発行号に現地報告を掲載している。

「信越の監獄部屋から」自由労働者同盟濱鐡

 実地調査した『信濃川虐殺事件』の真相を送る。信濃川(千曲川)の支流たる中津川の下流、信州切明から越後大割野に至る信越の国境八里余りの間。これが信越電力会社を経営する大工事なのだ。千曲川に呑まれる下流の大割野に第二発電所あり、それを遡る二里の下穴藤に第一発電所がある。…監獄部屋を作るには絶好の箇所だ。…日本土木株式会社(即ち大倉組)が、大割野、前倉間。大請負師大林組が前倉、切明間を請負ってゐる。更にその又下に沢山の頭連があって、総数二十余りの飯場小屋をおッ建てゝゐる。その奴隷供給地は、主として不景気でアブレてゐる九州、朝鮮だ。近傍の信越の地方だ。失業者、自由労働者、小作人などの群れが、百人、二百人とまとめて貨物同様に部屋へ連れ込まれて来るんだ。…」

 朝鮮人虐待の全ては大蔵組の大頭目によって引き起されたと『東亜日報』の記者は報告している。そして九月七日の前日に演説会の開催記事が掲載される。

〈新潟県虐待事件と反響、空前の大演説会、朝鮮人と日本人の連合で七日東京で演説会開催、東京から特派員 李相協〉「…七日午後七時から、神田美土代町の青年会館で大演説会を開くことを決定した。…すでに決定した演士は次のとおりである。△朝鮮人側…朴烈△日本人側 …憲政会代議士・山道襄一、革新倶楽部代議士・中野正剛、堺利彦、大杉栄、中濱鐡、小牧近江、松本淳三 朝鮮側主催でこれほど大規模な演説会が開催された前例はない。それだけに世間の熱い注目をあつめてり、警戒は今からすでに非常に厳重である。」一九二二年九月六日『東亜日報』

この事件の参考文献としては『新潟近代史研究』第三号八二年「中津川水力発電所における朝鮮人労働者虐待・虐殺事件、東亜日報掲載の資料紹介」張明秀。『在日朝鮮人史研究』「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年がある。

『亜細亜公論』という雑誌が事件に対する感想をハガキでのアンケートにより回答を求め

掲載している。社会主義者や朝鮮にゆかりのある文化人の回答が掲載されている。しかし朝鮮を舞台にした小説を刊行しながらも中西の文は掲載されていない。

三 中西伊之助の立場 

① 死刑制度への批判(朝鮮の監獄での囚人の見聞、著作での死刑囚の描写)

② 朝鮮へのまなざし(自らの朝鮮体験、朝鮮観『改造』、朝鮮の社会運動概況)

③東京市内における住居の変遷、研

究会MLにて会員諸氏からの教示による、渋谷・新宿を中心として東京市、郡部を時計回りに移る

A 一九年から二二年 麻布区笄町(こうがいちょう)労働運動関連の事務所か住居か、

余話として参考、十年後、小林多喜二が最後のアジトとした周辺

B 二三年 代々木山谷、不逞社との距離は一Km程度の近さ。

C 二四年以降 淀橋町柏木

参考、江口渙も二四年に幡ヶ谷に移る十分程度の距離

柏木から市ヶ谷刑務所までは徒歩二十分から二十五分
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# by pugan | 2011-05-10 17:09

金子文子・市ヶ谷刑務所

[刑務所跡]

新宿駅から、厚生年金会館の先で左折、富久町から余丁町を迷いながら暑い七月の路地を30分近く彷徨した。韓国からの来訪者が金子文子と朴烈が囚われていた市ヶ谷刑務所跡地を訪ねたいということで案内した。案内人の私も初めてだが文献で大まかに見当はつけていた。「東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれて一九〇五年五月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……一九二二年一〇月一三日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれるようになった」一九六七年に森長英三郎さんが日弁連有志に刑死者の慰霊塔建立を呼びかけた。その経緯と監獄の変遷は『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』(小冊子)に詳しい。日弁連有志に働きかけ跡地の町会の人たちから協力を得「死刑囚の慰霊碑」を建てた。それがなければ東京監獄、市ヶ谷刑務所の跡地は確認できても構内施設の位置関係を把握するのは困難であった。案内する少し前、七月二三日、「大逆犯」とされた金子文子が「自死」したという日に最後の地である宇都宮刑務所栃木支所跡を私一人で訪ねた。東京からから二時間余り、幾つかの路線を継いで栃木駅に着く。跡地は栃木市の図書館と文化会館に変わっていた。その市立図書館で関連資料の調査を依頼すると正門と連なる官舎の写真しかなく二、三十年前の栃木市内の地図すらなかった。驚いたのは、移転したのは二三年前の一九八〇年であるが、それまでは文子が居た当時の「明治」末に建設された木造二階建て舎房を使用していたという。文化会館敷地を散歩中の方に刑務所の位置関係を尋ねてみた。その方から詳しく舎房の建物の位置を示してもらえた。出会いがなければ刑務所の遺物も跡地の碑も一切無かったので漠然としか想起出来ないまま、離れざるを得なかった。市民の憩いの場として樹々も新たに移植され、刑務所跡を人々の記憶から消そうとした行政の思惑は露骨であるが、その住民は懐かしさを込めエピソードも語ってくれた。

参考 <1926年4月の初めに市ヶ谷刑務所から移された金子文子>

 書物の所持を制限され労役で筆記の時間も無く自らの境遇か他の囚人への扱いなのか看守に抗し 歌を残す「手足まで不自由なりとも 死ぬといふ、只意志あらば 死は自由なり」「さりながら手足からげて 尚死なば そは<俺達の過失ではない>」「殺しつつなほ責任をのがれんと もがく姿ぞ 惨めなるかな」「皮手錠、はた暗室に飯の虫 只の一つも 嘘は書かねど」「在ることを只在るがままに書きぬるを グズグズぬかす 獄の役人」
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# by pugan | 2010-06-25 07:48

金子文子・市ヶ谷刑務所

[刑務所跡]

新宿駅から、厚生年金会館の先で左折、富久町から余丁町を迷いながら暑い七月の路地を30分近く彷徨した。韓国からの来訪者が金子文子と朴烈が囚われていた市ヶ谷刑務所跡地を訪ねたいということで案内した。案内人の私も初めてだが文献で大まかに見当はつけていた。「東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれて一九〇五年五月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……一九二二年一〇月一三日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれるようになった」一九六七年に森長英三郎さんが日弁連有志に刑死者の慰霊塔建立を呼びかけた。その経緯と監獄の変遷は『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』(小冊子)に詳しい。日弁連有志に働きかけ跡地の町会の人たちから協力を得「死刑囚の慰霊碑」を建てた。それがなければ東京監獄、市ヶ谷刑務所の跡地は確認できても構内施設の位置関係を把握するのは困難であった。案内する少し前、七月二三日、「大逆犯」とされた金子文子が「自死」したという日に最後の地である宇都宮刑務所栃木支所跡を私一人で訪ねた。東京からから二時間余り、幾つかの路線を継いで栃木駅に着く。跡地は栃木市の図書館と文化会館に変わっていた。その市立図書館で関連資料の調査を依頼すると正門と連なる官舎の写真しかなく二、三十年前の栃木市内の地図すらなかった。驚いたのは、移転したのは二三年前の一九八〇年であるが、それまでは文子が居た当時の「明治」末に建設された木造二階建て舎房を使用していたという。文化会館敷地を散歩中の方に刑務所の位置関係を尋ねてみた。その方から詳しく舎房の建物の位置を示してもらえた。出会いがなければ刑務所の遺物も跡地の碑も一切無かったので漠然としか想起出来ないまま、離れざるを得なかった。市民の憩いの場として樹々も新たに移植され、刑務所跡を人々の記憶から消そうとした行政の思惑は露骨であるが、その住民は懐かしさを込めエピソードも語ってくれた。

参考 <1926年4月の初めに市ヶ谷刑務所から移された金子文子>

 書物の所持を制限され労役で筆記の時間も無く自らの境遇か他の囚人への扱いなのか看守に抗し 歌を残す「手足まで不自由なりとも 死ぬといふ、只意志あらば 死は自由なり」「さりながら手足からげて 尚死なば そは<俺達の過失ではない>」「殺しつつなほ責任をのがれんと もがく姿ぞ 惨めなるかな」「皮手錠、はた暗室に飯の虫 只の一つも 嘘は書かねど」「在ることを只在るがままに書きぬるを グズグズぬかす 獄の役人」
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# by pugan | 2010-06-25 07:48

芙江 2008年

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「台山は叔母の家の持ち山だった。叔父が以前鉄道に勤めていた頃買って置いたとかいう山で、栗の本が植え込まれていた。」  

金子文子は八〇年余り前に市ヶ谷刑務所の独房で芙江の少女時代を回想し手記に認めた。  韓国訪問の目的の一つに、この山を歩くことを計画に入れていた。芙江という慶尚南道の小さな町に位置している。

直前の滞在地、南部の光州市から鉄道で行くには不便であった。前日に釜山市郊外のバスターミナルで買った『時刻表』をもとに乗継電車を決めていた。

芙江駅は在来線の駅でムグンファ号が一日数本しか停車をしない。 午前八時、光州駅のホームに停車していた韓国版新幹線・KTXの座席に腰を落としたときは発車二分前であった。乗り損なっていたら次のダイヤまで三時間近く待つしかなかった。西大田駅で一時間半の乗継待ち時間がある。モダンなデザインの駅舎を出て近辺を散策。万博を開催し発展した大田市の中心部までは距離がある。食堂やカフェで時間をつぶす。京畿線に乗換え三〇分で芙江駅に着く。宿泊地ソウルに向かう電車まで三時間ある。
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「先生が、《あれは山ではない、丘だ》と定義をした事がある位で、この山は決して高い山ではなかったが、それでも位置がいいので頂上に登ると、美江が眼の下に一目に見える」

韓国各地も日中の気温は三〇℃前半であり、日本と変わらない。町中を数分歩くだけでも汗をかく。台山への登り口が明示されているわけではない。町の端にある中学校の敷地から登れると見当をつけた。 坂道を登りきった門から校庭を抜け真ん中にある石段を上がった。 校庭からは望めなかった畑が広がり後背地に薮と林がある。強引に薮にはぃった。引掻き傷と襲いかかる薮蚊で剥き出しの腕、脚が腫れてくる。汗が膜になり身体を包み込む。空気が動かない。薮が続くようならば引返し別の取り付き口を捜すしかない。

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「木の枝に褪紅色の栗の実が、今にも落ちそうにイガの外にはみ出している。… 時には草一本ないところに出るかと思えば時には深い草叢のところに出くわした」  

少しだけ進むと開けた窪地があり抜けて均された狭い道と出会えた。道を上に進む。  
尾根すじの道を進むと林の中であるがピークと思われる地点に到った。

昨年一二月に探索した錦江が望める。

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「西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋やその他の建物が列なっている。町の形をなした村だ。中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ」  

現在の芙江は錦江の近くにIT企業の工場が誘致された影響で中層アパートが数棟そびえ宿屋がモテルに変わり町といえるだろう。  
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しかし駅は素朴で停車場と言うにふさわしくまた古くからの居住地域には村の趣きが僅かにある。

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「何だか腹の底から力が湧い来るような気がして、私は思はず「おーい」と誰にと言うのではなく叫んでみる。けれど無論誰もそれに答える筈はない。私は独り山にいるのだ。」  

金子文子の遺骨は三度も移葬され今の墳墓は聞慶の朴烈記念公園の一角を占めている。  三日後に訪れたとき「台山」で拾った緑の栗のイガを墓に添えた。
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 彼女が精神の自立を獲得したかつての台山は開発で削られることもなく芙江の町を見守っている。  その山の林の中の道を往きつ戻りつした。

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「ゆったりとした気分になって草の上にごろりと横わって、空を眺める。深い深い空だ、私はその底を知りたいと思う。私は眼を閉じて考える。涼しい風が吹いて来る。草がさわさわと風に鳴る。」  九〇年前の「叫び」に応答が可能であるか…「台山」を彷徨い自立を求めた精神の揺籃の場と深い空を探した。

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『山の本』65巻 2008年9月発行  掲載原稿
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聞慶の現在の墓所

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金子文子の生き方
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# by pugan | 2008-07-30 02:30