2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

金子文子クロニクル

金子文子 クロニクル  2004年12月  

改定事項は「」内は『彷書月刊』金子文子特集号年譜、『金子文子 わたしはわたし自身を生きる 手記・歌・調書・年譜』鈴木裕子編のための年譜草稿

ウェブサイト版「金子文子の生き方」2003年から06年にアップ

1900 or 1901 文子の父、文一は鉱山師と知り合い諏訪村の円光寺に1年半ほど滞在、タングステン鉱の試掘に従事、文子の母きくの(24歳)と出会う。円光寺は金子家のすぐ北側
「佐伯文一は鉱山の仕事で滞在していた山梨県諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。金子家は諏訪村の農家。」

1902年か03年頃、きくのは文一と横浜に出る

1903年1月25日 金子文子生まれる (出生は届けられていない。両親が別個に聴取された1925年8月の大逆罪、爆取罰則の予審証人調べで卯年、1月25日と述べている。なお1908年に母方の祖父の五女として戸籍に編入されているが生年は1902年とされている。両親以外の身内が記憶違いで届けたのであろうか)

 年は特定できないが、一家は磯子の海岸に移る。さらに横浜の街はずれに移る、田圃に囲まれていた、その冬に弟が生まれたとの記述が獄中手記にある、

「一九〇三年一月二五日 横浜で暮らす二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。(両親も結婚届けは出していない)。文一ときくのは一九二五年、立松判事から証人訊問を別々に聴取され記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。(文子自身は後年まで一九〇四年生まれと思い込んでいた。一九一二年、祖父母の戸籍に入れるために身内が届け出た生年は一九〇二年)。文一は土方部屋事務や寿警察署の巡査に従事していた。」

1908、3、8 弟賢俊が生まれる

      
「一九〇七年頃 四歳の頃(手記)。横浜の寿町に住む。文一は若い女を家につれ込んだり廓に通う。文一の入院の間、文子はきくのの実家で半年間育てられ、この時期は幸福であったと回想。一家は磯子海岸から横浜の街はずれに移る。弟賢俊が生れる。」

1909年頃 叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れ父が商売で借りた氷屋で同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼み込み地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と駆落ちする。

「一九〇八年から〇九年秋頃 文子の叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れる。一家は横浜の久保山に移る。文一は氷屋の商売のため近くの住吉町に借りた店舗でたかのと同居を始め久保山の家に戻らなくなる。」

                 
1910年秋 文一が家を出て、母は小林ながよしと同棲後、小林の故郷山梨県丹波山村に移る、文子は一里離れた鴨沢小学校に通う


「一九一〇年頃 学齢に達しても無籍なので学校に行けず夏に「貧民街」の棟割長屋の「学校」に通い始める。短期で通えなくなる。秋に文一はたかのと示し合せきくのと文子たちから「逃げる」。きくのは鍛冶職工の中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされるという虐待を受ける。弟は文一に引取られる。きくのが地域の小学校に頼み文子は無籍のまま通学できるようになる。中村が仕事を解雇されたのを機にきくのは別れる。きくのは郊外の製糸場や紡績工場に職を見つけ、じきに七、八つの年下の男と同棲を始める。その男小林は仕事をせず寝て遊んで暮らし、きくのも仕事を離れてしまう。」

1911、3 小学校終業式の数日後、きくのの実弟共冶がきくのと文子を迎えにくる、諏訪村(現山梨市牧丘町)に暮らす
「一九一一年頃 文子はきくのにより「芸妓や娼妓の世話をする人身売買業ともいうべき口入屋」(手記)に連れて行かれるが母が思いなおす。場末の木賃宿に移る。八歳(手記)の秋になり文子はきくのと共に小林の郷里である山梨県北都留郡の村の小袖集落に移る。文子は一里ほど離れた鴨沢の町の小学校尋常科に通う。」

「一九一二年頃 早春、妹の春子が生れる。きくのは終業式までに教員に何も送らなかったので文子は免状がもらえなかった。諏訪村(現山梨県山梨市牧丘町)の実家から叔父(母の弟)がきくのと文子を迎えにくる。春子は小林の家に残す。きくのは製糸場に稼ぎに出るがしばらくして塩山駅近くの雑貨店を営む家の後妻に入る。文子は諏訪村で祖父母、叔父一家と暮らす。」

1912、秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江にて同居している娘夫婦の養女としてもらい受けに来る、祖父金子富太郎の五女として入籍、ムツと朝鮮に向かう

「一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。佐伯ムツが無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと主張、文子は母方の祖父母の五女として入籍させられる。(戸籍の届けは一〇月)その際、出生年は身内の記憶違いなのか一九〇二年生まれと届けられる。文子は村の小学校に通うが児童数は三〇人足らずで三年の組がなく四年に編入。修業証には岩下ふみ子と記される。」

「一九一三年頃 祖母から絵具の購入を拒否されたうえに「無籍者だった」と告げられ、精神的な虐待が始まる。五年時の通知簿は金子ふみ子に戻されていた。学校は公立になり高等科ができ進む。後に文子が獄中から手紙を寄せる服部先生が新任の教師としてくる。」


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駅前の案内図
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駅前からの景観、学校の裏山が望める

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現在の芙江の町(中心地は線路の南側)鉄道の北側、当時は日本人集落
2007年12月二度目の訪問


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家の間を縫う道筋は変化が無い

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家の門がまえ


1915年頃 文子、女中扱いをされ始める。  
「一九一五年頃 岩下一家から女中扱いをされ始め、祖母の手伝いの際に鍋を壊して弁償させられる。

一九一六年頃 正月、祖母から些細なことで体罰を受け氷点下の戸外に朝から夕方まで追いやられる。七月の始めに近所の日本人の「貧乏な家」の女の子と学校から一緒に帰っただけで籾倉に押込まれ休学させられる。服部先生は味方にはならなかった。九月の新学期から再び通う。」
  
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芙江の村を流れる錦江と文子が眺めた山     

1917年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を出る。卒業後の夏、岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
「栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を体験。夏に家から追い出されたとき近所の朝鮮のおかみさんから親切にされ、朝鮮に住んだ七ヵ年を通じ初めて人間の愛というものに感動する。翌日も岩下一家から許しが出ず文子は行き場がなく自殺を試みる。」


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芙江 文子が生きる希望を懐いた栗の林がある学校の裏山 2008年7月30日 三度目の訪問

「一九一八年頃 一四歳の春、高等小学校を卒業するも岩下家は養女にする際の約束である、女子大学への進学への前提となる女学校に進ませず、夏には岩下家の物置小屋の土間に住まわす。」

「一九一九年四月一二日 山梨に還されることになり朝鮮を去る。佐伯ムツが同行する。二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母の実家に着く。文子の満年齢は一六歳になっていた。」

1919、4、12 文子16歳で朝鮮を去る、14日塩山駅に着く、翌日諏訪村の母の実家に戻る。

1919年夏 父が叔母たかのと暮らす浜松に移るも東京での勉学希望を拒否され父の生活面での圧制がいやになる。        

1920年4月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚窪田亀太郎の家でひと月前後暮らす。降旗新聞捌売り店に住込み上野で新聞の捌売りを始める。女子医専入学を目標とし午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

1920年夏 上野の新聞捌売りの場で演説に来ていたアナキストのグループから冊子を購入する。湯島に間借り露天商となる。

1920、8 浅草の砂糖屋の女中になり大晦日にやめる

1921 正月 社会主義者の印刷屋、堀清俊方に住みこむ、2月に出る、窪田の家に戻る

1921、11 窪田の家を出る、岩崎おでん屋の女給になる。(『手記』)あるいは同年半ばから(岩崎第一回証人訊問調書)、「岩崎おでん屋」は社会主義者が集まる日比谷の小料理屋。文子はそこに住込む。昼は働き、夜学に通い唯一の女性の友人であり同志となる新山初代を知る。新山からスティルナー、アルツィバーセフ、ニイチェを教えられアナキズム、ニヒリズムに関心が傾く。               

1921年2月頃 朴烈の力強い詩を知り、強く感動を受け朴烈と会うことを願望する。             

1922年3月5日か6日 朴烈が「岩崎おでん屋」を訪ねてくる。   

1922、4月か5月 金子文子、朴烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方2階 現在地世田谷区池尻2-31-15から17、

1922、7、10 『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922、6、5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」
1922、8、10 『黒濤』第2号「此の態を見て呉れ」烈生 「思ったこと2つ3つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922、11 黒濤会分裂

1922、11 黒友会を組織

1922、11、7頃  『太い鮮人』第1号 枠外に「フテイ鮮人」と記載「×××××取締法案」朴烈 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922、12、19 頃 『太い鮮人』第2号
「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈 「所謂不逞鮮人とは」朴文子「学者の戯言」烈生 「破れ障子から」文子
去4日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに15日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた「朝鮮の詐欺共産党」烈生 「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923、3  黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923、3、15 『現社会』第3号 世田谷池尻412「××」烈生  註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」
「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
1923、3   金子文子と朴烈、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。現渋谷区富ヶ谷1 NTT裏辺り 

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2011年6月21日 韓国テレビ局ドキュメント番組制作チームを案内


参考リンク 2010年4月29日『韓国日報』記者を案内

1923、4 不逞社を組織

1923、4 朴烈、東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923、5、1 金子文子はメーデーに参加

1923、5、21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町18、現文京区向丘2丁目、

1923、5、27  不逞社第1回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923、6、10  不逞社第2回例会、望月桂を招く

1923、6、17  不逞社第3回例会、加藤一夫を招く

1923、6、28頃 不逞社第4回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923、6、30  『現社会』第4号 代々木富ヶ谷
「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈 「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈
「スッパ抜キ」バクレツ 「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文、実は同志10名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された…………メーデーの日、私は他四、五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 府下代々木富ヶ谷1474 

現社会社 省線原宿、市電渋谷下車「名教中学」下
1923、7、15  不逞社第5回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923、8、3  黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923、8、10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923、8、11  不逞社第6回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923、8、29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923、9、1  朴烈、午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923、9、2 朴烈、四谷の布施弁護士を訪ねる
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by pugan | 2011-06-20 05:45