2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

金子文子クロニクル 2

1923、9、3 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923、9  不逞社メンバー検挙され始める

1923、10、20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923、10、20 『大阪朝日』記事〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉

1923、10、25 金子第1回訊問調書

1923、10、27 新山初代供述を始める

1923、11、27 新山初代、危篤状態で獄外に出されるも死去、谷中法蔵院に墓碑

1924、1、17 金子文子第2回訊問調書

1924、1、22 金子文子第3回訊問調書

1924、1、23 金子文子第4回訊問調書

1923、1、24 金子文子第5回訊問調書

1924、1、25  金子文子、第6回予審にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924、1、25 金子文子第7回訊問調書

1924、1、29 金子文子第8回訊問調書

1924、1、30  朴烈第3回予審訊問にて金子文子の供述を認める。「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924、2、15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924、3、19 金子文子第9回訊問調書

1924、3、31 金子文子10回訊問調書

1924、4、10 金子、第11回訊問調書

1924、5、14 金子、第12回訊問調書

1924、5、21 金子第13回訊問調書、市ヶ谷刑務所

1924、7、1 『東亜日報』記事「韓けん相は6、24に保釈出獄」「李小岩は1924、6、30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1925、5、4 金子、第15回予審訊問

1925、5、5 金子、第16回訊問調書

1925、5、9 金子、第17回訊問調書、

1925、5、9 金子、第18回訊問調書、

1925、5、21 金子、第19回訊問調書

1925、5、30 金子、第20回訊問調書

1925、6、6 金子、第23回訊問調書、

1925、7、7  予審終結決定

1925、7、17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925、7、18 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925、7、18 金子文子、朴烈第1回予審訊問

1925、8、2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925、8、22 朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925、8、29 金子文子第2回訊問調書

1925、9、2 金子文子第3回訊問調書

1925、9、20  朴烈テキスト〈刑務所消息 不逞の烙印〉『自我人』第2号掲載

1925、9、21 金子文子、第4回訊問調書、東京地方裁判所にて

1925、9、22 金子文子第5回訊問調書、立松懐清

1925、9、30 公判開始決定意見書

1925、10、12 検事総長小山、大審院第2特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925、10、28 大審院公判開始を決定

1925、11、11 接見禁止を解く

1925、11、12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925、11、14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925、11、17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925、11、20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925、11、21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925、11、25 布施弁護士、結婚届け三通差入署名捺印を求める

1925、11、25 朴烈、金子文子の記事解禁

1925、11、25 『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉写真〈大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟〉


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1925、11、25 『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画〉〈近く刑務所で正式の結婚〉〈自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈〉

『京城日報』1925.11.25
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『日出新聞』1925.11.25
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1925、11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925、12、3朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925、12、6 『東亜日報』記事〈正式結婚、手続き〉

1925、12、7 『東亜日報』記事〈結婚に関して〉

1925、12、11 『朝鮮日報』記事〈獄中結婚は風説〉

1925、12、14 『東亜日報』記事〈書面上の結婚だけだろう〉

1926、1  「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926、1、19 『朝鮮日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、1、20 『東亜日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、2、26  第1回公判、人定質問

1926、2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926、2、26  第一回公判、文子はその夜手記「二十六日夜半」執筆
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1926、2、27  第2回公判、金子文子手記朗読か、検事論告死刑求刑

1926、2、28  第3回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926、3、1  第4回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 

■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。

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1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決

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1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926、7、23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。


1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文

1926.7.30  『朝日新聞』「自殺」報道
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1926、7、31 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている

刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子は山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。--文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう
1926.7.31 

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金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された
31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)


1926.8.2  大阪朝日新聞

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1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
1926.8.30

文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》■獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目■死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

1926.11.4

<金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで>「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』

1926、11、5

「金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の2名であった。」  『京城日報』 1926.11.7 夕刊

1926.12.13

訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし
日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』


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by pugan | 2011-06-19 06:04