金子文子クロニクル3
2011年 06月 18日
関連文献、関連企画
1946.12.25 『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房
1963.3-4 「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』
1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著
1973.7.23 ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地
1973.9.1 『朴烈』金勉一著、合同出版
1974.1.17 朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる
1976.3.20 山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式
1977 『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>
1981.6.22 栗原一男死去
1987.7 『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社
1988 『続・現代史資料アナーキズム』小松隆2編、みすず書房<訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>
1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>
付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌<山梨での碑の除幕式報告掲載> 1976.4.15発行が刷り込まれている。
1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房
1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12
2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催、東京
2003.3 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、
2003.10.7 韓国、ムンギョン市の朴烈義士・金子文子記念事業会メンバー、東京を訪問
来訪した人たちは3人。朴烈、金子文子を記念するために朴烈の故郷であり金子文子の遺骨が眠っている、ムンギョンに記念の施設と2人の墓碑のための土地を確保し公園にする、金子文子、朴烈に関する史料、文献を集めたいという趣旨
新宿の小さなホテルで懇談、ホテルはたまたま朴烈と文子の2人が予審と大審院の間に囚われていた市ヶ谷刑務所の跡地に近い場所。
翌8日、私も同行し山梨県塩山市牧丘町に向かう。金子文子の母親の故郷であり、文子も一年半余り暮らし、浜松からも夏休みには遊びに戻った思い出の地。事業会の方々は9日には関西に向かう。
7日の新宿での懇談は個人の立場で参加し、先方の要望をまず確認するという姿勢で臨む。
[懇談の場で「記念公園」の全体像の計画が示されました。現在の墓碑を何故移転させなければならないか、という説明もありました。日本円で6億円ほどの予算案、国からの補助も予定している。募金も集めている。初めて提示された計画の文中には、祠堂、義士、括弧で括られた金子文子の表現、韓国国家予算からの補助を想定していて、とまどいました東京で現段階、実際に協力できるのは、史料・文献、<多くは複写になると思いますが>の整理と「提供」ということです。韓国の事業会での収集済みの史料・文献リストはなく、今回の懇談の中でどの程度入手できるか初めて把握できたという段階ではないかと思います。具体的なこと、詳細は全く検討していないのですが、一般論でいえば史料・文献は「展示」用と「学習」するためと2つに分かれると思います。図書施設が併設されるかは不明]
参考
社団法人朴烈義士(金子文子)記念事業会資料調査委員
慶北聞慶市麻城面
朴烈義士(金子文子)記念事業事業地区 慶尚北道聞慶市麻城面梧泉里198一帯
2001年8月 法人設立準備総会
2002年11月 記念事業基本計画書作成
2003年7月 朴烈生家文化財指定申請、現地調査完了
記念公園敷地確保 14,455㎡、4,300坪
記念館2,060㎡ 623坪 地上2階、地下1階 祠堂、塔、展望台、公園、生家復元、金子文子墓所展示面積804㎡事業期間2003年-2005年
予算案6億、国家補助4億、地方費補助2億、自体誠金2,000万円
10月8日 牧丘での交流、懇談会 11時半ごろから2時ごろ、金子こまえさん、佐藤信子さん、土屋要さん、土屋さんの知人の方
場所を変えて、土屋さんから山梨の状況説明。2時半から1時間ほど。
参考、私自身の韓国、金子文子への関わりを中心として
1999年、ムンギョン墓碑訪問、韓国訪問の目的は東アジア地域でのアナキズム運動史の文献調査のため初訪問。朝鮮半島、日本列島、中国大陸での朝鮮アナキストたちの活動を把握するため。国民文化研究所で懇談会。
2002年7月23日、金子文子追悼集会、山田昭次さんに問題提起を依頼、シンポ開催
2002年、運営するウェブサイトに全歌集を掲載
2002年11月、新山初代の墓碑と死亡日確認。森まゆみさんと『谷根千』スタッフの協力を得る。経緯は『谷根千』号に森まゆみさん執筆。
2002年12月「コスモス忌」(秋山清さん追悼の集まり)金子文子をテーマ、史料提供協力、森さん講師。
2003年1月、「金子文子を学ぶ会」発足
2003年4月26日、「女性・戦争・人権」学会プレ・フォーラム、山田昭次さん講演会を聴く。
2003年5月、代々幡町(現渋谷区富ヶ谷)、不逞社跡地確認
2003年7月23日、当時の栃木刑務所跡地追悼訪問
2003年7月下旬、韓国からの研究者を案内。2人来訪、それぞれ金子文子と伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。
1946.12.25 『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房
1963.3-4 「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』
1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著
1973.7.23 ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地
1973.9.1 『朴烈』金勉一著、合同出版
1974.1.17 朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる
1976.3.20 山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式
1977 『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>
1981.6.22 栗原一男死去
1987.7 『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社
1988 『続・現代史資料アナーキズム』小松隆2編、みすず書房<訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>
1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>
付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌<山梨での碑の除幕式報告掲載> 1976.4.15発行が刷り込まれている。
1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房
1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12
2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催、東京
2003.3 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、
2003.10.7 韓国、ムンギョン市の朴烈義士・金子文子記念事業会メンバー、東京を訪問
来訪した人たちは3人。朴烈、金子文子を記念するために朴烈の故郷であり金子文子の遺骨が眠っている、ムンギョンに記念の施設と2人の墓碑のための土地を確保し公園にする、金子文子、朴烈に関する史料、文献を集めたいという趣旨
新宿の小さなホテルで懇談、ホテルはたまたま朴烈と文子の2人が予審と大審院の間に囚われていた市ヶ谷刑務所の跡地に近い場所。
翌8日、私も同行し山梨県塩山市牧丘町に向かう。金子文子の母親の故郷であり、文子も一年半余り暮らし、浜松からも夏休みには遊びに戻った思い出の地。事業会の方々は9日には関西に向かう。
7日の新宿での懇談は個人の立場で参加し、先方の要望をまず確認するという姿勢で臨む。
[懇談の場で「記念公園」の全体像の計画が示されました。現在の墓碑を何故移転させなければならないか、という説明もありました。日本円で6億円ほどの予算案、国からの補助も予定している。募金も集めている。初めて提示された計画の文中には、祠堂、義士、括弧で括られた金子文子の表現、韓国国家予算からの補助を想定していて、とまどいました東京で現段階、実際に協力できるのは、史料・文献、<多くは複写になると思いますが>の整理と「提供」ということです。韓国の事業会での収集済みの史料・文献リストはなく、今回の懇談の中でどの程度入手できるか初めて把握できたという段階ではないかと思います。具体的なこと、詳細は全く検討していないのですが、一般論でいえば史料・文献は「展示」用と「学習」するためと2つに分かれると思います。図書施設が併設されるかは不明]
参考
社団法人朴烈義士(金子文子)記念事業会資料調査委員
慶北聞慶市麻城面
朴烈義士(金子文子)記念事業事業地区 慶尚北道聞慶市麻城面梧泉里198一帯
2001年8月 法人設立準備総会
2002年11月 記念事業基本計画書作成
2003年7月 朴烈生家文化財指定申請、現地調査完了
記念公園敷地確保 14,455㎡、4,300坪
記念館2,060㎡ 623坪 地上2階、地下1階 祠堂、塔、展望台、公園、生家復元、金子文子墓所展示面積804㎡事業期間2003年-2005年
予算案6億、国家補助4億、地方費補助2億、自体誠金2,000万円
10月8日 牧丘での交流、懇談会 11時半ごろから2時ごろ、金子こまえさん、佐藤信子さん、土屋要さん、土屋さんの知人の方
場所を変えて、土屋さんから山梨の状況説明。2時半から1時間ほど。
参考、私自身の韓国、金子文子への関わりを中心として
1999年、ムンギョン墓碑訪問、韓国訪問の目的は東アジア地域でのアナキズム運動史の文献調査のため初訪問。朝鮮半島、日本列島、中国大陸での朝鮮アナキストたちの活動を把握するため。国民文化研究所で懇談会。
2002年7月23日、金子文子追悼集会、山田昭次さんに問題提起を依頼、シンポ開催
2002年、運営するウェブサイトに全歌集を掲載
2002年11月、新山初代の墓碑と死亡日確認。森まゆみさんと『谷根千』スタッフの協力を得る。経緯は『谷根千』号に森まゆみさん執筆。
2002年12月「コスモス忌」(秋山清さん追悼の集まり)金子文子をテーマ、史料提供協力、森さん講師。
2003年1月、「金子文子を学ぶ会」発足
2003年4月26日、「女性・戦争・人権」学会プレ・フォーラム、山田昭次さん講演会を聴く。
2003年5月、代々幡町(現渋谷区富ヶ谷)、不逞社跡地確認
2003年7月23日、当時の栃木刑務所跡地追悼訪問
2003年7月下旬、韓国からの研究者を案内。2人来訪、それぞれ金子文子と伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。
by pugan
| 2011-06-18 06:05