2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

金子文子と中西伊之助  1

金子文子
A 生い立ち「何が私をこうさせたか」
幼児期 横浜・山梨 無籍ということを自覚させられる
六才にして早人生のかなしみを
知り覚えにし我がなりしかな
少女期 朝鮮
「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」
一九二四年一月二三日第四回訊問調書。
金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一男編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。大審院判決の理由においてすら「………私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め……」と断定された。

一九〇〇年頃 佐伯文一は仕事で滞在していた諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。

一九〇二年頃 きくのは文一と横浜に出る 

一九〇三年一月二五日 二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。文一ときくのは二五年、立松判事から証人訊問を別個に聴取され、記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。文一は土方部屋事務や神奈川県巡査に従事していた。

一九〇八年から〇九年 文子の叔母(母の妹)、たかのが山梨から横浜を訪れ父と同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼みこみ地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と「駆け落ち」。母は男と同居を繰り返す。中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされる虐待を受ける。次の母親の同居相手、小林は寝て遊んで暮らし母も仕事を離れてしまい、文子はその母により「女郎屋」に売られようとする(第二回被告人訊問調書、二四年一月一七日)

一九一〇年、一一年 文子は母と共に「八歳の秋」小林の郷里山梨県北都留郡の村に移る。さらに小林と別れた母の新たな「婚家」先や母から離れて諏訪村の母の実家で暮らす。 
「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」(第二回訊問調書)

一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。祖母が無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと、母方の祖父母の五女として入籍させられる。

一九一五年頃 文子は岩下家から女中扱いをされ始める。

一九一七年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を卒業。その夏岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。………中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。………南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」
一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。『彷書月刊』執筆原稿改定



B 自立期 山梨→東京・上野
勉学と宗教、社会運動への接触、朴烈と知合う

一九一九年四月一二日 朝鮮を去り二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母親の実家に戻る。

一九一九年夏 文子は父から母の弟元栄(文子の叔父、当時二二歳、一里離れた望月庵の住職)との婚約を強制されたまま、父が叔母たかのと暮らす浜松に移る。裁縫学校に入るが秋には退校、東京での勉学希望を父から拒否され生活面での圧制がいやになり諏訪村に戻る。叔父は愛人がいながら、文子の素行が悪いと因縁をつけ破談にする。「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」(第二回訊問調書) 

一九二〇年四月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚の家でひと月前後暮らす。上野の新聞捌売り店に住込み上野三枚橋で捌き売りを始める。女子医専入学を目標として午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

上野山、さんまい橋に より縋り  
     夕刊売りしこともありしが

一九二〇年夏 上野で演説に来ていたアナキストから冊子を購入。露天での粉石けんの商い、浅草の砂糖屋の女中と、勉学との両立のため職を変える。

一九二一年一月 本郷の社会主義者の印刷屋堀清俊方に住込みで働くがひと月余りで出る。学校で社会主義者と知り合い関連文献を読み、その思想に影響を受け始める。

一九二一年 一一月 「金子文子訊問調書」による。社会主義者が集る日比谷の小料理屋、通称「岩崎おでん屋」の

女給として住込む。昼は働き夜学に通い新山初代を知る。
少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの出会いを経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。
 新山は二〇年三月、女学校を卒業後、正則英語学校夜学に通う。金子文子はそこで知り合い、「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語る。
 金子文子は東京で社会主義者と交流を始め、朴烈と出会い彼に力強さを見出す。「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

C 活動期 東京府世田谷池尻、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷、黒濤社 不逞社での活動、新山初代からの影響『労働者セイリョオーフ』、アナキストの仲間たちからの影響

新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。二三年五月、朴烈、金子文子らの不逞社に加入、仲間の金重漢と恋愛。八月中旬、新山は雑誌『自擅』を金と共に発行。八月二〇日、根津での大杉呼びかけによるアナキストの同盟を目論んだ集まりに参加。
金子文子は二二年の春、世田谷の池尻で朴烈と同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を共に発行、執筆もする。

我十九彼二十一ふたりとも
同棲せしぞ早熟なりしかな

一九二二年二月 中西伊之助『赭土に芽ぐむもの』改造社刊行される

一九二二年四月 朴烈は淀橋署に一六日間検束される。[英国皇太子来訪のため予防拘束]ギロチン社、中浜哲は皇太子の訪問地を移動

一九二二年四月末か五月始め 金子文子、朴
烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻四一二 
相川新作方二階 現在地世田谷区池尻二の三
一の一五か一七

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊号発行
連絡先は自分たちの住居 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生「ボロ長屋の二階より」金子活浪

一九二二年八月一〇日『黒濤』第二号発行
「此の態を見て呉れ」烈生「思ったこと二つ三つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

中西伊之助「一本の蝋燭」活字潰し八行、実質二段分の創作を掲載。以降続編の掲載は無し。二面。三面には名刺広告、「赭土に芽ぐむもの」著者、中西伊之助 東京府下中渋谷六九四」

一九二二年八月 朴烈は信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]


一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表
秋にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆する。金子文子の訊問調書における記憶と『労働運動』紙掲載記事では結成月に違いがある。


一九二二年九月 黒濤会分裂。「私が朴と知り合った以前大正十年秋頃とか朴は元鐘麟、徐相一、申焔波等各種の鮮人主義者を糾合して『黒濤会』と云ふ名称の思想研究会を組織し『黒濤』と題する機関雑誌を発行して居りました。此の会は私が朴と一緒に為ってから後も尚継続して居りましたから、私も此れに加入しましたが、大正十一年九月頃共産主義者派の会員と無政府主義派の会員との思想上の衝突から分裂して、無政府主義側は『黒友会』を、共産主義側は『北星会』を組織しました。(金子文子第五回訊問調書、二四年一月二四日)


一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子「破れ障子から」文子、去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた
一九二二年末 布施辰治「文子さんを語る」『運命の勝利者朴烈』「大正一一年の末頃だったと思う。前から知っている朴烈氏の妻君だという名乗りを上げて訪問を受けた瞬間は、大変キビキビした婦人だという印象を受けた。………柳某の渡米の送別会を不逞社の一味が襲撃したというので西神田警察署へ検束……刑務所で朴烈氏の有名で貴重な長髪を既決拘留刑執行のために刈取ろうとした紛議から私に電報を打ってよこしたので面会ができ、正式裁判の申立もでき結局公判で無罪になった事件の弁護と、その無罪を警察官憲の糾弾にまで逆襲した人権蹂躙官憲糾弾演説会が神田三崎町の朝鮮キリスト教青年会館で開かれた一連の交渉と協力は、私と朴烈氏とを大変親しいものにしたのである。私のそうした関係とその後の事件と最近朝鮮の甥を通じて私のところへ寄越している手紙等から、私の見た朴烈氏と私が先に挙げた初訪問の文子さん、およびやはりその後の交渉と事件を通じて知った文子さんとは、非常に強く強く結びつけられるもののあったことに、一種の不思議を感じさせられるくらいです。………文子さんの自殺の原因は後に詳しく書いておこうと思うが、ある者の飛ばした妊娠のためだなということは誣罔も甚だしいデマであることを断言しておく。………私がその前最後に朴烈氏に会ったのは、いわゆる『不逞鮮人』の発行が禁止されて『太い鮮人』になったり、出版法の問題その他何の計画だったかは忘れたがともかく何かの問題で、カンパを起こすというような用件で、震災の翌日には私の所へ来た時です。………」

一九二三年三月 黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊、未見 

一九二三年三月一五日『現社会』第三号発行 世田谷池尻四一二

一九頁に中西伊之助の著作広告
『赭土に芽ぐむもの』『汝等とその背後』『死刑囚と其の裁判長』
「××」烈生「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
一九二三年三月 金子文子、朴烈 東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷一四七四 番地に移る。
現渋谷区富ヶ谷一-二八 NTT裏辺り 二〇〇三年五月 現地確認
一九二三年四月 金子文子、朴烈は不逞社を組織
一九二三年五月 金子文子はメーデーの集会、デモを闘う
「……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……」『現社会』第四号六月三〇日
《今年のメーデー》  掲載紙『我等の運動』
              金子 ふみ子
 二三日前から検束に次ぐに又検束其の数二百とは、特に寛大さを声明した其の筋の宣伝であつて実は五百名近くと聞きます。
 五百名! 斯くも多数なる戦闘分子を引き抜かれた当日の示威運動が一昨年よりも比較的活気が抜けた様に見えたのも又事実です、而し表面に現はれた此の事実は決して我々の戦闘気分が鈍つたのではなく、寧ろ我々の血がますます白熱化して、奴等をして謂ゆる寛大さをにほわせるだけの餘祐を輿へなかつたためだと思ひます。
 略
 旗をもぎ取られた其の時! 口を緘せられた其の時! 其の時こそは我々はいさぎよく、ダイナマイトに最後の運動を打ち切ることが出来ると信じます。
 朝鮮内地に於ける鮮人の同志の勇敢なる思ひ切ツた運動振りを見せツけられて、ますます此の感を深ふします。
掲載紙『我等の運動』創刊号、大正十二年六月十五日印刷納本、大正十二年六月十七日発行、第一巻第一号、定価金拾銭、自由人社刊、巣鴨宮仲二六五六、創刊号内容■宣言■我等の主張■メーデー鳥瞰■ロシアの悲劇 バアクマン■朝鮮問題と僕等の立場 李苦山■反動思想家生田長江君を駁す 加藤一夫

一九二三年五年二一日 朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、
二〇〇二年一一確認

一九二三年五月二七日 不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ

一九二三年六月一〇日 不逞社第二回例会、望月桂を招く

一九二三年六月一七日 不逞社第三回例会、加藤一夫を招く

一九二三年六月二八日 朴烈、中西伊之助の出獄を出迎える
「朴烈君のこと」
山田清三郎
 震災当時、朴烈君が殺られたといふ噂があつた。代々木富ヶ谷の寓居から引かれて行つたきり、消息がわからなかつたからだつた。……解禁された新聞の記事は、僕の心をむち打つた。新聞を前に、頭を抱へて、自分を恥ぢた。面接も許されたといふから、早速たづねたいと思ひながら、未だに僕は、はたさずにゐる。……僕が朴君と始めて知つたのは、僕が新島栄治と下落合に同居してゐた頃、新島か、或は飯田徳太郎かに紹介された時からであるやうに覚えてゐる。中西伊之助の出獄を中野の刑務所に迎えに行って、一緒になつたり、朴君から頼まれて鄭然圭君の本の会の世話をしたりなどして、段々と親しくなつて行つた。下落合にゐる頃は、今でもあるが、高田馬場駅前の牛飯屋で、十銭の牛飯を、よく一緒に食つたものだ。…

一九二三年六月二八日 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会

一九二三年六月三〇日 『現社会』第四号発行
府下代々木富ヶ谷一四七四 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 [現東海大附属高校] 
「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……
一六頁に中西伊之助の入獄と出獄日時の消息掲載
一九二三年七月一五日 不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

作家平林たい子は二人と交友し文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。………〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。………」(「金が欲しさに」二八年『婦人公論』一二月初出、『著作集』収載)。
リャクとは会社回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。同居した同志である朴烈との共同した活動を表現している。

一九二三年八月三日 黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開かれる

一九二三年八月一〇日 黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が朴烈による爆弾計画の話を暴露 

一九二三年八月一一日 不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、朴烈と金重漢と論争
一九二三年八月二九日 警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ
思ひ出深し九月一日
一九二三年九月三日 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束
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by pugan | 2011-05-23 16:38