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by pugan

金子文子と中西伊之助3

「朴烈君のことなど」──冬日記──

              中西伊之助

冬の薄日の射す午過ぎ、僕は大阪から帰るなり市ヶ谷監獄にかけつけた。…B君は漸くこの頃、接見禁止が解けたのであつた。それを大阪にゐた僕に急報されたので、すぐその日の夜行で帰つて来たのだ。戒護主任が立会つて、客用の応接室で会はしてくれた。これには、僕も感謝したかつた。B君は××家だ。その人格を尊重してくれる戒護主任には好感がもてた。…──もう三年も会はないのだ。さうだ。震災前、僕の出獄を迎へてくれた時に会つて、それきりで、僕は千葉の海岸へ?を養ひに行つてゐるうちに、震災だつたのだから。…僕が、今年の夏、朝鮮へ行つた時の、あちらの事情を話したら、いかにも嬉しさうにきいてゐた。…(註 二五年八月、朝鮮滞在、朝鮮プロレタリア芸術と同盟の歓迎座談会八月十七日、大阪)「監獄の中で、正式に結婚式を挙げると云ふ話だが、なにか必要なものがあつたら」と、僕は云つた。「えゝ」と、彼は不思議さうな顔をした。「あれは嘘ですよ、あんなことを新聞が書いたんです」と、戒護主任が云つて、笑つた。「………」僕は黙つてしまつた。新聞記者なんて奴は、なんて不謹慎なことを書く奴だ。と僕は思つた。彼は今決してそんなことを考へてゐる、のではない! 

美貌の若い夫妻が同一の犯人だと云ふので、

軽薄な新聞記者が、そんなことを書いたのだ。

B君は、三年の牢獄生活でも、あまり疲れたと云ふところは少しもなかつた。却つて、小さつぱりとして、晴々としてゐた。──それ以上、ここでは書けない。それでも、同じ監獄にゐる細君のF子さんのことを云ふときらりと目に泪さへ見えた。「今日、家内がF子さんに会ふことになつてゐる」と僕が云ふと、「さうか」と云つて、嬉しげにほゝ笑んだ。三、四十分も話して、別れた。階下まで一緒に来た。網笠の下から、彼の、細そりとした、顔に、微笑を含んだのが、暗い廊下に見えた。

「左様なら。」「また来るよ、二、三日のうちにね、左様なら」黄色い日が、門の檜の梢にからみついてゐた。大審院の公判は、十二月の七、八日だ。さうすると……僕は、青空をふり仰いだ。そこの落葉樹の梢から、ぱらぱらと葉が落ちた。数週間前までは、古田君が、あゝしてゐたのだつたと、僕は思つた。

『文芸戦線』第三巻第一号一九二六年一月

【報道】

一九二五年十二月二日『日出新聞』

金子文子の公判は延期か

十二月八九両日開廷される事となつてゐるが金子文子から身体の異状其他の都合にて延期を申請してゐるから多分許可せられるであらうと…

一九二五年一二月二二日 朴烈「所謂裁判に対する俺の態度」執筆

      名前はハングル表記で朴烈

俺は総ての権威を否定する。従って国家の権威を否定する。従って又、其の法廷に於ける裁判の権威を否定する。俺に於ては、唯だ俺自身のみが、絶対の権威である。……

一九二六年二月大審院公判が開始される  

一九二六年二月二六日 夜、金子文子は手記を執筆、翌日の公判に提出

現に此処に監獄のお役人を前に置いて私は云ひます──。

私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。

一九二六年二月二七日  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑

一九二六年二月二八日 第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

一九二六年三月一日 第四回公判、弁論、金子文子の最終陳述、朴烈はせず       

一九二六年三月二〇日『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止二月二六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。              

一九二六年三月二三日  結婚届けを出す

大審院判決前日の歌 

色赤き脚絆の紐を引き締めて

我後れまじ同志の歩みに

一九二六年三月二五日  大審院死刑判決

【報道】                

一九二六年三月二六日付(前日発行)『東京日日新聞』夕刊、朴烈夫妻は死刑大審院でけふ判決朴烈事朴準植その妻金子文子両名の最後の審判の日が来た、廿五日の大審院界隈は東のまだ白まぬ頃から押しかけた傍聴人が午前六時頃までに三百余名、百余名の日比谷署員や憲兵がこれを整理し八時から入廷開始、長髪、ルパシカ、赤ネクタイなどの鮮人を初め栗原一夫、後藤学三、武良二、木下茂など朔風会、自然兒、解放戦線などの面々が八分通りを占め特別傍聴人の中には白根男、加賀谷皇宮警察部長などが見える。

九時十二分被告両名が文子を先に入廷する、文子は矢がすりの銘仙の袷にすゝき模様のメリンスの羽織、束髪をダラリとくづし金ぶち眼鏡の奥からうるんだひとみをキヨロつかせてゐる、朴は白リンスの朝鮮平服、ピカピカする頭髪をトンボのやうに真二つに分けてゐる、ふたりは椅子にかけ見かはして軽くうなづき温い茶をグッと呑みほす、やがて廿七分牧野裁判長以下五名の判官と立会いの小山検事総長、小原検事等着席、横田大審院長その他お歴歴もうしろに控へる、一脈厳粛の気が漂ふ、牧野裁判長は荘重な口調を以て先づ朴の悲惨な生ひ立ちから両名の犯罪事実の経路を述べた後、一段声を張りあげて『被告両名を死刑に処す』と断じた、この時朴は悠然と立ち上り『ご苦労さま』とはつきり述べ且つ何事か口走つたが付添ひの看守長等に引つ立てられ文子は流石にくらくらとなつて暫く立ちすくみ、やがてこれも悲しい声を振りしぼつて低く手をちよいとあげた、傍聴人は総立ちとなり一道の殺気流れると見る間もなく裁判長以下退場し被告両名も廷外へ拉致し去られた、時に九時卅五分。

(判決掲載年本籍と姓名)略

主文 被告両名を死刑に処す

(事件の概要、司法省発表)略

…帝国の基礎を破壊して反逆的復讐を…

…金子は朴の前記企図に同意し相共に之が目的を遂行せんことを謀り…

判決を終つて 金子も共同正犯 七十三条適用の理由

牧野裁判長曰く

牧野裁判長は語る『十数年前幸徳秋水を出し更に難波大助が現れ今また朴夫妻のやうな人間の出たことは誠に遺憾に堪へぬ、朴もふみ子も才智があり頭脳も明せきなのだから真面目に働けば相当社会に貢献したらうものを逆心を起したのはをしい、世間で噂される如くふみ子は朴に引きずられたのではなくて朴に共鳴し共に謀つたのだから刑法七十三条の適用を受くる責任が充分あるものと確信する』

死刑執行 本月末か来月初めにならう

朴烈夫妻の公判記録はこれを整理し行刑当局の手を経て司法大臣に差出しその命令により死刑の執行が行はれる訳であるが難波大助事件とは周囲の事情を異にするから執行はさまで急がぬらしく月末か来月初旬になるだらうと。

【資料】

金子文子に会いに上京した母親  

飯田徳太郎   

 (一)  

朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日-三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。李王世子殿下暗殺未遂事件の徐相漢、曩に朴烈と一緒に拘引された張詳重、韓?相、鄭泰成等もその中に居た。僕は主に中西夫人と知人の噂話をしていた。其処へ布施弁護士の代理の人が、死一等を減ぜられて無期懲役になった旨の通知書を持ってやって来た。一同は夫れを取囲んだ。



皆は文子の実母を囲んで、改めていろいろと談合した。



二十五日公判廷からの帰途刑務所に立ち寄り、面会所で三四十分間程文子と語り合ったのである。  

文子は毫も未練がないと云った。母親も、無論こうなった上は立派に死んで呉れ、世間態もあるから……と言って二人は互いに抱き合って、今生の別れを惜しんだ──



やがて時間が来た。看守が、みんな一度に面会させるからと云って、一同を大玄関へ導いて行った、玄関の石段の上には、黒い紋付を着た朴烈が、戒護主任と看守に守られて立っていた。真先に進んで行った者が、いきなり石段を駆け上って朴に抱き付こうとしたが、看守の手に遮られた。戒護主任は一同を制して、 「今日は一切言葉を交わしては可けない。ただ顔だけ見て引取って貰い度い」 と言い渡した。



朴烈に別れて玄関を背にした一同の口からは、一斉に深い吐息が吐き出された。その日は文子への面会は許されなかった。



(二)  



後の六人だけが文子の母親を見送る為に新宿駅まで歩くことにした。



発車時間に間があるので一同で三越の新宿別館へ彼女を案内し、食堂で簡単な昼飯をとった。その間中、婦人は悲しみの色も見せず、総てに満足し、感謝している様に見えた。中西夫人が主となっていろいろ説明する言葉を、さも東京見物に来た老婦人らしく一々嬉しそうに聴きとるのであった。



それから、辺りを憚るように小声で文子の話をしつづけた。

「あれは、子供の頃から頭が傑れてよかったので、私も安心して手離したのです。それに入り組んだ事情もありましたものですから………けれども朝鮮で引取って呉れた伯母がひどく虐待したので、十五六の時逃げて帰りました。それから本人は学校の先生になるつもりで勉強したのですが、それもうまく行かずに東京へ出て来たのです。……略

【報道】

一九二六年三月三十日『東京日日新聞』「母と娘が……悲しき抱擁」「死刑の判決を聞いて文子の母刑務所へ」

布施弁護士から出京を促された文子の母たか子は廿五日午前五時四十一分甲州日下部駅発、十時卅九分飯田町駅着、直ちに市ヶ谷刑務所を訪づれた、この時文子は死刑の宣告を受けて下げられて来たばかりであつた、刑務所では重大な罪人ではあるが特別の詮議を持て奥村看守長立会の上五分間の面会を許した。略          

「泣いて泣いて涙もかれた忘れられぬ朴烈の顔……文子の実母曰く」

【甲府発】朴夫妻に減刑の恩命が下る内意があるときいて山梨県東山梨郡七里村?子のわび住居にゐる文子の生みの母せひは比較的元気で『え? そりや本当の事ですか』とにぢり寄り流石に包み切れぬうれしさを見せた『でもあんな者達はそんなお情けなどかけずに……』とうなだれる。『私は廿五日に東京へ出て翌晩帰へつて来ましたがもう泣きつくして涙も出ません、何事も…前世の約束事です、略

【報道】

一九二六年三月三十日『東京日日新聞』「最後の望みも叶つて獄中で正式の結婚」「恩命を前に朴烈と金子文子届出即日受理さる」

……布施弁護士は極力これに反対してゐる文子の兄共冶、母親せひを説き伏せて遂に正式結婚の運びとなり死刑宣告の二日前の廿三日同氏の手によつて市ヶ谷刑務所から朴烈文子の拇印をおし市ヶ谷刑務所の看守長奥村輝氏の自書証明の付記された結婚届けが牛込区役所に提出され即日受理された。

 略

これにつき牛込区役所の戸籍掛主任小松原氏は『前から噂は聞いてゐたので出るか出るかと心待ちにしてゐると果して廿三日に布施弁護士の手で提出されました何しろ囚人同志の結婚届といふのは全く前例のないことですからこれが処置については大分頭を悩ましましたが裁判所の意見を聞いた上書式その他に何等の違反した点がなかつたので正式に受理したわけです』と語つた。

一九二六年三月二十六日付 『東京日日新聞』

聖恩、逆徒に及び 朴烈夫妻は減刑 死一等を減じて無期に 江木法相昨夕摂政殿下に拝謁 親しく勅許を仰ぐ

「朴烈事……然る仁慈に富ませらるゝ雲上の思召はこの逆徒の上にも加へさせられて特に減刑の恩命が降ることゝなつた、この恩命は憲法第十六条に明示する大権の御発動であつて治鮮の上にまた思想対策の上にいかに大御心をなやませたまふかが拝察される」

閣議を終へて法相伺候 有難き恩命を拝し近く正式発表「……閣員の同意を得た江木法相は摂政殿下の御都合を伺つて後午後五時廿分自動車で議員を出て同卅五分赤坂御所に伺候、親しく謁を賜はつた上朴烈夫妻判決について言上するところがあつた、畏くも摂政殿下には法相の言上する次第を聞し召されたが聖恩洪大特に死一等を減じて無期懲役に所するといふ恩典を御聴許になつた、法相は感泣して退下、再び議院で閣僚にこの旨を報告した、正式に近く左の形式で発表される事になるであらう」

赦状

死刑囚朴準植(二五)

死刑囚金子文子(二五)

特に死一等を減じ無期懲役に処す、内閣総理大臣勅を奉じてこれを宣す、内閣総理大臣名一九二六年三月二九日『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は? 

流石に夫を案ずる文子〉……判決後四日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

【資料】中西伊之助が二六年当時からの妻と別れたことを述べる。一九三四年刊行の著作、後書きにて。

中西伊之助著『満州』、昭和九年二月五日発行、二月十五日十版、序文、本著出版に就て

      ──序に代ふる言葉──

「妖怪が、日本の雑誌出版界を徘徊してゐる。──満州金融資本の妖怪である。本著は、明らかに満州金融資本の利益と対蹠的に立つ、儼乎たる独立の意志によつて創作された作品である。………(一九三二年七月脱稿)

「某大出版社との契約があつたのである。けれど脱稿と同時に内容を一瞥したその出版業者は、直に出版を拒絶した。作者は脱稿まですでに三年近い歳月をついやした。略」

「この間、約一ヵ年をついやした。出版は殆ど絶望だつた。作者の窮乏は極度に達した。…略」

「本著の出版にあたって、作者の感銘の一つは、同棲十数年の作者の妻が、愛児をすてゝ家を去ったことである。苦難の作家生活を営むものにとつて当然受けねばならぬ運命であらう。作者は本著のために、彼女をどのくらゐ失望させ、そして苦しめたか知れない。貧苦十数年の長い生活に、彼女はよく忍んで来た。愛児も今春すでに十二歳になって、母の手を要しなくなった。もっとゆとりのある、もっと人間らしい生活を求めてゆく彼女を作者はひそかに祝福してゐる。彼女の去った後、彼女に代って愛児の世話をしながら、本著のために努力してくれた愛甥富士雄にも感謝したい。……」淀橋柏木の寓居にて 作者記

また『無産運動闘士傳』野口義明著、社会思想研究所、三一年にも「中西伊之助」項目が掲載され当時の妻に触れている。

「……この時組合長である彼は全線を指揮して活躍目覚ましきものがあったがこれがためこの年入獄すること二回。この年三十三歳の彼は十八の新妻を迎へたが、新婚の夢も圓らかなるべきその頃、矢継早に二度も牢獄に繋がれたといふので夫人の親許でビックリ仰天、娘を取り返すといふ騒ぎもあつたが、夫人は夫を信じて動かず、その争議後、二三十人の失業者を抱えて生活に窮した彼と彼女は、新宿の電車の終點でアセチリン瓦斯をつけて鹽鮭を売つたりしたものだ。」
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by pugan | 2011-05-21 16:43