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by pugan

金子文子と中西伊之助4

E 死去後

同志たちに金子文子の生き方は伝わる。そしてそれは今日まで続く。

① 二六年「遺骨」を同志宅に移し追悼会を貫く

② 備前又二郎、小野十三郎、『黒色青年』『叛逆者の牢獄手記』に描写された追悼。

植民地下の朝鮮、そして今、韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬される。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、警察から朴烈の兄に引き渡すという遺骨への徹底した管理態勢をとった。当時の新聞もその一旦を報じている。

「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある………………当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

一九二六年七月二三日 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩十分余り

七七年前、彼女の遺骨は朝鮮聞慶(ムンギョン)へ埋葬されたが、遺骨の行方をめぐり、事件が起きていた。事件としたのは官憲の側である。

 新聞は官憲側の立場で報道している。代表的な見出しは「金子文子の遺骨を盗去る 追悼の会がすんでから やうやく取戻された」

 概説すると、布施辰治宅から八月一日の早朝に朝鮮の同志が遺骨を追悼会のためにある同志宅へ移動させた。布施宅を包囲していたはずの池袋署は見逃しあわてて母親や同志たち二十名余りを検束した。しかしすぐに行方は判らず、公然の事務所を兼ねていたアナキストの部屋を急襲する。ようやく落合の前田淳一宅に安置されていたのを発見したという内容である。

 なぜ布施弁護士宅を包囲していたのであろうか。遺骨の出入りを管理していたのである。大逆事件の(犯人)であった者は死してなお遺骨は管理され追悼会が開かれることは許さないという政治的弾圧である。法律上の根拠があるわけはない。治安維持の立場である。追悼会といっても機関紙などで通知している時間はもとよりあるはずもない。同志たちがせめて遺骨を安置して偲ぶという行為までを認めないのである。

 「遺骨持逃げ」というの池袋署の談話は「盗人猛々しい」ということである。同志宅から奪ったのは官憲、池袋署である。ここに治安維持を最優先とした国家の正体が暴露されている。金子文子の遺骨、その奪われた遺骨は警視庁により東京から朝鮮の聞慶警察署に鉄道便で送られた。

 金子文子の死去した日は七月二十三日とされている。それは宇都宮刑務所栃木支所による発表でしかない。弁護士、母親、結婚相手朴烈の兄弟への死亡直後の迅速な連絡をすることなく遺体をすぐに刑務所の共同墓地に埋葬してしまった。全ては塀の中で進められたのである。「縊死」という発表に疑問をもった布施辰治弁護士と同志たちは仲間の医師を同行し検分のための遺体の発掘と仲間たちへの遺体引き渡しを追求した。刑務所は判断をたらいまわしにするも宇都宮刑務所長の引渡し決定でようやく七月三十一日に栃木町の共同墓地にて母親に渡された。ただちに医師が検分したが死後七日前後も経て正確な検分は困難であり死因は曖昧なまま火葬せざるを得なかった。一行は東京に戻り遺骨は同夜東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅に安置される。そして警視庁池袋署は数十名の警官で布施宅を包囲、監視をする。このような状況下で前述の「事件」が起きたというわけである。

 二週間後、朝鮮から朴烈の兄が遺骨を引き取りにくる。朝鮮に兄が戻り、八月三十日の 官憲が金子文子の墳墓を厳重な監視下におきながら訪問者もいないとの宣伝、見棄てられたという印象を日帝の植民地支配、官憲の手先となっている朝鮮での日本語新聞は伝えるのである。厳重な監視状態におきながら、一方で訪問者がいないという矛盾した報道をしている。

 刑法七三条(大逆罪)で「裁かれた」者は遺骨になっても囚われ続け人々から遠ざけられた。           

(『トスキナア』執筆原稿より)

山田昭次著『金子文子』では中西伊之助が遺骨の移動に関っているかのような記述があるが遺骨移動に関しては新聞記事一紙だけを参照したためか、誤読、誤認識である。同書では〈中西たちが遺骨を秘密のうちに移したのは、遺骨の朝鮮移送に対する警察の妨害を免れるためだったのであろう〉と記述。『朝鮮時論』掲載の中西の投稿を読めば中西は関与していないことが覗われる。

また『ある弁護士の生涯──布施辰治──』布施柑冶著、岩波新書においても布施の遺体発掘、死因究明の業績と遺骨の朝鮮への埋葬問題を混同している。同書では〈F氏は遺骨を引取って朝鮮の朴家の墓地へ埋葬の手続きをとった〉とある。

新聞は八日後に報道。

【報道】

一九二六年七月三十一日        

『読売新聞』「書き残れた手帳が抹殺され、引き破られて──ただ一通の遺書すらない 当局の失態は免れぬ」……文子は収容の時九百枚の原稿用紙、二本の万年筆、二個のインキ壺、七十五銭の切手を携へ乍ら一回の文通も許されなかつた斯くて彼女には一通の遺書なく余白なきまでに書綴られた三冊の手帳は当局が黒で抹殺し引破ってゐるかきらるゝ心で彼女の母は『仏に対する礼を尽して下さい』と一時間半も当局にかき口説いた而して遺留品として受け取つた新聞包には櫛三つ、現金四十五円廿八銭、万年筆『労働者セイリオウフ』、ダヌンチオの『死の勝利』、スチルメンの『自我経』の三冊があつた。而も書籍は到る処切り取られてゐる「せめて満足に読ませて遣りたかつた」と近親者は声を呑んだ。尚ほ文子の着物外所持品が三月前栗原氏宛に発送されて今も届かないといふ疑問一つ。十分間で絶命したといふ彼女を駈付けた支所前の斎藤医師が人工呼吸をしたのに遂に蘇生しなかつた事、当時検死した馬島医師が会見を申込んだが何故か逃げ廻る事など遂に謎は解くべくもない。

『大阪朝日』七月三十一日            

金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された

三十一日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万一に備へてゐたが一日午前五時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥十畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら二三名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後六時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等一味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等廿三名を釈放するとゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の二名が三十一日夜来布施氏方に詰めてゐたので右二人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが四十数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)

一九二六年八月二九日 



一九二六年九月 中西伊之助、金子文子の死を語る

『朝鮮時論』Vol1 N-roⅣ SEPTEMBER 1926 EHO欄 

柏木より           中西伊之助

O兄、

『朝鮮時論』をありがとうございます。……

O兄、金子文子さんは、とうとう自殺しました。それも既に新聞で御承知だらうと思ひます。公判の言ひ渡しを受ける一週間ほど前、私は妻と二人で面会に行きましたが、それが文子さんにたいする永久の別れだつたのです。今更らながら人生と云ふものが考へられます。あの若い、美しい文子さんが、一塊の骨となつて東京へかへつて来た時、私は文子さんのお母さんと池袋駅に出迎へに行つたのです。お母さんは、ともすると涙ぐみながら、生前の文子さんのことをもの語ります。私は、母と云ふものの尊さを思はないではゐられませんでした。

O兄、その翌日のことです。東京へかへつた文子さんの骨が紛失してしまひました。その結果が私や、文子さんの母さんたちまでも検束されねばならないやうなことになりました。私はお母さんたちと、半日池袋署に拘留されたのでした。なんのことだかさつぱり解りませんが、再び骨が発見れたので、家へかへつて来ました。暑い日の拘留は、文子さんへのなにかの手向けともなりませう。

O兄『朝鮮時論』はいゝ雑誌です。しかし経営はなかなか困難だらうとお察してゐます。朝鮮にも、日本人の手で、こんな雑誌が一つぐらいあつてもいゝのです。在鮮日本人の手で、経営されてゐる。新聞雑誌の従来のものは、あまりに超時代的産物です。あれでは朝鮮の青年が経営してゐるものに比較して、あまりに悲惨な対象です。日本人と云うものが朝鮮人よりもどのくらゐ、遅れてゐるかが、あまりに、明白に裏書きされるではありませんか。……         (八月十一日)        

【参考】同雑誌の文芸頁

詩及創作 ──朝鮮詩論年第一巻年第四号──一九二六年の無詩題シュミット毅 慟哭 (訳詩) 李相和 小説 飢餓と殺戮(和訳)  崔曙海 小説 黒薔薇の歌(創作) 鯊勲 小説 ピアノ(和訳及エスペラント訳)玄鎮健 一九二六年八月一六日 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く          

一九二六年八月二九日 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る

【報道】                

一九二六年八月三〇日 文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目 死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

一九二六年一一月四日             

《金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで》「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』                      

一九二六年一一月五日             

「金子文子の遺骨は予定の五日午前十時埋葬を変更して午前九時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官二名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面八霊里(聞慶邑内を去る西北二里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の二名であった。」『京城日報』一一月七日夕刊

一九二六年一二月一三日『京城日報』《訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし》

日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面八霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ一回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』

一九二七年七月一五日

「黒姫百合──金子文子さんへ──」

備前又二郎  追悼詩歌             

我戀す──ソフィアを

オロシアなる  ソフィアのごとき 女を

秘密結社のプランに就て

夜もすがら語らえり 黒濤社の 夏の一夜よ

左様(アデイアウ)なら 同志よ !

確と握りし君が拳の把握の今も忘れがたかり

「労働者セイリオフ」を胸に秘め 死に生きし君の  ………………の心しみゝに可憐し

命絶まる その刹那まで 

一筋に……………………に生きし 面影偲ぶ

『解放新聞』第五号一九二七年七月十五日、東京市外目黒駒場七八三、解放戦線社、後藤学三、農民労働者の解放は農民労働者自らの力に依りてのみ成就せらる、一面下段掲載

不逞社・真友連盟事件を契機とした四人の弾圧死

最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。

[自殺した(?)金子文さんのこと]

『黒色青年』一一号 一九二七年八月
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by pugan | 2011-05-20 16:45