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by pugan

金子文子と中西伊之助5-1

一九二六年の弾圧

三つの大きな「弾圧と事件」があった。

金子文子・朴烈の「大逆事件大審院公判」

黒色青年連盟の「黒旗事件」(銀座事件)。

朝鮮テグ(大邱)の読書会グループにかけられた弾圧、「真友連盟事件」。

 従来、個別の事件と弾圧でしか語られていない。詳細に論じられているのは金子、朴の「大逆事件」だけであり、他の二つは断片的な記述だけである。しかし囚われた同志たち、関連づけられた組織は密接につながっている。

 当時、日本と朝鮮の官憲は国家権力の意を受け朝鮮半島、中国、日本列島の東アジアにおけるアナキズム運動、社会主義運動、共産主義運動、民族主義運動の壊滅を企図した。台湾、朝鮮への支配の徹底と中国への本格的侵略を開始するため各地域における活動を分断し孤立化させることが急務であった。その官憲の企図は八〇年近く経た今日にも及び全体像を把握することの困難を強いている。

 関東大震災を機に国家権力は戒厳令下、究極の治安弾圧を行使し、軍隊、警察、民間の暴力によって朝鮮人、中国人、社会主義者を虐殺した。その実績をもとに一九二五年、従来の治安警察法を超える治安法としての治安維持法を制定し、合法的、恒久的、法律の名のもとに社会体制を変革しようとする人々への弾圧を開始した。 

囚われたアナキストの死

一九二三年、関東大震災後の戒厳令、二五年の治安維持法制定と暴圧を行使する政治状況は整えられていた。従来、金子文子・朴烈の大逆事件においては金子文子の獄中死は知られている。さらに三人のアナキストたちが過酷な獄中弾圧が原因として病死したことは知られていない。彼女彼らの死は個別にも語られることもない。一五年前の大逆罪弾圧、幸徳事件では二四名のうち一二名が刑死し、さらに獄中病死者と弾圧の犠牲者が出ている。この金子文子・朴烈の件でも当初関連づけられた不逞社同志の人数は多かった。しかし大逆罪で大審院に付されたのは二人だけである。金子文子・朴烈が同志たちへの波及を阻止することと引き換えに、皇太子を打倒対象としていたことを予審で容認したのである。

結果として刑死者はなかったが、一連の経緯を調べる限り不逞社、黒友会への弾圧を端緒として関わった同志たちの死がある。

新山初代は関東大震災後、不逞社の仲間への逮捕が続くなか新山も九月二四日、警視庁に連行され治安警察法違反の容疑で逮捕。取り調べで病気が悪化、危篤状態で釈放。一一月二七日未明、芝の協調会病院で死去、二二歳であった。一二月二日、母親、妹たちと女学校の同級生一人だけの寂しい葬儀が行われたと新聞は伝える。        

洪鎭祐は一九二八年五月一八日午後五時二五分死去、三二歳。不逞社、黒友会に参加、朴烈、金子文子らと共に活動。朝鮮文アナキズム機関紙『民衆運動』、『自壇』創刊。関東大震災後逮捕。二四年夏、市ヶ谷を出獄、朝鮮に帰る。在郷一年、同志を呼合した「黒旗連盟」を組織するも逮捕され同志一〇名により不穏な計画と運動に着手したと、治安維持法により懲役一年の判決。服役中病が重くなり仮出獄をいったんはするが残余刑数ヶ月を大田刑務所で送り再び重体となる。京城大学病院にて、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に見送られ死去。

金墨(金正根)は一九二八年八月六日死去。三九歳。金子文子の死因追及のため同志四、五人、布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴く。東京に戻り追悼会を催さんとしたが遺骨が持ち出された件で検束。そのまま栗原、椋本と共に朝鮮へ送られ真友連盟事件で五カ年の懲役判決。大邱監獄に於て服役。肺患に罹り、二八年四月、最早見込みなしと出獄を許され、父親に抱かれ自宅へ帰る。「やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿」。家の周りは警察が厳重な警戒、同志友人等の訪問も自由にならないなか多量の喀血をなし八月六日、死去。

金子文子・朴烈の裁判過程から大審院判決後にかけて、同志たちは黒友会、不逞社の活動を継承する。

官憲の資料(『高等警察要史』慶尚北道警察部刊、三九年三月発行、六七年復刻版)に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が記述されている。

「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め……」

「内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等はあくまで朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て」

 さらに『高等警察要史』は不逞社が弾圧を受けた後に朝鮮に戻ったメンバーの名を挙げている。「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。ここには不逞社と真友連盟を結びつけた記述があり真友連盟を当初から機会があれば潰すというこんたんが認められる。

大審院開始前後に東京に滞在した朝鮮のアナキスト、チェ・カムニョンの回想からも黒友会の存在が明らかにされている。

「黒友会のイ・ホングンをしばしば訪れるようになった。………………黒友会の応接間、南側壁には朴烈、金子文子、新山初代などの写真が、北側壁には大杉栄、伊藤野枝の写真が貼ってあった。」さらに不逞社が二七年二月に黒風会と改称しチェも参加と語られている。

真友連盟事件は第二不逞社事件ともいうべき弾圧である。国家権力は朴烈、金子文子の大逆事件においては治安警察法ですら他の同志を公判に持ち込めず、黒色青年連盟による黒旗事件(銀座事件)において警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫した。国家権力が治安維持力の回復を誇示するため、アナキストたちによる「大逆犯」金子文子の追悼行動を契機として黒色青年連盟に参加していた椋本、栗原、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものである。                         

『高等警察要史』にはフレームアップされた真友連盟事件の概要が記されている。再び徐東星の名が出されている。

「一 大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが……朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるもの」

 不逞社のメンバーであった徐東星が大邱に戻り読書会を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付けている。すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのである。

「………同年十一月連盟員、方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず」

 方漢相が東京を訪れたのは大審院の公判傍聴が目的であろう。当初一二月に開廷されるはずであり、それに合わせての一一月の東京訪問である。               

「両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり」この記述が二人への更なる支援のための東京訪問であるということを証拠付けている。

 栗原一男、椋本運雄、金正根へのフレームアップは治安維持法を適用するため黒色青年連盟と関連づけている。

 また、金子文子、朴烈への死刑弾圧に対処するため栗原一男が事前に二人の身内、朝鮮の同志たちと接触したことも「事件」と関連付けられている。一九二六年四月から始まる。

「二、犯罪事実(一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年(一九二六)四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際………」

 金子文子、朴烈が刑務所内で結婚届を出したのが三月二三日、大審院死刑判決が二五日、減刑が本人に伝わるのが四月五日であるが栗原は急きょ判決直後に朝鮮に向かい朴烈の兄を訪れたのではないか。
 
 栗原自身も不逞社のメンバーであったが予審終結後に釈放され、金子と朴への救援活動、面会を続けていた。そして大審院法廷は一般傍聴人が第一回開廷直後に禁止されたが特別傍聴人となり二人の裁判を支えた。官憲にとっては栗原が裁判所からかちとった権利と二人への救援活動が憎々しかったのではないか。

 裁判所の一部は国家権力に抗することができず、免訴に対する検事抗告へ抗告裁判所は以下のように断定し、前の免訴を取消し公判に附している。この決定にはグループとグループを単純に結びつけることでしか「証明」できない治安維持法フレームアップの本質が示されている。

「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、」

「被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、」

「又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、」

「同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、」

「其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又は財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」

 椋本は金子文子の遺骨を新たに結成した黒化社の事務所で預かり、それ故官憲からの報復を受け、真友連盟に関わる治安維持法違反によりフレームアップ弾圧され懲役三年の実刑となる。



「自然児連盟は都合上解体、残務整理、府下上落合六二五 前田淳一君方」『黒色青年』一九二六年四月。次いで「旧自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼弘胤の三君、それに文芸批評社の麻生義君が一緒になって黒化社をつくった。機関紙『黒化』を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来月初旬より続々とパンフを刊行する由」(『黒色青年』二六年五月)

 
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 深沼火魯胤(弘胤)の獄中記「避難漫言」によると(『激風』創刊号、二六年六月掲載)、椋本、山田緑郎、臼井源と四人で二五年初夏「公務執行妨害、傷害」の弾圧を受け、椋本は市ヶ谷刑務所、豊多摩刑務所と合わせて三ヶ月も囚われ、二五年一〇月に出所とある。

 
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 金正根も椋本と同様に金子文子の追悼行動から検束された。金は一九二〇年、日本に渡り行商をしなが苦学して早大に入学。不逞社へ出入り、鶏林荘に滞在して運動、震災後は黒友会に参加し二五年五月、同志と共に家を借りその事務所とする。

「…金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが………」

 (「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮 宋暎運『自由連合新聞』四八号一九三〇年六月)

 椋本、栗原らはそのまま拘束され続ける。そのあげく椋本たちは朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ八月一五日大邱に送られるのである。

「重大犯人受取りのため警視庁へ出張した慶北道警察部の成富高等課長吉川判事、谷重高等主任以下五名は犯人主魁栗原一男以下四名を護送して一五日帰任した。犯人は目下大邱署で厳重取調べ中事件の内容は厳秘で取調べ進捗につれ拡大の見込みである」

と一般紙で報道される。

 一〇月、大邱地方予審に廻され、一九二七年三月八日、予審が終結し栗原、椋本、金墨(金正根)の三人は免訴になるが検事はこれを不当として覆審法院に抗告、その結果免訴は覆り公判に付され、二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。一方、東京では、同年六月二三日、黒色青年連盟が朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、抗議書を突きつけ同事件の関係者の即時釈放を要求する。

抗議書  

現在、朝鮮大邱府大邱刑務所に捕われつつある同志椋本運雄、栗原一男、金正根の三名は大正一五年八月、朝鮮官憲の依頼により警視庁より護送されたものである。該検挙の理由は、予審決定書の示す通り、只無政府主義者を抱懐するという実に根拠薄弱なものであり、且つ直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている。略

尚又、現在台湾にこれと略同様の困危に遭遇しつつある黒色連盟事件がある。我等は飽まで此の不法監禁に反対すると同時に、両事件の同志全部の即時釈放を茲に要求する。

昭和二年六月二三日   黒色青年連盟

 栗原、椋本は六月二五日判決公判で懲役三年、金は懲役五年の懲役を言渡され即日下獄となり、七月四日再び黒連は抗議書を突きつける。しかし京城西大門刑務所、大邱監獄へ移監させられる。

 ようやく満期の一九二九年六月一九日、椋本、栗原は釈放となる。「椋本、栗原出獄」「現在東京市外代々木富ヶ谷の〈A思想協〉に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。なお同事件関係の同志五名は大邱刑務所に被監禁中」。(『自由連合新聞』三七号二九年七月)

 朝鮮の同志たちは、一九三〇年一月二四日、二五日に一度は釈放になる。

(『自由連合新聞』四六号三〇年四月)

(『トスキナア』掲載原稿改定)


補遺

椋本運雄に差し入れられた和田久太郎著 『獄窓から』

 1927年3月10日発行
 編纂発行兼印刷者 近藤憲二 東京市本郷區駒込片町十五
 発行所 労働運動社

7月25日古書店より同書が届く。
 蔵書印と監房所持許可の印があるということで近代文学専門の古書店による価格は安く付けられていたが、蔵書印は「黒色青年連盟」、許可印の獄中者名は「椋本運雄」名であった。この『獄窓から』が残存していたこと、それを安価で入手できたのは奇跡に近い。
 

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by pugan | 2011-05-19 16:59