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by pugan

金子文子と中西伊之助5-2

③ 今日

(前史 備前又二郎、小野十三郎、『黒色青年』『叛逆者の牢獄手記』に描写された追悼)

鏝と鋏           小野十三郎

「××××が生前使ってたものだ」

そういって仲間は手にしていたものを畳の上に並べた。

それは古風な鏝と鋏であった。

鏝は赤く錆つき、異様に太い鋏は手垢で黒く光っていた。

俺はいまさらのように彼が女であったことを想い出した。

ここにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦ってきた路があった。

叛逆児××フミが女性であったということは必ずしも偶然ではなかったのだ。

錆びた鏝を持ちあげてしずかに置いた。

         初出『弾道』(第二次)

第一期 秋山清、小松隆二による評価。一九五〇年代から六〇年代。アナキストたちからの言及。

一九六一年七月「金子ふみ子の回想録」『春秋』七月号

一九六一年七月『自由思想』六号、小松隆二

一九六三年三月、四月 森長英三郎『法律時報』「朴烈・金子文子事件」

一九六四年『日本の女たち』佐野美津男、三一新書

一九六五年「朴烈大逆事件」『昭和史発掘』文芸春秋社

一九六六年六月 朴烈「共産主義と私」『統一評論』六月

 私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。

一九六九年七月「金子ふみ子のこと」秋山清『思想の科学』七月号

第二期鶴見俊輔、井上光晴、瀬戸内

晴美らによる言及。一九七〇年代。牧丘町、ムンギョンにおける碑の設置。

一九七〇年 鶴見、井上による対談

一九七〇年八月『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房、収載「対談 金子ふみ子をめぐって」作家井上光晴、作家鶴見俊輔 七〇年七月三日、「最暗黒の東京」「日本の下層社会」「何が私をこうさせたか」あとがき、鶴見俊輔、

「明治、大正、昭和、戦後も含めての日本の進歩的知識人の書いてきた思想史の裏側になってきている人だという気がするのですがね」鶴見俊輔

一九七二年六月三〇日 『余白の春』瀬戸内晴美著

一九七三年七月二三日  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

一九七三年九月一日 『朴烈』金一勉著、合同出版

一九七四年一月一七日  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

一九七六年三月二〇日  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

韓国ムンギョンでは官憲の監視下、金子文子の墳墓は盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなかった。そして一般には知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「………………我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。………小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

 実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。

一九七九年一二月 秋山清「はるかに金子文子を」──「自叙伝」を再読しながら──

季刊『三千里』特集「朝鮮の友だった日本人」

第三期 大審院公判記録の刊行。研究

評価、表現の対象となる。七〇年代末から九〇年代。

一九七七年 『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会、黒色戦線社 手書きのまま複製

一九八一年六月二二日 栗原一男死去

一九八七年七月 『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

一九八八年 『続・現代史資料アナーキズム』小松隆二編、みすず書房 訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録

一九九一年一二月二五日 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社、本文は「続・現代史資料アナーキズム」の複製、付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻版収録、『連帯』誌 山梨での碑の除幕式報告掲載 1976.4.15発行、が刷り込まれている。

一九九六年一二月五日 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

一九九九年九月一五日 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

山田昭次による研究は従来の断片的な金子文子研究にとどまらず彼女の全体像を描こうとする。

故郷といえる山梨の人たちによる金子文子の把握、演劇としての表現。一九八〇年代。

この時期、歌人、道浦母都子は金子文子の伝記を書きたいと公に発言していた。その過程で印刷中に発禁処分とされ「幻」の歌集となった『獄窓に想ふ』自我人社刊、を山梨県立図書館から「発見」し、埋れていた史料を世に出す契機をなした功績がある。しかし間もなく道浦は現代短歌に言及する場合、天皇〈制〉に収斂されるコメントが発せられるようになる。現皇太子の結婚式、皇室のための歌会始への肯定的言及がマスコミにおいて散見される。金子文子の天皇否定の立場と矛盾する表現であるが、道浦はその立場に関して何ら説明を行っていない。
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by pugan | 2011-06-17 17:00