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by pugan

金子文子と中西伊之助5-3

第四期韓国での評価、山梨での評価

アナキズム運動史の立場から、ウェブ上でのデータアップ

二〇〇二年七月二三日 「金子文子と布施辰治」シンポジウムが開催される

二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。現在の文子の墳墓がある山を朴家が手放したので移葬せざるを得ないという事情もあり、ムンギョン市長の朴烈への関心も高く計画が進められたという。そして〇三年一一月、移葬された。記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。

二〇〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。近郊まで至る高速道路が整備中で工事が進んでいた。五年前からも大きい変化である。かつて「鳥も通わない」と表現された鳥嶺山一帯の景観は様相が一変していた。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

 韓国からは金子文子・朴列に関わり研究者も来訪している。〇三年の七月にはキム・チャンドックさん、キン・ミョンソップさんが訪れた(『日本アナキズム運動人名事典』項目執筆)。四日間の文献調査と二〇年代、朝鮮アナキストゆかりの地を回り金子文子、朴烈が在監していた東京監獄年市ヶ谷刑務所跡の碑も確認する。跡地は大江戸線「東新宿」駅から五分程、余丁町の小さな公園にある。

 二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。私と交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時年国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員)、イ・ホリョンさん (当時ソウル大学韓国史学科講師、『韓国アナキズム運動史』著者)が番組内で解説。

二〇〇五年一月一三日、「布施辰治年自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学年明治大学法学部主催で開かれた。

 記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。

 布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし(一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された)、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査年抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。

弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。

第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。

第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。(アナキズム運動人名事典編集委員にソウルから加わっていた)李会長には昨年秋、ソウルにて開催された初期社会主義研究会の大会関連企画として市内見学があり友堂記念館の案内と設立の経緯の解説をお願いした。その際、山泉さんへソウルで開催された「布施国際学術大会(二〇〇一年)」に関わったことを紹介した。その縁で今シンポジウムへの招請につながった。

発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」(為さずして始める)を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。

翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。事典編集委員であった山口守さん(一九九〇年代にソウルで東アジアにおけるアナキズムをめぐるシンポジウムを企画、李文昌さんと交友が始まった)、李京錫(イ・キョンソク)さん(東アジアにおける近代政治史を研究、亜州和親会に朝鮮からの参加者が存在したという論文を発表)が同行した。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さん、牧丘町住民、教育委員会、山梨文芸協会、県生涯学習センター職員らこの間、金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。

牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会(市、市教委、布施辰治顕彰会主催)が開かれイ・ムンチャンさんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。

 講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋(こつなぎ)入会権訴訟を語った。

 李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。

韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

二〇〇四年七月二二日 平等主義に再評価

牧丘ゆかりの無政府主義者 金子文子

生誕100年 座談会や文化行事計画

1923年に起きた「朴烈事件」で死刑判決を受けた山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903ー26)が生誕100周年を迎えたのを機に、県内で再評価の機運が高まっている。23日に、幼少期を一時過ごした牧丘町で「文子忌」と座談会が行われるほか、山梨文芸協会などよる文化行事の準備も始まった。思想統制が厳しい時代、徹底した平等主義と反権力の立場を貫いた文子の先駆性が、あらためて脚光を浴びているようだ。

文子は少女時代、両親の別居や再婚で、親族の住む朝鮮や牧丘町などを転々として貧しい生活を送った。その後東京で新聞売りや行商などをしながら苦学するなかで、社会主義者や朝鮮独立運動の闘士・朴烈らと出会い思想を形成した。

23年9月、関東大震災直後の戒厳令下で「保護検束」の名目で朴烈とともに検挙。皇太子暗殺のため爆弾入手を計画していたとして当時の刑法が定めた「大逆罪」で起訴された。当初否認していた文子は、途中から容疑を受け入れる代わりに法廷を自分の考えを述べる場とし天皇制批判を展開した。26年の死刑判決後、恩赦で無期懲役となったが、文子は刑務所で首をつって自殺した。

事件はその後の研究で、社会主義や無政府主義の広がりを恐れた政府が、運動を弾圧する口実としてでっちあげたとされる。文子は獄中で手記「何が私をかふさせたか」を執筆し、貧しさゆえに虐げられた生涯を赤裸々に語った。

山梨文芸協会と県生涯学習推進センターは6月末、生誕100周年の記念事業を行うため実行委員会を設立。10月にも、県内外の研究者を集めたシンポジウムや講演会などの文化行事を開くことを決めた。同センターの小沢龍一所長は「文子ほど社会のおかしさや人間の本質を突き詰めて考えた人はいない」と文子の現代性を強調する。

韓国では、朴烈の出身地・慶尚北道で、朴烈と文子の記念館建設計画が進んでいるという。

23日の「文子忌」は午前10時から、牧丘町杣口に立つ文子の歌碑前で開かれる。遺族や地区住民のほか、文子に関心を持つ文化関係者ら約30人が出席する予定だ。式後には今回初めて、文子に関心を持つ人たちが集まり座談会を開くことになっている。

山梨文芸協会の佐藤信子会長は「文子はいまも国賊扱いを受ける。文学的才能や平等を求める不屈の志に正当な評価をして、名誉回復することが必要だ」と話した。    

【報道】

金子文子の生涯、歌碑前でしのぶ 牧丘町

牧丘町で少女期を過ごした山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903-26)が生誕100周年を迎えたのを記念して、同町杣口の歌碑前で23日、「文子忌」が開かれた。県内外の関係者約50人が出席して、78年前のこの日に反権力の姿勢を貫いて自ら命を絶った文子の生涯をしのんだ。

式典では、文子が暮らした大室(おお・むれ)地区の岡田秀雄区長が「文子は韓国の教科書でも絶賛されているというがこれまで知らなかった。世界に通じる郷土の誇りだ」。当地に住む文子の親族金子こま江さんは「文子は100年を経てようやく、心安らかに過ごせるようになった」などとあいさつした。

この日は、広瀬義一牧丘町長や萩原昌郎町教育長、山梨文芸協会の佐藤信子会長らも参列。文子の生涯をしのんだあと、一人ひとり歌碑の前に花を手向けて手を合わせた。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

金子文子の再評価進む/大逆罪は冤罪、と地元で

一九二三年の関東大震災直後、アナキストの夫朴烈(ボク・レツ)とともに「保護検束」名目で捕らえられ、爆弾事件の犯人として大逆罪などで死刑判決を受けて獄中で自殺したアナキスト金子文子(かねこ・ふみこ)(一九〇四―二六年)。生誕百周年を迎え、再評価する動きが、幼少期を過ごした山梨県や朴が生まれた韓国で盛んになり、遺族が抱いてきた後ろめたさもようやく晴れてきた。

金子と朴は二六年三月、爆弾で皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたなどとして大逆罪と爆発物取締罰則違反罪で死刑判決を受ける。翌四月、恩赦で無期懲役に減刑されたが、金子は服役した栃木刑務所で同年七月、首つり自殺した。

金子が生まれたのは横浜市。朝鮮や母親の実家がある山梨県牧丘町で幼少期を過ごした。

後世の研究により、「朝鮮人暴動」をでっち上げ、アナキズムの広がりを防ぐための冤罪(えんざい)と指摘され、亀田博さんも「朴は確かに爆弾を入手しようとしたが失敗し、そもそも使用目的すら決まっていなかった。容疑を裏付ける物証も一切なく、大逆罪は作られた物語にすぎない」と明言する。

しかし、反逆者とされた金子は地元牧丘町でも語られることは少なかった。遺族の 金子こま江(かねこ・こまえ)さん(86)は「戦後になっても『大逆事件』の犯人の親族として、家族が就職を断られたこともあった」と打ち明けた。

金子の七十八回忌に当たる七月二十三日、牧丘町で「しのぶ会」が開かれた。昨年は四、五人しか集まらなかったが、今年は町長ら約五十人が出席。秋には山梨文芸協会が記念シンポジウムを開催する予定だ。

朴が生まれた韓国・聞慶市では、朴の親族や研究者が「朴烈義士・夫人金子文子記念館」の建設を進める。二〇〇六年開館を目指し、市内の金子の墓も敷地内に移転。金子の生涯を紹介した「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(山田昭次=やまだ・しょうじ=著・影書房刊)も昨年、翻訳本が出版された。

「平等を求め権力と闘った活動家としてだけではなく、優れた自叙伝を残した文筆家として、先駆的な日韓の架け橋として、あらためて注目を集めている」。山梨文芸協会の佐藤信子(さとう・のぶこ)会長(73)は金子の再評価が進む理由をこう解説する。

こま江さんは「親族もこれまで後ろめたい気持ちで暮らしてきたけれど、だんだんと本当の金子文子が理解され、その気持ちも薄らいできた」と話している。     

二〇〇四年八月九日 ウェブ東奥 共同通信配信

金子文子の再評価進む/大逆罪は冤罪、と地元で

一九二三年の関東大震災直後、アナキストの夫朴烈(ボク・レツ)とともに「保護検束」名目で捕らえられ、爆弾事件の犯人として大逆罪などで死刑判決を受けて獄中で自殺したアナキスト金子文子(かねこ・ふみこ)(一九〇四―二六年)。生誕百周年を迎え、再評価する動きが、幼少期を過ごした山梨県や朴が生まれた韓国で盛んになり、遺族が抱いてきた後ろめたさもようやく晴れてきた。金子と朴は二六年三月、爆弾で皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたなどとして大逆罪と爆発物取締罰則違反罪で死刑判決を受ける。翌四月、恩赦で無期懲役に減刑されたが、金子は服役した栃木刑務所で同年七月、首つり自殺した。

金子が生まれたのは横浜市。朝鮮や母親の実家がある山梨県牧丘町で幼少期を過ごした。

後世の研究により、「朝鮮人暴動」をでっち上げ、アナキズムの広がりを防ぐための冤罪(えんざい)と指摘され、亀田博さんも「朴は確かに爆弾を入手しようとしたが失敗し、そもそも使用目的すら決まっていなかった。容疑を裏付ける物証も一切なく、大逆罪は作られた物語にすぎない」と明言する。

しかし、反逆者とされた金子は地元牧丘町でも語られることは少なかった。遺族の 金子こま江(かねこ・こまえ)さん(86)は「戦後になっても『大逆事件』の犯人の親族として、家族が就職を断られたこともあった」と打ち明けた。

金子の七十八回忌に当たる七月二十三日、牧丘町で「しのぶ会」が開かれた。昨年は四、五人しか集まらなかったが、今年は町長ら約五十人が出席。秋には山梨文芸協会が記念シンポジウムを開催する予定だ。

朴が生まれた韓国・聞慶市では、朴の親族や研究者が「朴烈義士・夫人金子文子記念館」の建設を進める。二〇〇六年開館を目指し、市内の金子の墓も敷地内に移転。金子の生涯を紹介した「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(山田昭次=やまだ・しょうじ=著・影書房刊)も昨年、翻訳本が出版された。

「平等を求め権力と闘った活動家としてだけではなく、優れた自叙伝を残した文筆家として、先駆的な日韓の架け橋として、あらためて注目を集めている」。山梨文芸協会の佐藤信子(さとう・のぶこ)会長(73)は金子の再評価が進む理由をこう解説する。

こま江さんは「親族もこれまで後ろめたい気持ちで暮らしてきたけれど、だんだんと本当の金子文子が理解され、その気持ちも薄らいできた」と話している。

さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。

【報道】『朝日新聞』山梨県版

二〇〇四年一一月二四日         

金子文子生誕100年 26日に講演

山梨ゆかりの無政府主義者金子文子(1903~1926)が眠る地を訪ねようと、山梨文芸協会会長の佐藤信子さん(74)が、韓国・聞慶(ムン・ギョン)市を訪問した。現地では、同志だった在日朝鮮人活動家・朴烈と金子文子の記念館建設が進んでおり「過激と見られた2人も、日韓交流時代には民族を超えてきずなを結んだ先駆性が注目されてきている」と話す。26日に協会などが甲府市内で開く金子生誕100周年記念行事で、訪問が報告される。

在京の金子文子研究者亀田博さんと2人で10月末の3日間訪れ、韓国の研究者ら5人が案内した。聞慶市は、朴烈の出身地で、植民地支配からの解放運動を指導した英雄のひとりとして尊敬を集めているという。02年から生家のまわりの広さ約14500平方メートルが公園として整備され、今年10月中旬からは記念館の建設も始まった。06年の完成時には、金子を紹介する特別室も設けられる予定だ。金子は、23年に起きた「朴烈事件」で大逆罪で死刑判決を受けたのち、恩赦で無期懲役に。その後、権力による減刑を潔しとせず、刑務所で首をつって自殺した。遺体は生前の本人の願いで、朴烈の生地に遺骨が送られ、長らく聞慶市の山中につくられた墓にひっそりと埋葬されていた。佐藤さんは、現地の人から「記念館を日韓の架け橋にしたい」と言葉をかけられたのが印象に残っている。

「少女期に虐げられた生活をおくった文子は、朝鮮半島の人たちを黙って見ていられなかった。言論統制の厳しい時代に、自由と平等を唱えた姿に、いまこそ光を当てる必要がある」と話している。

記念行事は26日午後12時50分から午後4時まで、甲府市朝気1丁目の県立男女共同参画推進センターで開かれる。県生涯学習推進センターと山梨文芸協会が主催し、牧丘町教委の後援。金子についての著作のある山田昭次・元立教大教授の講演や研究者らのシンポジウムがある。入場無料。

〇五年も山梨でシンポジウムが開かれた。

山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座のテーマが「日本とアジアの架け橋になった人々」。一〇月八日、第四回のテーマが「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」として開かれ再びパネラーとして参加した。

ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年〇七年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。

金子文子に言及した近年刊行の書籍、関連会議、集会等

二〇〇四年四月「金子文子」「新山初代」「栗原一男」「椋本運雄」項目掲載『日本アナキズム運動人名事典』刊行、ぱる出版。

二〇〇四年一一月「韓国人と一緒に生きようとした日本人もいた」『若者に伝えたい韓国の歴史』明石書店、李元淳・鄭在貞・徐毅植 著

君島和彦・國分麻里・手塚崇訳

二〇〇五年四月 亀田博「金子文子の生と死①」『トスキナア』創刊号、皓星社発売元

二〇〇五年五月『日本・中国・韓国=共同編集未来をひらく歴史 東アジア三国の近現代史』、コラム「金子文子──朝鮮人と連帯し天皇制国家と闘った日本人」日中韓三国共通歴史教材委員会、高文研。参考「シンチェホ」に関するコラムも掲載

二〇〇五年五月 鹿野政直著『近代国家を構想した思想家たち』岩波ジュニア新書、〈アジア・世界のなかの日本〉に金子文子の項がたてられる。参考文献として『日本アナキズム運動人名事典』「金子文子」の項が記述される。

二〇〇五年一〇月 亀田博「金子文子の生と死 ②」『トスキナア』二号

二〇〇五年一〇月 井桁碧「金子文子の思想と行動」『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』、日韓「女性」共同歴史教材編纂委員会

二〇〇六年二月 特集「もうひとつの大逆事件 金子文子のまなざし」『彷書月刊』二月号 

二〇〇六年五月二日、甲府で「金子文子研究会」の発足が話し合われる。七月二十三日に追悼八十年の集りを開くこと、会の活動等が検討された。

二〇〇六年六月四日、甲府市内で「やまなし金子文子研究会」の発足。

二〇〇六年七月二七日→三〇日「金子文子追悼八〇、プガン・ムンギョンの旅、研究交流」
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by pugan | 2011-05-16 17:03