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by pugan

金子文子と中西伊之助7-1

中西伊之助と社会主義者、アナキストたちとの関係      

中西伊之助不在の「場」、二六年当初まで

金子文子、朴烈と中西伊之助がいつ、どこで出会ったかの詳細は定かではない。現在まで原本複写、復刻版等で目にしてきた当時の運動紙誌には残されていない。公然活動に関る者同士の全ての出会いに触れてはいないが、運動紙誌の短信欄、編集記には意外な動向が記されているケースもある。それ以外にも官憲による動向調査の報告があるが同様に確認はできない。

二人と中西が出会ったのは集会か会議の場であると推測をする。そうすると両者を知っていた共通の同志がいたのであろう。中西の活動の足跡をたどることから始めたい。

また当時の東京市の地図を認識することが必要と考える。

一九〇九年測量、一九一七年修正測量の「陸地測量図」により黒濤社、不逞社、市ヶ谷刑務所の位置を把握できる。「番地早分かり東京市全図」は縮尺、東西南北は当てにならないが市電路線と停留所が書き込まれているので参考になる。労働運動社、新山初代の住まい、南天堂、市ヶ谷刑務所との位置関係が確認できる。

 東京交通労働組合関連で触れると一九二〇年の争議拠点の一つであった「大塚車庫」も同図に含まれている。

①中西伊之助と売文社、堺利彦 

平民大学から日本社会主義同盟 中西は不在、堺の労働運動指導者としての中西批判、作家としての評価、布留川桂の批判

中西伊之助はエッセイで回想し堺利彦の売文社へ出入りしていたことを語っている。しかしその堺は「『赭土』の中西君」と題した批評で労働運動指導者としての中西を評価せず前半部で「評判記」も含めて辛口の意見を述べている。(『赭土に芽ぐむもの』に対しては誉めている)。中西は後に大杉栄が労働運動の指導者としての自分を批判するのは堺利彦のところへ出入りしていたことで、堺との関係でこだわり批判を強くすると語っている。しかし当の堺自身も中西が指導した「東京市電争議」をめぐっては辛らつである。

山崎今朝弥という弁護士が当時活躍していた。《日本社会主義同盟》結成における山崎の役割は大きく、山崎が結成に向けて前の世代の社会主義者間に起り始めていた「対立」を封じ新たな世代の社会主義者を結集させたといっても過言ではないと考える。       

当時、山崎が発行していた『社会主義』平民大学刊(復刻版)、『労働運動』(復刻版)、一九七二年に弁護士、森長英三郎が著した『山崎今朝弥』(紀伊國屋新書)を参考に平民大学から一九二〇年の社会主義同盟結成、解散に到る経過を概観する。

山崎今朝弥が「平民大学」の看板を掲げたのは一九一七年五月七日、山崎が学長、山川均が教頭、岩佐作太郎が理事長となっている。岩佐は初期社会主義の時代にアメリカに在住しサンフランシスコに滞在していた幸徳秋水と交流。アメリカから戻った後はアナキズムの立場で活動を続けていた。

山崎は警察の妨害を受けながら講演会を開催、一九一九年八月には夏期講習会を開いた。会場は三田四国町、堺利彦、大庭柯公、川島清治郎、高畠素之、西川光二郎、室伏高信、荒畑寒村、生田長江、与謝野寛、大杉栄、山口孤剣、宮武外骨、山川均、馬場胡蝶の十四人の講師が七日間にわたる講演が企画された。山崎は所轄の三田警察署長と事前に交渉、聴講者を百人に制限、警察へ聴講券を無料進呈、来会者の氏名を書きとる、講演の内容が「過激」にならないよう、聴衆が騒がないように責任をもつと交渉、警察も不当な中止、解散を命じない、との「屈辱的紳士契約」をなす。四日目から弁士中止の連続、大杉の講演は翌日有楽町で臨監なしに実行した。

翌年も出席者は三百人を越え「平民大学学士会」と称した。

この平民大学夏期講習会はアナキストから国家社会主義者まで各派の合同、統一の運動としての意味をもち日本社会主義同盟の結成に向う。同盟が平民大学を事務所として結成されたのは一九二〇年十二月九日、創立大会は十日を予定していたが九日夜の在京同志の会合を急きょ創立大会に変更、十日は植田好太郎が経過報告、弁士中止解散となる、

前夜から日比谷警察署に検束された同志は久板卯之助、望月桂というアナキストたちであった。山崎は二一年一月一日付けで二人を告訴人として日比谷警察署長、警部、警部補、特高主任らの傷害事件として告訴する。(山崎の著作『弁護士大安売』に収録)。

同盟は「一九二〇年の夏頃から橋浦時雄、岩佐作太郎らが堺や山崎の意図を受けて働き平民大学を創立事務所として進められる」(森長『山崎今朝弥』)。しかし実際、前面に出たのは山崎今朝弥であることからみて山崎が堺を引き込んだとみてよいのではないか。

『新社会』を改題『新社会評論』を九月からさらに『社会主義』と改題、同盟の機関誌とする。『新社会評論』はすでに平民大学発行となっていた。友愛会、信友会、正進会、交通労働組合、鉱夫総連合、建設者同盟、新人会、暁民会と社会主義団体、労働団体、学生団体の参加、学者、思想家、文学者、弁護士らの参加もあり千人以上の同盟員となり増え続けた。

『社会主義』では結成準備の状況が描写されている。

「其の後の日本社会主義同盟は、やはり発起人が創立事務に忙殺されている状態に在る。……直ちに其の準備に取掛かるべしと云う意見が、十月九日の懇親会では盛んであったそうである。……創立事務、七名の世話人会が事務を執り、別に三名の編集委員が置かれたが、事務の複雑多端となるに及んで、事務を分担するの必要が生じ、目下は常務委員(近藤憲二、水沼辰夫、山川均)財務委員(麻生久、山崎今朝弥、吉川守邦)講演会委員(服部浜次、岩佐作太郎、加藤勘十)雑誌委員(赤松克麿、橋浦時雄、小川未明、大杉栄、山崎今朝弥)の四部に分かれて執務してゐる。

同盟会場、同盟の事務はやはり芝区新櫻田町一九山崎今朝弥方であるが、此処では主として通信、会計等の事務を執り、会合、相談等は麹町区元園町一ノ四四の新事務所でやる。新事務所には常務主任の近藤氏が居て、来客を歓迎してゐる。又同盟加盟者で新事務所を何かの会場(百名位ははいる)に利用したい場合には、都合のつく限り便宜を図るさうである。加盟申込者 今日の処(十月十四日)約一千名の申込者がある。……懇親会 同盟加盟申込者の懇親会を毎月第一、第三の日曜日夜に、新事務所で開く事になつた。……」

「日本の社会主義運動は、既に二十餘年の歴史を有して居るが。大逆事件以後、一時殆ど沈衰の有様となり、たゞ堺、大杉、荒畑、山川、吉川等の少数の先輩が、僅かに處々の孤壘を守つて居るといふ形であつた。

然るに、近来に至り、古い社会主義者以外、実質上の社会主義者が、続々として出現して来た。そこで、それ等の諸分子を打つて一丸とする、新しい團體組織の必要が、誰の頭の中にも痛切に感ぜられて来た。この形勢に應ずる為に、昨年七月頃初めて、『日本社会主義同盟』の創立が計画せられた次第である。

最初、古い社会主義者の間に先づその議が熟し、次いで諸方面の労働團體や思想團體の人々との間に交渉が成り立ち、この際、あらゆる態度あらゆる色彩の社会主義者を糾合して、一大團體を組織する事を目的とし、赤松克麿、荒畑勝三、麻生久、布留川桂、橋浦時雄……三十名の者が発起人となり、八月五日趣意書及び規約草案を社会に発表したのである。

然るに、その印刷物は直ちに頒布を禁ぜられ、それに次いで更に作製した別種の印刷物も同じく押収された。然しそれにも係はらず、諸方面諸地方から、続々として加盟の申込があつた。……」

「是に於てか、発起人は昨年十二月中に、事務所に於て数回に亘つて発起人会を開き、創立大会の委任事項を処理して、次の如く決定した。(報告頁の印刷に二分の一段 空白がある内閲で削除か?)」

同誌に執行委員の名も掲載されている。発起人と重なる名は赤松克麿、麻生久、布留川桂、服部浜次(宣伝)、橋浦時雄、岩佐作太郎、近藤憲二、加藤一夫、加藤勘十、北原龍雄、水沼辰夫、大庭柯公(編輯)、島中雄三、渡邊満三(宣傳)、和田巌、吉川守邦(會計)、高津正道(常務)である。

あらたに阿部小一郎、江口渙(編輯)、原澤武之助、百瀬二郎、望月桂、新明正道(編輯)、諏訪與三郎(常務)、杉浦啓一、高田和逸(常務)、吉田順司、竹内一郎(宣傳)、和田久太郎、渡邊善壽が執行委員となっている。(また二分の一段の空白がある)

「成立後の同盟は、今日まで如何なる仕事をして来たか。又其後の同盟はどうなつたか。……『社会主義』や、『労働運動』紙上に同盟の事を書けば、内務省の検閲係から抹殺されて終つた。この報告も余り詳しく書いて敵に内情を知悉される恐れあるを思へば、簡単に書く方が却つて利益であるかも知れない」

と記述され運動紙誌での報告が困難であることが記述されている。また『社会主義』には執行委員である布留川桂が「似非労働運動者へ」という題の論文を掲載している。

「労働運動は自己解放運動である。然るに一部の労働運動者は恰も他人の為にするかの様に云ひもし振舞ひもする。

 昨年このかた、労働運動の盛んになるにつれて、思想もなければ、労働階級に理解もない連中が、うるさい程飛び出した。大概は指導者面をしてゐて、それで飯を食はうと云ふ連中だ。そんな連中なら知らないが、苟も本当の労働者であり労働運動者であるならば斯る言動は絶対にない筈である。…略」、現場の労働者である布留川からの指摘は厳しい。

結局同盟の第二回大会は一九二一年五月九日に開催されるが事前から官憲の弾圧はすさまじく、当日は一瞬の挨拶だけで解散させられ、結社そのもの解散を命ぜられた。二一年六月四日発行の『労働運動』(週刊)一二号

に「開会──解散──検束」という題で報告記事が掲載されている。

──五月九日の社会主義大会──



 思想問題講演会と銘を打つた第二回社会主義同盟の大会は、昨夜六時から神田青年会館に開かれた。

 警戒振りの物々しさは、一昨夜から同主義者の門前に荒延を敷いて検束の網を張り、自宅監禁をしようといふ当局の作戦美事成功し、大杉栄氏を初め名ある同主義者は悉く籠城の余儀なきに到つたが、それでも青年会館は、サーベルの垣を造つて、三百余の警官は、便所から湯呑場まで一杯といふ景気である。

 入場者は、五時と言ふのに一千人以上締切つた扉に鮨のやうに押潰されて居る。この物々しい騒ぎの裡に飛び込んだ岩佐作太郎氏に引続き、堺真柄氏も門前で検束された。

……五時半、門を開くと、大会の主催者江口渙、高津正道の両氏が、警戒門を潜つて抜け道から弁士室に入つたが、程なく駆け付けた望月桂氏は引致され、次で露国の盲人エロセンコ氏が検束される。……折から堺利彦氏は、青の職工外套に鳥打で門前に来たが、解散と知つて忽ち姿を晦す。開会から解散まで殆んど一分間。……(十日の東京日日) 。「……」は引用時の略。

   三

 此の大会騒ぎの為に検束された者は左の如くである。

川口慶介、望月桂、露国盲人エロセンコ、高津正道、江口渙、服部濱次、加藤一夫、矢野芳雄、仲宗根源和、栗林四郎、川崎春次、福田英一、高野松太郎、林世照、堺為子、堺真柄、岩佐作太郎、内海朝次郎、川崎憲二郎、藤田■■、元鐘麟、鈴木文助、八幡博道、長谷川辰治、茂木邑治、渡邊政之輔、水谷武雄、和田久太郎、中名生幸力、新井文雄、秋好為一、神保貞一、谷川吉彦、徳田盈、小林安重、斎藤喜久次、武良二、浅原政義、秋元金七、尾崎文蔵、澤村三男、中澤秀定。その他十数名は氏名不詳。

中西伊之助は市電争議での収監と争議終結後の生活の確立もあり日本社会主義同盟には関れなかったのだろうか、大杉グループでもなく、また堺グループでもないという状況がうかがえる。同盟に関れば活動時間も多く割かれ、また同盟解散後の運動の「分岐」にも巻き込まれる可能性もあったのではないか。無縁の「場」に佇まざるを得ないゆえに、翌年発表される『赭土に芽ぐむもの』を執筆する機会も出来たのではないか。

②中西伊之助と大杉栄、「労働運動社」、(『労働運動』紙における市電罷業記事、中西伊之助の動向、第一次と第二次との評価の差。アナ・ボル連携の第二次では非親和的

大杉栄らが同志と共に活動していた「労働運動社」、周辺のアナキストたちの動向を確認したい。

 当時のサンジカリズム運動を中心とした概況にふれておく。一九一七年、ロシア革命、翌年の米騒動と労働争議、第一次世界大戦の影響による好景気をふまえ労働運動が盛んになる。そのような状勢の中、労働運動の活動家が集る研究会、北風会が始動。大杉栄を中心とした研究会と合併、『労働運動』紙の創刊に至る。

刊行準備段階では堺利彦や山川均、荒畑寒村にも同人を呼びかけていた。直接の参加は得られなかったが、当初は論文の寄稿や転載がみられる。

中西伊之助の名が初めて登場するのは第二号からである。ただし「新聞記者」の中西を理事長にしている日本交通労働組合に対抗して労働者が自ら組合を主導するという対抗する組合結成に関しての記事である。

三号では、市電争議の概略が飛び込み記事なのか最下段に掲載されている。

二〇年二月発行の第四号に初めて〈日本交通労働組合理事長〉として中西伊之助のアンケート回答が掲載される。同号の十四面《労働団体消息》には同労組の躍進が報告されている。

翌号と翌々号には市街電車従業員の争議が報告され中西が治安警察法違反で収監されたことにも触れている。結局、中西自身による争議報告は掲載されなかった。

二〇年末、大杉栄はコミンテルンの「密使」の誘いにのり堺利彦たちが二の足を踏んだ上海での極東での社会主義者たちの会議に参加する。そこで提供を受けた活動資金により共産主義の影響が強かった近藤栄蔵、高津正道たちと共同し、週刊で『労働運動』を復刊させる。(当事者たちは付していないが第二次『労働運動』と言われる)。しかし大杉が病気の間、近藤栄蔵はコミンテルンの指導もあったのだろうが大杉外しに動く。ところが近藤本人はコミンテルンからの資金を豪遊で使い込み官憲に逮捕されという醜態を演じる。第二次のこの時期は「アナ・ボル」協同路線をとった大杉もアナキストたちから批判を受け、高尾平兵衛たちは独自の運動紙を刊行する。その高尾は後にモスクワを労働者会議参加で訪問した後、東京に戻り「協同戦線」を主張し始める。

この第二次『労働運動』では中西の報告が一度掲載されるが、別の号では中西の関わる組合が二分されたということが数行で報告、それに中西から反論の投稿が掲載される。それ以降、中西本人の記事を同紙で見ることはない。最後に名が挙げられたのは翌二二年刊行の『労働運動』(第三次)七号で玉川電車の罷業に対する収束策への批判記事においてである。

労働運動社、アナルコサンジカリズムの立場からいえばまず労働者を主体とした労働組合が原則であり、当該組合の従業員でない「外部」の者が、理事長という立場とはいえ交渉主体というのは批判する対象でしかなかった。

中西本人も先に紹介した『朴烈君のことなど』で「獄中の中浜君が…昔僕が交通労働の幹部であつた頃、大杉栄君なんかが。よく同じやうな口調で僕等を馬鹿にしたもんだ。…」と語っている。
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by pugan | 2011-05-14 17:05