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by pugan

金子文子と中西伊之助7-2

『労働運動』紙創刊準備から発刊

【資料】

一九一八年 六月十五日《状勢》近藤憲二等北風会を主催す。……参会者は主義者一三名未編入者数名なりしが同志和田久太郎、中村還一、荒畑勝三、村木源次郎、斎藤兼次郎等……一同「露西亜革命の歌」を合唱し…… (イ)会の名称 「北風会」(北風は渡辺の雅号)と称すること

(ロ) 責任者 近藤憲二

一九一九年一月一五日大杉一派の研究会は近藤憲二等の主催し来りたる北風会と合同することと為り

渡辺方にて毎月一日一五日二回会合することに決定せり

大杉栄、売文社を訪問、堺利彦との交友

一九一九年一月二六日 

大杉栄、堺利彦を訪問、飲食。

一九一九年二月一五日

北風会及大杉栄等の会との合同会合は例会を荒畑勝三、山川均両名出獄歓迎会として開く。山川は病気欠席。出席者三十一名にして荒畑は「英国の労働組合条件復旧問題」に関し講演。

大杉栄は一九年夏に、荒畑寒村、山川均らにも呼びかけ『労働運動』紙の刊行準備を始める。

一九一九年 八月二十三日

大杉栄は同志荒畑勝三、山川均、吉川守国の三名に対し午後一時より麹町区有楽町一の四、服部濱次方での『労働運動』(毎月一回)の発刊に関する協議を申込む

一九一九年八月二十八日

午後二時より大杉、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合……実際運動として来る九月一日より「北風会」を改称「労働同盟会」となす

【資料】『労働運動』紙と中西伊之助

一九一九 年一〇月六日『労働運動』第一号発行 本郷区駒込曙町一三

「労働運動の精神」大杉栄「賀川豊彦論上」大杉栄《読者諸君へ》中村還一、年二十二時計工。和田久太郎、二十七(歳)人夫、新聞紙違反で十ヶ月の牢獄生活を終えて出て来たばかり。近藤憲二、二十五(歳)早稲田大学政治科卒業。伊藤野枝。尾行巡査への傷害罪で入獄中の活版工延島(のぶしま)英一、十八(歳)

六面「日本労働運動史」荒畑勝三、十面「フォスタアに就いて」荒畑勝三

九面《労働団体の簇出》

東京市電気局従業員組合

電気局従業員には、別に交通労働者組合があるが、其の理事長に新聞記者中西伊之助君を戴いてゐる事に平らかならずや、真に労働者のみの組合を組織すると云ふ所から、新たに出来た組合である。

 巣鴨の相澤茂七君を発起人総代とし、新宿の佐野左江君、青山の井上良雄君等発起人となり、蔵原惟廓君、福田秀一君、綱島正興君、法学士山口作之助君を其の顧問に戴いてゐる。

 十月廿二日、小石川亭に其の巣鴨支部開会式が開かれた。

 会衆三百。蔵原君、網島君、福田君等の講演の後、会員十数名の熱烈なる演説あり傍聴者中の交通労働組合派盛んに弥次り、最後に佐野、相澤両君と交通組合の西村泰造君等との激論があつた。

 猶、新宿支部、青山支部等の発会式も続々ある筈。事務所、西巣鴨町庚申塚二五七相澤茂七君方。

十二面「労働運動者の類別」堺利彦

一九二〇年一月一日『労働運動』第三号、小石川区指ヶ谷町九二、関西支局 南区空堀町一一 武田伝次郎方主任和田久太郎、南出張所 南区水崎町七一九逸見直造方主任逸見直造、名古屋支局 中区西瓦町二の二三主任伊串英治

一九一九年一二月一八日「入獄の辞」大杉栄

一二月二三日「大杉は中野の別荘へ行った」

二面年三面「横浜電車と東京市電」

一九一九年十一月三日の市電争議、八日九人を解雇、交渉の経緯、(中西の名は触れられていない)十六面「友愛会幹部の人々」堺利彦

一九二〇年二月一日『労働運動』第四号本郷区曙町十三一面「征服の事実」大杉栄

二面《電車と郵便》市電騒擾

七面《組合合同の是非》

日本交通労働組合理事長年中西伊之助「一、私は労働総同盟を主張します。然らば現在の私共の団体では何うかと云ひますと、其の実行の程度に達するには甚だ遠いと思ひます。僅か一万や二万の組合員ですら、結果が却々困難であります。現在私共の団体では最も堅実な発達を遂げ、一糸紊れない歩調を取ってゐますが、元来排他的感情に富んだ、而も『縁の下の力持ち』をする事のきらいな日本人の団体には、却々面倒な事がそれからそれと湧いて参ります。兎も角も当分は総同盟とか合同とかは不可能だろうと存じます。私個人は前述の主張の為めには何時でも大同団結の為に土台石──でなければ地ナラシの石ころ位になる事を喜びます。

(註、原記事では二、がなく次に三が説明なく続く。単純な誤植の校正ミスと推測)

三、若し合同する機運に達したとしても私共の団体も総て真面目に労働者の解放運動に従事してゐる限り、特殊の希望条件があり得やう筈はありません。お互に寛大な心持と、他人の立場に同情と理解があれば結構です。」

(国際労働会議を動機としての既成組合の合同、連合の問題が起り始めた…アンケートを依頼、記者)十四面《労働団体消息》

日本交通労働組合、昨年八月設立以来すばらしい発達を遂げた。現在では三田、青山、新宿、早稲田、巣鴨、大塚、本所、有楽橋、広尾、三ノ輪の十支部があり、会員総数六千と号してゐる。近く玉川電車の六十名、王子電車の百名が加はったので、更に城東電車、京浜、京王等へも活躍せんとしてゐる。普選運動は自らやらないが、他の尻馬には喜んで乗るさうだ。仮事務所は芝区本芝二ノ二一番地。

一月一一日「豊多摩監獄から」大杉栄

「編集の後に年今月から久板が加勢して呉れる事になった」神戸支局市外東須磨鷹取駅下車、主任安谷寛一

一九二〇年四月三〇日『労働運動』第五号

小石川区指ヶ谷町九二、労働運動社麹町区有楽町一の四、一面《労働運動の転機》大杉栄

「一 とうとう不景気が来た。戦争中から、今に来るぞ、今に来るぞ、そして其の時には険悪な労働運動が起るぞ、と警戒されてゐた不景気がとうとう来た。………すべてはいろんな条件次第だ。そして僕は、其のいろんな条件の中でも、労働者の、しかも最も活動力のある労働者の心的状態に殊に重きを置く。最後の鍵はそこにあるのだ。

四 ………………

好景気の下の労働運動と不景気の下の労働運動とは余程違がふ。殊に不景気は、労働者にとっては、何よりも先づ失業を意味する。失業者問題は労働問題の一大難関である。日本の労働運動は、今其の一転機に際しつゝ、始めて此の一大難関にぶつかろうとしてゐるのだ。労働者はいやが応でも益々真剣にならざるを得ない。…」

一面「出獄の辞」大杉栄一九二〇年三月二三日一面「政治運動の夢魔」荒畑勝三(『解放』四月号から転載)「無政府主義の腕」大杉栄 マラテスタの逮捕

二面《内国時事》

《東京市街電車》「……昨年来提出の五ヶ条の要求中、八時間制と日給制度及び年功加俸の三主要条件が容れられないからだ。二月廿四日、巣鴨線従業員は故障車を連発し、平常八十五台運転のものが四十台となった。廿五日は、次第に減じて廿三台となり、午後七時には一部の運転を中止するに至った。これに続いて、各車庫にも怠業気分が伝播して、二十六日には、全線を通じて約三分の一の運転に過ぎなかった。

同日、組合理事長中西伊之助君は、治警十七条によって収監された。……

(巣鴨車庫に対し車掌小林大吉君以下三百五十九名、運転手森口辰吉君以下二百十五名を解雇した。……降雪中を、巡査隊、憲兵隊が犇々と固めた様は、恰も戦時状態の観があった)巣鴨車庫六百名の馘首と共に、従業員の結束は愈々強硬となり、全線殆ど罷業の状態となった。各車庫は警官隊の眼に包囲された。

 電気局に於ては、事件勃発以来鳩首密議の結果、廿八日夜、従業員代表と交渉し、巣鴨車庫員の馘首を取消し、所謂優遇案を発表した。廿九日、この所謂優遇案によって、巣鴨駒込線を除いて全線復旧した。巣鴨線も復職手続を済ませて三月一日から一勢に運転を開始した。【近藤憲二】

一九二〇年六月一日『労働運動』第六号 

指ヶ谷、有楽町、一面《社会的理想論》大杉栄「無政府主義者殊にクロポトキンはよく云ふ。労働者は先づ、其の建設しようとする将来社会に就いての、はつきりした観念を持たなければならない。此の観念をしつかりと?んでゐないと労働者は、革命の道具にはなるが、其の主人にはなる事が出来ないと。……

三 人生とは何んぞやと云ふ事は、嘗つて哲学史上の主題であつた。そしてそれに対する種々の解答が、謂はゆる大哲学者等によつて提出された。しかし、人生は決して、予め定められた、即ちちゃんと出来あがつた一冊の本ではない。各人が其処へ一字々々書いて行く、白紙の本だ。人間が生きて行く其事が即ち人生なのだ。労働運動とは何んぞや、と云ふ問題にしても、やはり同じ事だ。労働問題は労働者にとつての人生問題だ。労働者は、労働問題と云ふ此の白紙の大きな本の中に、其の運動によつて、一字一字、一行々々、一枚々々づゝ書き入れて行くのだ。観念や理想は、それ自身が既に、一つの大きな力である。光である。しかし其の力や光も、自分で築きあげて来た現実の地上から離れゝば離れる程、それだけ弱まつて行く。即ち其の力や光りは、其の本当の強さを保つ為めには、自分で一字々々、一行々々づゝ書いて来た文字其者から放たれるものでなければならない。………………」

二面《東京市電の罷業》「(二月の罷業によって発表された所謂優遇案を評して、全くの誤魔化だと云って置いた。果してさうだった。一時の糠喜びをした従業員諸君も、遂に其の幻影を破られた。四月廿四日、先づ大塚車庫が監督の排斥を導火線として怠業し、二十五日には全線一斉に運転を休止した。真先に罷業を企てた大塚車庫従業員は同日早朝、雑司ヶ谷の玉椿道場に集り、午後各車庫の従業員も来り加って一千五百名の大勢となった。城倉憲兵大尉の一隊と、富坂大塚巣鴨三署の巡査百五十名は、女子大学を本部として之を包囲した。午後十時に至って、前記三署のほか早稲田、神楽坂、淀橋の警官も来り応援した。午前零時、強制解散命令一下するに及んで、従業員は、どしや降りの中を一々警官の尾行を受けて解散した。が、此の際、一従業員が尾行巡査を突き飛ばしたのが因で、両者間の乱闘となり、真暗豪雨の内に怒号叫喚物凄いばかりであった。其の結果三十余名の検束者を出した。(二十六日、府下尾久村の硯運雲寺に集合、警視庁の池田方面監察官は急遽同寺に出張、南千住署、日本堤、王子、巣鴨の警官百二十名の応援、午後一時再び之を解散せしめた)(交通労働組合本部発表の電気局に対する要求案は次の如くである)

一、監代、乗務員の待遇を区別することなく公平、平等を期する事

二、八時間制の実施

三、最低日給八十銭

四、月手当二十六円以上

五、但一時間居残りは二割増し、二時間以上は五割増とし四時間以上に亘るを得ず

(市電当局は強硬な態度「解決の第一手段は先づ煽動者の一掃、警視庁と協力、百十余名の従業員の検束」弐六日は監督、監督代理によっ百数十台を運転した。(新聞報道は罷業を非難攻撃)二十七日、運転車台数は二百七十台となり、運転線もやや延長された。「S.M.U.」の杉原正夫は収監中の交通組合理事中西伊之助君に面会し続いて井上電気局長に面会して調停を試みんとしたが、遂に拒絶された。

(弐八日、友愛会本部に集合、罷業員を応援)

(罷業は刻々切崩された、三十日は早朝から平常通り運転、入獄者八十三名、馘首者約二百名)

★六号が発行された時点では杉原正夫が交通労働組合の新理事長となっている。罷業報告記事も杉原が筆者。亀田註

六面《メエ・デエの記》(日本最初のメエ・デエ、五月二日、上野に開催)、十二面大杉栄……■翌日の昼東京に出た、玄関から門を出て真っ直ぐ停車場へ行った。誰もお供が来ていない。■其晩は日比谷の服部の家で泊った。そして翌日、即ちメーデーの当日、服部と一緒に上野へ行こうとする所を日比谷署の視察共にちょっと署までと云われて、上野の会の済むまで其処に検束されて了った。■夜、鎌倉に帰ると、一四頁《広告》『一革命家の思出』が、先月の二十日に出た■この五月の下旬、僕と伊藤野枝の共著、小説集『乞食の名誉』が出版された第二次『労働運動』創刊

一九二一年一月二九日

週刊『労働運動』一号、

一面《日本の運命》大杉栄

一 (極東の政治状況)………………

二 ロシアから各国が手を引いた現状

の日本人は今目ざめつゝある。

五 二行活字潰し………七行活字潰し………僕等の態度は『其時』になつてきめていゝ。けれども、今から心がけてゐなければならない事だ。労働者は、一切の社会的出来事に対して、労働者自身の判断、労働者自身の常識を養へ。そして其常識を具体化する威力を得んが為の、十分なる団体的組織を持て。労働者の将来は、たゞ労働者自身の、此の力の程度如何んに係る。

「週刊『労働運動』は此の準備のために生まれる」英文一月二三日 住所労働運動社 神田北甲賀町一二、《同志諸君に》労働運動社同人近藤憲二、大杉栄、中村還一、和田久太郎、高津正道、伊井敬、竹内一郎、寺田鼎、岩佐作太郎、久板卯之助《病室から》僕ひとりここに引越して来た、露国興信所、実はロシアの下宿屋だ。麹町区有楽町三の一露国興信所内 大杉栄、三面「韓国労働運動の左傾」山川均

六面《本年度の計画希望及び予想》

交通労働組合・中西伊之助「昨年、罷業解決の時の公約が、未だ履行されてゐない矢先き、世間に失業者が殖えるに従って、従業員の賃金が却って低下する。その不平がいつ発するか。今日までの労働組合が、非常な努力と、多大の犠牲を払って、実に僅かづゝ積み上げて来た労働条件が、一吹きの小景気風で崩れ落ちて了った悲哀を、今、我々は味はされてゐる。此処に、与えられた暗示がある。そして、此処に、本年の労働運動の進路が展開される。僕等は、罷業以来、沈滞してゐる組合の挽回運動を起すに当って、今後の組合の運動が、労働運動の根本精神を自覚した同志──理想に生き熱情に動かされた人達の運動にあらねばならぬことを思ふ。少くとも、月二回以上の講演会を開くこと、広く全国的に宣伝運動を起すこと、等の希望を実現したい。(最後の三行活字潰しで判読できず)」

週刊『労働運動』八号 《退院します》鎌倉小町三月二八日大杉栄、

二面《光と闇》交通労働組合が二分して、新に全国交通運輸労働者同盟が出来、両者の間に内争が起つてゐる。次号で詳報しよう。

一九二一年四月二四日

週刊『労働運動』九号 駿河台から■大杉は一週間に一度位は社に来る、最終記事面に住所が記載される

《読者諸君から・誇大な見方だ》中西伊之助、第八号の記事への批判「下らぬ野心家の、出タラメな宣伝ばかりの材料では真相は判らぬ。全く現在は、労働者同志が内争する程の余力はない」

一九二一年五月一三日週刊『労働運動』一一号

一九二一年六月三日 同一五日附週刊新聞労働運動第六号に「青年に訴ふ」と題する記事を掲載せるを以て新聞紙法違反として取調中の処分新聞紙は単に内閲の為印刷せるに到り為め証拠不充分の理由に依り六月三日不起訴事処分に附せられたり

【資料】

「『赭土』の中西君」       堺利彦

『改造』一九二二年十月、四巻十号

 労働運動者としての中西伊之助君はまだ疑問の中に在る。社会主義者としての彼は一層の疑問である。只だ『赭土に芽ぐむもの』の著者としての彼は、あざやかに成功を示してゐる。…私は暫く彼と共に英文の社会主義書を読んだ事がある。(熱心である事だけは善くわかったが)それが果してどこまで進み得たかは、十分私にわからなかった。…兎かくする中、彼は労働運動をやりだした。交通労働組合理事長として彼の名が世間に知られて来た、其の運動の経過や、成功や、失敗については、私は其の委しい事を知らない。ただ其の成功が余りに早く、其の失敗が亦た余りに早かった事だけを記憶する。そして彼れの行動に対する善悪両様の批評を?々聞いた。否、卒直に云へば、可なり悪い批評の方を多く聞いた。私はそれに無理がないと思った。私自身が直接に彼から聞いた所だけから判断しても、彼には可なり術策が多かった、悪意の術策ではないにしても、労働運動者としての純真が足りないと感じられた点があった。

 然し彼は今、出獄の後に於ける新らしい勇気を以て、そして又、近く再び来るべき入獄の前に於ける感慨を以て、更に別個の労働運動をやっている、その労働運動がどんな経路を取っているか、どんな効果を示しているか、それはまだ私に分っていない。労働運動界には又いろいろ彼に対する批評が起っている。

 そこで要するに、労働運動者としての彼、社会主義者としての彼は、まだ疑問の中に在る私としては勿論、彼れの労働運動が純真なものになる事を切望しているが、それは総て将来の問題に属する。彼の此の次の入獄は、蓋し此の将来のを決定する為に、甚だ有力であるだろう。(私は直ぐに其の筆力に魅せられてしまった。「実にうまいもんだ? ── 私は?々ひとりごとの嘆息を発した、」)然し「赭土」はマズイどころの段ではない。寧ろウマすぎる。中西君にこういう文学的のタシナミがあろうとは、実際わたしの思いもかけない所であった。……私は固より、小説に対する私の批評眼を信ずるものではない。それで私は只、私に取っては「赭土」は「非常に面白い」という事だけを多くの人に語った。私の勧めに従って「赭土」を読んだ人は、大抵みな同じく「非常に面白い」と云った。文学批評について可なりの専門家もそれに承認を与えた。然し謂ゆる文壇は殆んど「赭土」を無視していた。

 けれども中西君、あまり早く「認められる」のは決して有りがたいものではない。永い「無視」と戦って遂にそれを征服する所に愉快がある、…(「不逞鮮人」に関して)

…「無視」の何んのと云ひながら、中西君はもう流行児になりかけているのかも知れない。少し早や過ぎる。自重が肝腎だ。

【資料】

「櫻花爛漫下の大ストライキ」中西伊之助  『改造』一九三〇年三月十二巻三号掲載

 だが、未だ何人も東京市内に二万の労働者を有し、全国に五十万の労働者を有して、しかも『公共事業』なるが故に他の産業労働者の如く賃金の値上げ、待遇の改善運動をなし得ざる虐げられた交通労働者の処女地を開拓しようとするものはなかった。…何とかして彼等に接近し、そして彼等に労働組合を組織せしめなればならぬと私は考えた。…大正八年の春は去り、夏は来た。私は幾度か市電青山出張所のあたりを徘徊した。けれど彼等に接近して組合を組織せよと説く手がかりを得なかった。

 八月下旬のある夜、私は恋人と逢曳をするような胸騒ぎを感じながら、本芝のある労働者の家に行った。…(しかし接触できたのは労資協調路線の労働者であった)

 市電青山出張所の佐々木専冶君に会つたのは、それから二週間ばかり後であった。…ある日、私は佐々木専冶君を説いて、階級闘争主義を奉ずる戦闘的労働組合を組織するように勧めた。秋は深くなった。麻布笄町の青山墓地下の私の家に、私はこの純真な一労働者と二人きりで、落葉の音をききながら、日本交通労働組合の揺籃を作る竹を削ったのである。…『大正八年九月三日午後五時、東京市外中渋谷宇多川、日本メソジスト教会講義所手塚六郎氏(従業員)方で、本組合の創立総会を挙げた。出席者三十五名、席上、当時時事新報記者中西伊之助氏を満場一致で組合理事に推した所、同氏は固辞されたが従業員の懇請と熱烈さに遂に承諾され、次いで「宣言」「綱領」「組合規約」を議決し、之を社会に公表することゝなった。

(八日午後五時第二回役員会)(同月十一日、本所支部発会式、「労働組合の話」中西伊之助「賃金基金説と同盟罷工」東京市長田尻稲次郎)

以下は引用略

(一九三〇年二月六日の雪の朝、第二回普選総選挙戦に狂暴なる弾圧と戦いつゝ稿)

一九二一年六月二五日、週刊『労働運動』一三号、一面掲載の英文要約が無くなる 北甲賀町、二面《どうするか》渡辺政之輔

一九二二年九月十日『労働運動』第七号

《中西君の行動》

相扶会 小野源之助「玉川電車罷業に関して中西君の採った態度」

③中西伊之助と中浜哲(アナキスト

詩人・ギロチン社メンバー)、非親和的な関係(『文芸戦線』における応酬)、中浜は信濃川事件の現地調査にも行く
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by pugan | 2011-05-13 17:08