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by pugan

金子文子と中西伊之助7-3

④中西伊之助と金子文子、朴烈

A 運動紙への文章掲載

二人との出会いが「いつ」かと、推測をすれば遅い時期としては『黒濤』の創刊の頃、一九二二年七月一〇日から二号発行の八月の始めであろう。クロニクルにも記したが中西伊之助は二号二面に「一本の蝋燭」という創作を掲載している。以降続編の掲載は無い。同じ号の三面には名刺広告も掲載されている。「『赭土に芽ぐむもの』著者、中西伊之助 東京府下中渋谷六九四」

朴烈の動向を確認しておきたい。

一九一九年、一〇月に東京に移り新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫と仕事を続ける。

一九二〇年中頃に血挙団を組織する 

一九二一年一〇月 義挙団に加入

一九二一年一〇月 本郷駒込で友達と間借り生活

⑤中西伊之助と金子文子・朴烈を結

びつけたキー・パーソン、集りは?

朝鮮での新聞記者体験、朝鮮を舞台にした小説の発表、売文社での交友を通じてのつながり 

A 岩佐作太郎の可能性を検討する

 ここまで、中西伊之助の不在の「場」も含めて一九一九年から二二年のアナキストたち、また堺利彦の周辺の人脈を当時の運動紙誌から挙げてきた。堺の人脈と朴烈のそれと重なるのは岩佐作太郎、近藤憲二である。

一九二一年一一月 黒濤会、結成

一一月二九日 岩佐作太郎方で「エスペラント研究会」が開かれる。杉本貞一・聴取書、(一九二四年五月八日、東京地裁検事局石田基、漢数字は聴取書記載の番号)(二九日以前の動向。一一、演説会、朴烈検束、一二、その晩、麹町の岩佐宅「露国飢饉救済基金募集の相談会」二、三十名が集る、近藤憲二以外は名を知らぬ)一三、其翌々日岩佐方にエスペラント研究会があると云ふので柴田方と共に出向く、警官が来て柴田の講義を阻止したので空しく帰る

一九二一年一二月四日 岩佐作太郎方で忘年会が開かれる。《杉本貞一・聴取書一四》同年十二月四日頃岩佐方忘年会、堺の娘外二、三の婦人だけ、だんだん集って三十名くらい、和田久太郎、近藤憲二、木村(朴烈)、服部、原沢等が来ました。

黒濤会結成に関しては月日を特定した文献は残されていない。金廣烈の論文『一九二〇年代初期日本における朝鮮人社会運動──黒濤会を中心に──』では《一九二一年十一月二九日、朝鮮人活動家たちは日本人アナキスト岩佐作太郎の家で「エスペラント講習会」という名目で集る、監視の警官に労働問題を論じたという理由で解散させられる。この日の集りは朝鮮人による思想団体・黒濤会を結成しようとしたものであるが、警察はただの「エスペラント講習会」であったと認識したようである》と確定させている。根拠は後年にまとめられた官憲の文献である。《警保局内部資料二五年十二月の『在京朝鮮留学生概況』で初めて黒濤会の結成事実について記録》と金廣烈は記述。しかし官憲資料だけで傍証がない。

すでに引用したように金子文子・朴烈の予審における杉本「証人訊問調書」でも「エスペラント講習会」が開かれたことが証言されている。しかし黒濤会には全く触れていない。朴烈の予審であるから予審判事は真先に黒濤会の動向を追及している可能性はあるだろう。しかし「調書」には黒濤会の名が出されていない。組織としての集りではなく、個々の朝鮮人社会主義者の参加だったのではないか。

杉本貞一は一九二四年五月九日の証人訊問調書(予審判事立松懐清)で《朴烈からの爆弾入手の依頼、出合いの経過》を述べている。

以下要約をすると「一九二一年一一月末か一二上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武富を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での労働問題に関する演説依頼をする。 一二月上旬か四日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると《夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい》(杉本は後に出鱈目とこの供述を翻す)「英国皇太子が日本に来るその際爆弾を使用すれば革命が起こす事が出来るよい機会」「(東京に)十日間滞在している間に朴烈、原沢、岩佐作太郎、近藤憲二を知る様に為つた」「朝鮮基督教会館の演説会は朴烈が検束され閉会」

 焦点はアナキスト岩佐作太郎の存在である。

二一年末には朴烈と岩佐作太郎は面識を得ている。(ただし杉本証言以外では関連する記述がない)。岩佐は堺利彦の売文社へ出入りをしていた。そこで岩佐と中西伊之助は出会っている可能性はある。

二二年以降の朴烈の主な活動

一九二二年一月四日 一一名の連名で『朝鮮日報』紙一月四日号に「同友会宣言」を発表

一九二二年二月『赭土に芽ぐむもの』刊行

一九二二年四月 淀橋署に一六日間検束。[英国皇太子来訪のため予防拘束]中浜は皇太子の訪問地を移動。

一九二二年四-五月 金子文子と同棲、

一九二二年七月一〇日『黒濤』創刊

一九二二年八月一〇日 『黒濤』第二号                 

中西伊之助の寄稿

一九二二年八月 信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加、中浜哲も現地調査。

一九二二年八月頃 新潟現地調査に赴く。[新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か]

一九二二年九月 中西伊之助「不逞鮮人」(短編小説)『改造』誌四巻九号に発表

一九二二年九月七日 調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告

一九二二年 ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席

一九二二年一〇月二日  大島製鋼争議支援

一九二二年一一月 黒濤会分裂は決定的になる。黒友会の成立。「日本における鮮人労働運動黒友会」申煖波(『労働運動』一〇号、二三年一月一日)

一九二二年一一月七日頃『太い鮮人』第一号発行 枠外に「フテイ鮮人」と記載「破れ障子から」金子文子、朴烈『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

一九二二年一二月一九日 頃『太い鮮人』第二号発行「所謂不逞鮮人とは」朴文子

岩佐作太郎の消息にも触れておく。『労働運動』一九二二年十一月一日発行号では《個人団体消息》に「岩佐作太郎君、新聞紙法違反禁錮四ヶ月の刑を終へ九月二十七日東京監獄を出た。目下郷里へ帰省中」と記述。

また金子文子、朴烈と交流があるアナキストも「軍隊宣伝事件で東京監獄に収監され予審中であつた大串孝之助、平瀬権次、飯田徳太郎、石田正冶、後藤謙太郎、茂野藤吉、吉田早苗の諸君は、十月十七日から二十六日迄に掛けて、全部責付で出獄した。」と消息が記載。

B 二二年九月七日、信濃川事件(近年の地元研究者は「中津川事件」と呼称)現地報告集会、「信濃川事件」報道後の出会いの可能性は? 

朴烈、中浜哲も八月に現地調査に赴く、中西による言及、集会参加の記録は無い。

一九二二年の夏も注目される。七月に『黒濤』が創刊され八月発行の第二号には中西伊之助の寄稿が早くも掲載されている。そして信濃川事件も発覚している。『黒濤』創刊号を見てから中西伊之助は金子文子、朴烈たちに連絡をとった可能性も排除できない。

信濃川事件は一九二二年八月、読売新聞が最初に報道した。「信濃川に朝鮮人労働者の死体、何体か流れつく」と刺激的な見出しであった。当時「信濃川朝鮮人虐殺事件」と呼ばれた事件の発覚であった。実際に死体が発見されたのは上流の中津川であり穴藤の発電所を建設中の労働者であった。

この事件の真相解明の動きに関しては日本人の社会主義者で朝鮮への関りが薄くても参加している。中西伊之助が言及していてもおかしくは無いが、残された文献では確認はできていない。事件発覚後『東亜日報』は記者を新潟現地に特派し水力発電所建設現場の穴藤(けっとう)地区を中心に朝鮮人労働者への虐待、虐殺の調査と取材をもとに連載記事を掲載した。

中浜哲は『労働運動』第七号一九二二年九月十日発行号に現地報告を掲載している。

「信越の監獄部屋から」自由労働者同盟濱鐡

 実地調査した『信濃川虐殺事件』の真相を送る。信濃川(千曲川)の支流たる中津川の下流、信州切明から越後大割野に至る信越の国境八里余りの間。これが信越電力会社を経営する大工事なのだ。千曲川に呑まれる下流の大割野に第二発電所あり、それを遡る二里の下穴藤に第一発電所がある。…監獄部屋を作るには絶好の箇所だ。…日本土木株式会社(即ち大倉組)が、大割野、前倉間。大請負師大林組が前倉、切明間を請負ってゐる。更にその又下に沢山の頭連があって、総数二十余りの飯場小屋をおッ建てゝゐる。その奴隷供給地は、主として不景気でアブレてゐる九州、朝鮮だ。近傍の信越の地方だ。失業者、自由労働者、小作人などの群れが、百人、二百人とまとめて貨物同様に部屋へ連れ込まれて来るんだ。…」

 朝鮮人虐待の全ては大蔵組の大頭目によって引き起されたと『東亜日報』の記者は報告している。そして九月七日の前日に演説会の開催記事が掲載される。

〈新潟県虐待事件と反響、空前の大演説会、朝鮮人と日本人の連合で七日東京で演説会開催、東京から特派員 李相協〉「…七日午後七時から、神田美土代町の青年会館で大演説会を開くことを決定した。…すでに決定した演士は次のとおりである。△朝鮮人側…朴烈△日本人側 …憲政会代議士・山道襄一、革新倶楽部代議士・中野正剛、堺利彦、大杉栄、中濱鐡、小牧近江、松本淳三 朝鮮側主催でこれほど大規模な演説会が開催された前例はない。それだけに世間の熱い注目をあつめてり、警戒は今からすでに非常に厳重である。」一九二二年九月六日『東亜日報』

この事件の参考文献としては『新潟近代史研究』第三号八二年「中津川水力発電所における朝鮮人労働者虐待・虐殺事件、東亜日報掲載の資料紹介」張明秀。『在日朝鮮人史研究』「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」佐藤泰治、八五年がある。

『亜細亜公論』という雑誌が事件に対する感想をハガキでのアンケートにより回答を求め

掲載している。社会主義者や朝鮮にゆかりのある文化人の回答が掲載されている。しかし朝鮮を舞台にした小説を刊行しながらも中西の文は掲載されていない。

三 中西伊之助の立場 

① 死刑制度への批判(朝鮮の監獄での囚人の見聞、著作での死刑囚の描写)

② 朝鮮へのまなざし(自らの朝鮮体験、朝鮮観『改造』、朝鮮の社会運動概況)

③東京市内における住居の変遷、研

究会MLにて会員諸氏からの教示による、渋谷・新宿を中心として東京市、郡部を時計回りに移る

A 一九年から二二年 麻布区笄町(こうがいちょう)労働運動関連の事務所か住居か、

余話として参考、十年後、小林多喜二が最後のアジトとした周辺

B 二三年 代々木山谷、不逞社との距離は一Km程度の近さ。

C 二四年以降 淀橋町柏木

参考、江口渙も二四年に幡ヶ谷に移る十分程度の距離

柏木から市ヶ谷刑務所までは徒歩二十分から二十五分
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by pugan | 2011-05-10 17:09