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by pugan

金子文子「訊問調書」 部分 其の一

金子文子訊問調書 部分

調書(大正十二年十月二十五日東京地方裁判所)   金子 文子

(元本 冒頭略)

一問 氏名、年齢、族称、職業、住所、本籍及出生地は如何。

答 氏名は金子文子。年齢は戸籍面では二十二歳でありますが本当は二十歳であります。族称は平民。職業は人参行商。

朴烈の妻か。

入籍して居るか。

何時朴と一緒に為ったか。

昨年五月中より朴と同棲して居ります。

虚無主義です。

不逞社に加入して居るか。

本年四月中私と朴とが相談して不逞社を組織しました。

不逞社の仲間は誰か。

第二回被告人訊問調書(大正十三年一月十七日東京地方裁判所)

虚無主義の思想

家族関係「私には其の様に両親もあり弟妹もあり乍ら、私は両親か捨てられ姉弟離散して仕舞って家庭の味を知りませぬ。無籍者で生れたと云ふので社会制度の欠陥あり、私は社会から圧迫を受けました。私は親の愛を疑ひ社会を呪はずに居られませぬ」

「幼い頭の私に今でも其の様に其印象が明に残って居る程父は酷しく母を虐めた上私等親子三人を捨てて仕舞ひました。私は父の愛を疑はずには居られませぬ」

家庭環境、母親の同棲相手から虐待、「無籍者であると云うので、学齢に達しても小学校に入学する事が出来ませぬでした。」校長に嘆願

父親、伯母(文子の母親の妹)と同棲

「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」

九歳の秋に朝鮮に送られる、

「朝鮮でも私は非常に無理解な待遇を受けました」

12行だけの記述

6歳の春母の郷里山梨に返される

父親の対応、実の叔父と結婚させようとした

大正九年四月私の十七歳の時に上京

苦学を始めた、大叔父窪田方、新聞売捌き店、昼間、正則英語学校

本郷区湯島に間借り、粉石鹸の夜店、浅草区聖天町、砂糖屋に女中奉公

本郷区追分町社会主義者堀清俊方に同居、印刷屋の活字拾いをして苦闘

「其の間私は母の郷里にも父方にも一二度出入りしましたが、当時私が堺利彦氏の著書や社会主義の雑誌を読んで居りましたので、父母は夫れを見て漸時私が社会主義的傾向を持つ事を怖れて居る模様でありました。大正十一年三月頃私は無資産にして無名の一鮮人朴烈と相知り、同人と同棲仕様と決心しましたので、私は父に対しては口上で母に対しては手紙で其の旨を宣言しました。父は面と向かって賛意を表しませぬでしたが、同年五月私が朴烈と同棲してから父から私に宛て、苟くも太政大臣藤原房前卿の第百何十代やらの後裔を生んだ私が卑しい鮮人と同棲すると云ふ事は光輝ある佐伯家の家系を汚す者である、今日限り勘当するから親ありと思うなと云う旨の手紙が来ました。私は捨てられた父から勘当を受けたのであります。」

父親の愛の移動

「父の心の空虚を補ふ間のみ所謂子供に対する愛が動いたのでありました。」

「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」

父親の元栄への批判の勝手

父親への批判、母親への批判、

「強者への屈従の約束が所謂道徳であります。」

「此の道徳が各時代を支配し各社会を構成して居ります。左様して支配者は何時も此の道徳をより長く保つ事を第一義的条件として居ります。」

「従って私は父を母を恨みませぬ。」

「此の呪を何処に持って行くか、自然を呪ひ生物を呪って私は総ての物を破壊して自分は死なうと思ひます。私が親族的関係を中心として虚無的思想を抱く様に為った一端は今迄申し上げた通りであります。」

  第3回1924年1月22日

一問 虚無的主義を抱く様に為ったと云う次第は什うか。

「社会制度の欠缺(けん、こん)による侮辱の総てでありました。

社会制度の欠缺は私が無籍であったと云う事に依って私が社会から受けた待遇が一端として十二分に証明して居ります。前回申上げました通り私は幼児無籍でありました。つまり私は日本の土地の御厄介に成り乍ら日本の人間でも無く何処の国の人間でも無く私の籍は天国に在ったが為め、私は日本の人間で無いのに拘らず、日本の制度から精神的にも堪え得られない虐待を受けました。」

無籍と法律

東京での生活、上野三橋に立って毎晩夕刊を売りましたが、

三箇の思想団体、仏教済世軍、キリスト救世軍の一団、血を吐く様な悲鳴を挙げる長髪の社会主義者の一団であり…

堀清俊方の話、九津見房子への幻滅

二問 それでは被告の所謂虚無主義とはどう云ふ思想か。

三問 日本の国家社会制度に対する被告の考え方

第一階級は皇族であり

第二は大臣、其の他政治の実権者であり、

第三階級は一般民衆であります。

第一階級たる皇族を丁度 摂政宮殿下は何時何分に御出門と云う様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思います。

「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年11月6日の欄に私は次の様な事を書きました。

<人間の命なんて権力の前には手毬の様に他愛なく扱われて居る。御役人方遂々私を監獄に投り込みましたね。だがね悪い事は言いませぬよ。今度の事件を具体化した様な未然に防ごうと御思召なら此の際です私を殺して仕舞はなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても再び私を社会に出したなら、必ず必ず遣り直して御目に懸けますよ。貴方方の御手を煩わす世話の無い様に先ず私の此の身体を亡して御目に懸けますよ。まあまあ私の此の身体を何処へなりと持っていらっしゃい。断頭台へでも八王子へでも。どうせ一度は死ぬ身体です。勝手に為さるがいい 君等が私を左様する事は飽く迄も自分に生きたと云う事を証明して呉れる丈けです。私はそれで満足します。>」

「御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しましょう。<私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽くまで自分の裡に終始します。それが御気に召さなかったら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです>

四問 其の思想を抱いてから朴烈と知ったのか

答 左様であります。私は朴を知って後互に思想を語り合って共鳴したので、同人と運動を共にするが為め同棲する様に為ったのであります。」

第4回被告人訊問調書               1924年1月23日

「大正11年2月頃朴烈を知り、其後同年4月末頃東京府荏原郡世田谷池尻412番地相川下駄店の二階を間借りして朴と同棲を初め、大正12年3月頃私等は同府豊多摩郡代幡町代々木富ヶ谷1474番地に移転して居住中検挙されたのであります」

<朴と知り合った状況>校正刷り「青年朝鮮」朴烈の詩「犬コロ」力強い叛逆気分が漲って居る事を感じて、初めて朴烈と云う人の名を知り、其の印象を受けました処程無くして鄭方にて朴に会い、交際するようになった。

<朴との結婚の経緯>

「主義に於ても性に於ても同志であり協力者として一緒に為ったのであります。」

<朴の思想>

「私は大正8年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」

第5回訊問調書1923年1月24日

一問 「被告は朴と同棲の前後主義上の会を組織し、又は雑誌を発行した事等があるか。」

「左様であります。私が朴と知り合った以前大正十年秋頃とか朴は元鐘麟、徐相一、申焔波等各種の鮮人主義者を糾合して≪黒濤会≫と云ふ名称の思想研究会を組織し『黒濤』と題する機関雑誌を発行して居りました。此の会は私が朴と一緒に為ってから後も尚継続して居りましたから、私も此れに加入しましたが、大正十一年九月頃共産主義者派の会員と無政府主義派の会員との思想上の衝突から分裂して、無政府主義側は≪黒友会≫を、共産主義側は≪北星会≫を組織しました。」

<黒濤会が組織されていた、分裂、黒友会の設立、『民衆運動』朝鮮文で発行>

<大正11年11月頃『太い鮮人』発行、不逞鮮人は許可されず>

「……無政府主義者として会員は会員の自由意志を羈束する様な事をしませぬ。此の主義を理解し共鳴する会員の有志は主義として権力に反抗し之を破壊せんとするものでありますから、其の有志の間には直接行動を執る事を相談した事もありました」

第6回訊問調書1924年1月25日

問「朴烈は金重漢に対して爆弾の入手を頼んだ事があるか」

答「あります。私と朴の思想や意図する処は前回以来申し上げました通りであります。私も岩崎おでん屋に居た頃帝国議会に爆弾を投げ込んで有象無象を殺してやろうと考えて、岩崎おでん屋に来る政治ごろに帝国議会の内部の模様を色々詳しく聞いた事もありました。朴も私と同棲する以前から其の様な事を計画して居たそうであります。私と朴とは同棲するに際して互いに以前の秘密を告白し合いました。それ故私と朴との間に秘密はありませぬ。………私と朴とは同棲する以前日比谷公園や神保町の支那料理屋に会合して。左様した復讐の<シーン>(光景)を語り合った事も居りました。それ程ですから私と朴とはそこに共鳴して同棲することを決意し、同棲後始終その様な計画の相談をして居りました。大正12年1月頃私と朴と相談の上朴は金に上海から爆弾を手に入れて来てくれる様に頼んだのでありました。………」

「私と朴との同棲の第一条件が其処にありましたから、私等は始終其の相談をして居りました。」

「………有栖川だと記憶しますが……半病人だと云う事が書いて在るのを見て、朴は半死の奴なんか後ろから突いても突き甲斐が無い、面白くないから突き甲斐のある奴にしたいと云いました」

「それで私は一人ばかりではつまらぬ、もっと一緒くたにせねばつまらぬと云った事もありました」

<爆弾入手の経緯><暗号の手紙><桃色の日本封書><爆弾入手依頼を船員にした>

第7回訊問調書1924年1月25日 

[爆弾入手問題をめぐる新山初代、金重漢との経緯]

[新山、金子の微妙な関係]

<爆弾入手の次第><昨年1月中、金重漢を紹介される><黒濤会の李康夏から>

「昨年四月二十六日に金が其の入学して居た学校を退学して上京したと申して私方を訪ねて参りました」

<同年5月頃金に爆弾を上海から同年秋迄に入手依頼><発覚の恐れがあることを懸念>「先達日記の内容を申し上げました通り、朴でも私でも今に爆弾を入手し使用する事の考えを思い止まって居りませぬが、金は真実朴が其の意思を無くしてそれを依頼し愚奔したものと誤解して、不逞社の第四回例会の際朴に喧嘩を吹っ掛けて来たのであります。」

<大正10年冬頃新山初代との面識>

<昨年5頃再び新山と往復する、不逞社への加入>

「昨年6月頃金と新山とが『自擅』と題する雑誌の発行を企て……又、新山が朴に対して思想上行詰まって死なうと思って居ると云った時朴は新山にどうせ死ぬなら自分は今年の秋死なうと思って居るからもっと有意義に死んではどうかと申した………」

「私は政策上私と朴とが爆弾を手に入れる様計画して居る事を新山に秘し、朴一人が夫れを計画して居て私は夫れに関係して居らぬ振りをする為め左様か夫れなら朴が新山の心を引いて見たに過ぎない、朴を理解して呉れたなら朴が其の様な男で無い事が判ると云ふ意味の事を答へて置きました。」

<朴と金との喧嘩>

<(朴は)新山への私達の計画を言わぬ方がよいと……>

三問 上海の何処から爆弾を手に入れて来るのか。

答 其の事は私は知りませぬ。

第8回訊問調書1924年1月29日

<身体の事>

第9回訊問調書1924年3月19日

<爆発物取締罰則違反、追起訴>

<大正13年2月15日、爆発物取締罰則違反被告事件の追予審請求書中起訴事実を読聞けたり>

<金某李某との爆弾入手関係>

「…一層の事爆弾の事を自分が認めて置いて警視庁の連中の注意を自分に向けさせ、新山に向ける鉾を外せ様と決心して爆弾の事を是認し、其の関係丈けをお係り様に申上げて仕舞ったのであります」

「齟齬を来たして仕舞ひました」

「暗号の手紙の相手方は義烈団の金翰と云う人であり、其の手紙を取次で呉れた者は李小紅と云う官妓であったのであります」<昨年4,5月頃朝鮮の官憲に補縛されて、金翰は服役中><補縛されたので私等の計画が頓挫したのであります><李小紅は京城茶屋町の百八番地に住んで官妓をして居ります><義烈団との関係>

第10回2月31日

<金翰との折衝の次第>

「朴は無口の上に細かい事に頓着せぬ人でありますから、つまらぬ余計な事を私に喋らぬ風でありました。…

二問 暗号書の内容

「爆弾の事には触れて居なかった筈だと記憶します。」
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by pugan | 2011-06-14 17:49