2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

金子文子・市ヶ谷刑務所

[刑務所跡]

新宿駅から、厚生年金会館の先で左折、富久町から余丁町を迷いながら暑い七月の路地を30分近く彷徨した。韓国からの来訪者が金子文子と朴烈が囚われていた市ヶ谷刑務所跡地を訪ねたいということで案内した。案内人の私も初めてだが文献で大まかに見当はつけていた。「東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれて一九〇五年五月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……一九二二年一〇月一三日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれるようになった」一九六七年に森長英三郎さんが日弁連有志に刑死者の慰霊塔建立を呼びかけた。その経緯と監獄の変遷は『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』(小冊子)に詳しい。日弁連有志に働きかけ跡地の町会の人たちから協力を得「死刑囚の慰霊碑」を建てた。それがなければ東京監獄、市ヶ谷刑務所の跡地は確認できても構内施設の位置関係を把握するのは困難であった。案内する少し前、七月二三日、「大逆犯」とされた金子文子が「自死」したという日に最後の地である宇都宮刑務所栃木支所跡を私一人で訪ねた。東京からから二時間余り、幾つかの路線を継いで栃木駅に着く。跡地は栃木市の図書館と文化会館に変わっていた。その市立図書館で関連資料の調査を依頼すると正門と連なる官舎の写真しかなく二、三十年前の栃木市内の地図すらなかった。驚いたのは、移転したのは二三年前の一九八〇年であるが、それまでは文子が居た当時の「明治」末に建設された木造二階建て舎房を使用していたという。文化会館敷地を散歩中の方に刑務所の位置関係を尋ねてみた。その方から詳しく舎房の建物の位置を示してもらえた。出会いがなければ刑務所の遺物も跡地の碑も一切無かったので漠然としか想起出来ないまま、離れざるを得なかった。市民の憩いの場として樹々も新たに移植され、刑務所跡を人々の記憶から消そうとした行政の思惑は露骨であるが、その住民は懐かしさを込めエピソードも語ってくれた。

参考 <1926年4月の初めに市ヶ谷刑務所から移された金子文子>

 書物の所持を制限され労役で筆記の時間も無く自らの境遇か他の囚人への扱いなのか看守に抗し 歌を残す「手足まで不自由なりとも 死ぬといふ、只意志あらば 死は自由なり」「さりながら手足からげて 尚死なば そは<俺達の過失ではない>」「殺しつつなほ責任をのがれんと もがく姿ぞ 惨めなるかな」「皮手錠、はた暗室に飯の虫 只の一つも 嘘は書かねど」「在ることを只在るがままに書きぬるを グズグズぬかす 獄の役人」
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by pugan | 2010-06-25 07:48