2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

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金子文子の生き方・ウェブサイト版2003年7月

「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。

人間は人間として平等であらねば為りませぬ。

其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。

地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば

総べての人間は完全に平等であり、

従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って

人間としての生活の権利を完全に

且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある

又為されるであろう処の行動の総べては、

完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

……此の心持つまり皇室階級とし聞けば、

其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に

連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて

居るのでありましょう。

語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の

民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。  

 

 元々国家とか社会とか民族とか

又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。

処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが

為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に

現在行われて居る処の神授君権説であります。

苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら

此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、

或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、

若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、

従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を

愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した

伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を

神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に

一般民衆を欺瞞して居る。  

 
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 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る

憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、

若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が

此の神様の保護の下歴代の神様たる

天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、

戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、

日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、

神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに

何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。  

 

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、

即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、

之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに

明白に証明して居るではありませぬか。

全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の

天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、

其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に

泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに

死んで行くではありませぬか。

此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、

所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を

証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。

御役人さん左様でしょう。……

 

 寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を

与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の

恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。  ……

 

 学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て

<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。

等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を

擁護するものであるか否かの一事を標準として

総ての是非を振り分けられて居る。

そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。

法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、

権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官は

サーベルを下げて人間の行動を威嚇し、

権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。

又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての

行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し

人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。 ……

 

 地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の

代表者は天皇であり皇太子であります。

私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから

出発して居るのであります。

地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の

代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、

彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして

侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって

搾取されて居る。

其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として

 

彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の

実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、

又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に

財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る

一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を

現に搾取されつつある一般民衆に明にし、

又それに依って天皇に神格を附与して居る

諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な

迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る

日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに

仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、

故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の

国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、

実は彼等が私利を貪る為めの方便として

美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに

他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に

過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は

即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、

そうして従来日本の人間の生きた信条として

居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、

現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への

隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる

幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に

自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、

従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に

為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に

 

私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

 

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって

地上に生を断とうと考えて居りました。

私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として

只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、

即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し

光明を持たせたものに過ぎないのであって、

取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、

私自身を対象とするそうした考えが

即ち今度の計画の根底であります。

私自身を対象とする考え、

私の所謂虚無思想に就いては

既に前回詳しく申し上げて置きました。

私の計画を突き詰めて考えて観れば、

消極的には私一己の生の否認であり、

積極的には地上に於ける権力の倒壊が

窮極の目的でありました。

私が坊ちゃんを狙ったのは

そうした理由であります。……

 

私は今後も為たい事をして行きます。

其の為たい事が何であるかを

今から予定する事は出来ませぬが、

兎に角私の生命が地上に在らん限りは

<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から

<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」  

第十二回予審訊問調書 
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by pugan | 2011-06-21 05:32

金子文子クロニクル

金子文子 クロニクル  2004年12月  

改定事項は「」内は『彷書月刊』金子文子特集号年譜、『金子文子 わたしはわたし自身を生きる 手記・歌・調書・年譜』鈴木裕子編のための年譜草稿

ウェブサイト版「金子文子の生き方」2003年から06年にアップ

1900 or 1901 文子の父、文一は鉱山師と知り合い諏訪村の円光寺に1年半ほど滞在、タングステン鉱の試掘に従事、文子の母きくの(24歳)と出会う。円光寺は金子家のすぐ北側
「佐伯文一は鉱山の仕事で滞在していた山梨県諏訪村(現山梨市牧丘町)で金子きくのと出会う。金子家は諏訪村の農家。」

1902年か03年頃、きくのは文一と横浜に出る

1903年1月25日 金子文子生まれる (出生は届けられていない。両親が別個に聴取された1925年8月の大逆罪、爆取罰則の予審証人調べで卯年、1月25日と述べている。なお1908年に母方の祖父の五女として戸籍に編入されているが生年は1902年とされている。両親以外の身内が記憶違いで届けたのであろうか)

 年は特定できないが、一家は磯子の海岸に移る。さらに横浜の街はずれに移る、田圃に囲まれていた、その冬に弟が生まれたとの記述が獄中手記にある、

「一九〇三年一月二五日 横浜で暮らす二人の間に文子が誕生。出生届けは出されず記録はない。(両親も結婚届けは出していない)。文一ときくのは一九二五年、立松判事から証人訊問を別々に聴取され記憶から卯年の一月二五日と共通した年月を述べる。(文子自身は後年まで一九〇四年生まれと思い込んでいた。一九一二年、祖父母の戸籍に入れるために身内が届け出た生年は一九〇二年)。文一は土方部屋事務や寿警察署の巡査に従事していた。」

1908、3、8 弟賢俊が生まれる

      
「一九〇七年頃 四歳の頃(手記)。横浜の寿町に住む。文一は若い女を家につれ込んだり廓に通う。文一の入院の間、文子はきくのの実家で半年間育てられ、この時期は幸福であったと回想。一家は磯子海岸から横浜の街はずれに移る。弟賢俊が生れる。」

1909年頃 叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れ父が商売で借りた氷屋で同居を始める。文子は「無籍」のため小学校に入学できなかったが母が頼み込み地域の小学校に無籍のまま通学。父は叔母と駆落ちする。

「一九〇八年から〇九年秋頃 文子の叔母(母の妹)たかのが山梨から病気治療のため横浜を訪れる。一家は横浜の久保山に移る。文一は氷屋の商売のため近くの住吉町に借りた店舗でたかのと同居を始め久保山の家に戻らなくなる。」

                 
1910年秋 文一が家を出て、母は小林ながよしと同棲後、小林の故郷山梨県丹波山村に移る、文子は一里離れた鴨沢小学校に通う


「一九一〇年頃 学齢に達しても無籍なので学校に行けず夏に「貧民街」の棟割長屋の「学校」に通い始める。短期で通えなくなる。秋に文一はたかのと示し合せきくのと文子たちから「逃げる」。きくのは鍛冶職工の中村という男から文子は猿轡をされ麻縄で縛られ川の上の木に吊るされるという虐待を受ける。弟は文一に引取られる。きくのが地域の小学校に頼み文子は無籍のまま通学できるようになる。中村が仕事を解雇されたのを機にきくのは別れる。きくのは郊外の製糸場や紡績工場に職を見つけ、じきに七、八つの年下の男と同棲を始める。その男小林は仕事をせず寝て遊んで暮らし、きくのも仕事を離れてしまう。」

1911、3 小学校終業式の数日後、きくのの実弟共冶がきくのと文子を迎えにくる、諏訪村(現山梨市牧丘町)に暮らす
「一九一一年頃 文子はきくのにより「芸妓や娼妓の世話をする人身売買業ともいうべき口入屋」(手記)に連れて行かれるが母が思いなおす。場末の木賃宿に移る。八歳(手記)の秋になり文子はきくのと共に小林の郷里である山梨県北都留郡の村の小袖集落に移る。文子は一里ほど離れた鴨沢の町の小学校尋常科に通う。」

「一九一二年頃 早春、妹の春子が生れる。きくのは終業式までに教員に何も送らなかったので文子は免状がもらえなかった。諏訪村(現山梨県山梨市牧丘町)の実家から叔父(母の弟)がきくのと文子を迎えにくる。春子は小林の家に残す。きくのは製糸場に稼ぎに出るがしばらくして塩山駅近くの雑貨店を営む家の後妻に入る。文子は諏訪村で祖父母、叔父一家と暮らす。」

1912、秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江にて同居している娘夫婦の養女としてもらい受けに来る、祖父金子富太郎の五女として入籍、ムツと朝鮮に向かう

「一九一二年秋 父方の祖母、佐伯ムツが朝鮮忠清北道芙江で同居している娘夫婦の岩下家の養女として文子を引取りに来る。佐伯ムツが無籍者や私生子を引取る訳に行かぬと主張、文子は母方の祖父母の五女として入籍させられる。(戸籍の届けは一〇月)その際、出生年は身内の記憶違いなのか一九〇二年生まれと届けられる。文子は村の小学校に通うが児童数は三〇人足らずで三年の組がなく四年に編入。修業証には岩下ふみ子と記される。」

「一九一三年頃 祖母から絵具の購入を拒否されたうえに「無籍者だった」と告げられ、精神的な虐待が始まる。五年時の通知簿は金子ふみ子に戻されていた。学校は公立になり高等科ができ進む。後に文子が獄中から手紙を寄せる服部先生が新任の教師としてくる。」


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駅前の案内図
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駅前からの景観、学校の裏山が望める

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現在の芙江の町(中心地は線路の南側)鉄道の北側、当時は日本人集落
2007年12月二度目の訪問


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家の間を縫う道筋は変化が無い

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家の門がまえ


1915年頃 文子、女中扱いをされ始める。  
「一九一五年頃 岩下一家から女中扱いをされ始め、祖母の手伝いの際に鍋を壊して弁償させられる。

一九一六年頃 正月、祖母から些細なことで体罰を受け氷点下の戸外に朝から夕方まで追いやられる。七月の始めに近所の日本人の「貧乏な家」の女の子と学校から一緒に帰っただけで籾倉に押込まれ休学させられる。服部先生は味方にはならなかった。九月の新学期から再び通う。」
  
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芙江の村を流れる錦江と文子が眺めた山     

1917年頃 文子は自殺を試みる。高等小学校を出る。卒業後の夏、岩下家の物置小屋の土間に住まわせられる。
「栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を体験。夏に家から追い出されたとき近所の朝鮮のおかみさんから親切にされ、朝鮮に住んだ七ヵ年を通じ初めて人間の愛というものに感動する。翌日も岩下一家から許しが出ず文子は行き場がなく自殺を試みる。」


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芙江 文子が生きる希望を懐いた栗の林がある学校の裏山 2008年7月30日 三度目の訪問

「一九一八年頃 一四歳の春、高等小学校を卒業するも岩下家は養女にする際の約束である、女子大学への進学への前提となる女学校に進ませず、夏には岩下家の物置小屋の土間に住まわす。」

「一九一九年四月一二日 山梨に還されることになり朝鮮を去る。佐伯ムツが同行する。二日後に塩山駅に到着。諏訪村の母の実家に着く。文子の満年齢は一六歳になっていた。」

1919、4、12 文子16歳で朝鮮を去る、14日塩山駅に着く、翌日諏訪村の母の実家に戻る。

1919年夏 父が叔母たかのと暮らす浜松に移るも東京での勉学希望を拒否され父の生活面での圧制がいやになる。        

1920年4月 東京に勉学のため出る。三ノ輪の親戚窪田亀太郎の家でひと月前後暮らす。降旗新聞捌売り店に住込み上野で新聞の捌売りを始める。女子医専入学を目標とし午前は正則英語学校、午後は研数学館に通う。

1920年夏 上野の新聞捌売りの場で演説に来ていたアナキストのグループから冊子を購入する。湯島に間借り露天商となる。

1920、8 浅草の砂糖屋の女中になり大晦日にやめる

1921 正月 社会主義者の印刷屋、堀清俊方に住みこむ、2月に出る、窪田の家に戻る

1921、11 窪田の家を出る、岩崎おでん屋の女給になる。(『手記』)あるいは同年半ばから(岩崎第一回証人訊問調書)、「岩崎おでん屋」は社会主義者が集まる日比谷の小料理屋。文子はそこに住込む。昼は働き、夜学に通い唯一の女性の友人であり同志となる新山初代を知る。新山からスティルナー、アルツィバーセフ、ニイチェを教えられアナキズム、ニヒリズムに関心が傾く。               

1921年2月頃 朴烈の力強い詩を知り、強く感動を受け朴烈と会うことを願望する。             

1922年3月5日か6日 朴烈が「岩崎おでん屋」を訪ねてくる。   

1922、4月か5月 金子文子、朴烈と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方2階 現在地世田谷区池尻2-31-15から17、

1922、7、10 『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412 黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生

1922、6、5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」
1922、8、10 『黒濤』第2号「此の態を見て呉れ」烈生 「思ったこと2つ3つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の2階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1922、11 黒濤会分裂

1922、11 黒友会を組織

1922、11、7頃  『太い鮮人』第1号 枠外に「フテイ鮮人」と記載「×××××取締法案」朴烈 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922、12、19 頃 『太い鮮人』第2号
「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈 「所謂不逞鮮人とは」朴文子「学者の戯言」烈生 「破れ障子から」文子
去4日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに15日許り寝込まれたのでスッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた「朝鮮の詐欺共産党」烈生 「朝鮮古代芸術を排す」烈生

1923、3  黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 

1923、3、15 『現社会』第3号 世田谷池尻412「××」烈生  註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」
「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子
1923、3   金子文子と朴烈、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。現渋谷区富ヶ谷1 NTT裏辺り 

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2011年6月21日 韓国テレビ局ドキュメント番組制作チームを案内


参考リンク 2010年4月29日『韓国日報』記者を案内

1923、4 不逞社を組織

1923、4 朴烈、東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘

1923、5、1 金子文子はメーデーに参加

1923、5、21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。本郷区駒込蓬莱町18、現文京区向丘2丁目、

1923、5、27  不逞社第1回例会、朝鮮の運動がテーマ

1923、6、10  不逞社第2回例会、望月桂を招く

1923、6、17  不逞社第3回例会、加藤一夫を招く

1923、6、28頃 不逞社第4回例会、中西伊之助出獄歓迎会

1923、6、30  『現社会』第4号 代々木富ヶ谷
「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈 「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈
「スッパ抜キ」バクレツ 「或る会話」金子ふみ 「破れ障子から」文、実は同志10名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された…………メーデーの日、私は他四、五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 府下代々木富ヶ谷1474 

現社会社 省線原宿、市電渋谷下車「名教中学」下
1923、7、15  不逞社第5回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る

1923、8、3  黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く

1923、8、10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 

1923、8、11  不逞社第6回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争

1923、8、29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   

1923、9、1  朴烈、午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問

1923、9、2 朴烈、四谷の布施弁護士を訪ねる
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by pugan | 2011-06-20 05:45

金子文子クロニクル 2

1923、9、3 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923、9  不逞社メンバー検挙され始める

1923、10、20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923、10、20 『大阪朝日』記事〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉

1923、10、25 金子第1回訊問調書

1923、10、27 新山初代供述を始める

1923、11、27 新山初代、危篤状態で獄外に出されるも死去、谷中法蔵院に墓碑

1924、1、17 金子文子第2回訊問調書

1924、1、22 金子文子第3回訊問調書

1924、1、23 金子文子第4回訊問調書

1923、1、24 金子文子第5回訊問調書

1924、1、25  金子文子、第6回予審にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924、1、25 金子文子第7回訊問調書

1924、1、29 金子文子第8回訊問調書

1924、1、30  朴烈第3回予審訊問にて金子文子の供述を認める。「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924、2、15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924、3、19 金子文子第9回訊問調書

1924、3、31 金子文子10回訊問調書

1924、4、10 金子、第11回訊問調書

1924、5、14 金子、第12回訊問調書

1924、5、21 金子第13回訊問調書、市ヶ谷刑務所

1924、7、1 『東亜日報』記事「韓けん相は6、24に保釈出獄」「李小岩は1924、6、30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1925、5、4 金子、第15回予審訊問

1925、5、5 金子、第16回訊問調書

1925、5、9 金子、第17回訊問調書、

1925、5、9 金子、第18回訊問調書、

1925、5、21 金子、第19回訊問調書

1925、5、30 金子、第20回訊問調書

1925、6、6 金子、第23回訊問調書、

1925、7、7  予審終結決定

1925、7、17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925、7、18 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925、7、18 金子文子、朴烈第1回予審訊問

1925、8、2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925、8、22 朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925、8、29 金子文子第2回訊問調書

1925、9、2 金子文子第3回訊問調書

1925、9、20  朴烈テキスト〈刑務所消息 不逞の烙印〉『自我人』第2号掲載

1925、9、21 金子文子、第4回訊問調書、東京地方裁判所にて

1925、9、22 金子文子第5回訊問調書、立松懐清

1925、9、30 公判開始決定意見書

1925、10、12 検事総長小山、大審院第2特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925、10、28 大審院公判開始を決定

1925、11、11 接見禁止を解く

1925、11、12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925、11、14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925、11、17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925、11、20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925、11、21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925、11、25 布施弁護士、結婚届け三通差入署名捺印を求める

1925、11、25 朴烈、金子文子の記事解禁

1925、11、25 『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉写真〈大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟〉


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1925、11、25 『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画〉〈近く刑務所で正式の結婚〉〈自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈〉

『京城日報』1925.11.25
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『日出新聞』1925.11.25
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1925、11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会

1925、12、3朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925、12、6 『東亜日報』記事〈正式結婚、手続き〉

1925、12、7 『東亜日報』記事〈結婚に関して〉

1925、12、11 『朝鮮日報』記事〈獄中結婚は風説〉

1925、12、14 『東亜日報』記事〈書面上の結婚だけだろう〉

1926、1  「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926、1、19 『朝鮮日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、1、20 『東亜日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、2、26  第1回公判、人定質問

1926、2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援

1926、2、26  第一回公判、文子はその夜手記「二十六日夜半」執筆
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1926、2、27  第2回公判、金子文子手記朗読か、検事論告死刑求刑

1926、2、28  第3回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926、3、1  第4回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった

1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 

■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。

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1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決

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1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑

1926、7、23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。


1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文

1926.7.30  『朝日新聞』「自殺」報道
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1926、7、31 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている

刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子は山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。--文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう
1926.7.31 

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金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された
31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)


1926.8.2  大阪朝日新聞

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1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
1926.8.30

文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》■獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目■死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

1926.11.4

<金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで>「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』

1926、11、5

「金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の2名であった。」  『京城日報』 1926.11.7 夕刊

1926.12.13

訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし
日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』


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by pugan | 2011-06-19 06:04

金子文子クロニクル3

関連文献、関連企画

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1963.3-4  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1972.6.30 『余白の春』瀬戸内晴美著

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

1973.9.1  『朴烈』金勉一著、合同出版

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

1976.3.20  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

1977    『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会黒色戦線社<手書きのまま複製>

1981.6.22 栗原一男死去

1987.7  『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

1988    『続・現代史資料アナーキズム』小松隆2編、みすず書房<訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録>

1991.12.25 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社<本文は続・「現代史資料アナーキズム」の複製>

付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻、『連帯』誌<山梨での碑の除幕式報告掲載> 1976.4.15発行が刷り込まれている。

1996.12.5 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

1999.9.15 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

2002.7.23 「金子文子と布施辰治」シンポ開催、東京

2003.3   『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』韓国語版刊行 『朴烈・金子文子裁判記録』、

2003.10.7 韓国、ムンギョン市の朴烈義士・金子文子記念事業会メンバー、東京を訪問

 来訪した人たちは3人。朴烈、金子文子を記念するために朴烈の故郷であり金子文子の遺骨が眠っている、ムンギョンに記念の施設と2人の墓碑のための土地を確保し公園にする、金子文子、朴烈に関する史料、文献を集めたいという趣旨

新宿の小さなホテルで懇談、ホテルはたまたま朴烈と文子の2人が予審と大審院の間に囚われていた市ヶ谷刑務所の跡地に近い場所。

 翌8日、私も同行し山梨県塩山市牧丘町に向かう。金子文子の母親の故郷であり、文子も一年半余り暮らし、浜松からも夏休みには遊びに戻った思い出の地。事業会の方々は9日には関西に向かう。

7日の新宿での懇談は個人の立場で参加し、先方の要望をまず確認するという姿勢で臨む。

[懇談の場で「記念公園」の全体像の計画が示されました。現在の墓碑を何故移転させなければならないか、という説明もありました。日本円で6億円ほどの予算案、国からの補助も予定している。募金も集めている。初めて提示された計画の文中には、祠堂、義士、括弧で括られた金子文子の表現、韓国国家予算からの補助を想定していて、とまどいました東京で現段階、実際に協力できるのは、史料・文献、<多くは複写になると思いますが>の整理と「提供」ということです。韓国の事業会での収集済みの史料・文献リストはなく、今回の懇談の中でどの程度入手できるか初めて把握できたという段階ではないかと思います。具体的なこと、詳細は全く検討していないのですが、一般論でいえば史料・文献は「展示」用と「学習」するためと2つに分かれると思います。図書施設が併設されるかは不明]

参考

社団法人朴烈義士(金子文子)記念事業会資料調査委員 

慶北聞慶市麻城面

朴烈義士(金子文子)記念事業事業地区 慶尚北道聞慶市麻城面梧泉里198一帯

2001年8月 法人設立準備総会

2002年11月 記念事業基本計画書作成

2003年7月 朴烈生家文化財指定申請、現地調査完了

記念公園敷地確保 14,455㎡、4,300坪

記念館2,060㎡ 623坪 地上2階、地下1階 祠堂、塔、展望台、公園、生家復元、金子文子墓所展示面積804㎡事業期間2003年-2005年

予算案6億、国家補助4億、地方費補助2億、自体誠金2,000万円

10月8日 牧丘での交流、懇談会 11時半ごろから2時ごろ、金子こまえさん、佐藤信子さん、土屋要さん、土屋さんの知人の方

場所を変えて、土屋さんから山梨の状況説明。2時半から1時間ほど。



参考、私自身の韓国、金子文子への関わりを中心として

1999年、ムンギョン墓碑訪問、韓国訪問の目的は東アジア地域でのアナキズム運動史の文献調査のため初訪問。朝鮮半島、日本列島、中国大陸での朝鮮アナキストたちの活動を把握するため。国民文化研究所で懇談会。

2002年7月23日、金子文子追悼集会、山田昭次さんに問題提起を依頼、シンポ開催

2002年、運営するウェブサイトに全歌集を掲載

2002年11月、新山初代の墓碑と死亡日確認。森まゆみさんと『谷根千』スタッフの協力を得る。経緯は『谷根千』号に森まゆみさん執筆。

2002年12月「コスモス忌」(秋山清さん追悼の集まり)金子文子をテーマ、史料提供協力、森さん講師。

2003年1月、「金子文子を学ぶ会」発足

2003年4月26日、「女性・戦争・人権」学会プレ・フォーラム、山田昭次さん講演会を聴く。

2003年5月、代々幡町(現渋谷区富ヶ谷)、不逞社跡地確認

2003年7月23日、当時の栃木刑務所跡地追悼訪問

2003年7月下旬、韓国からの研究者を案内。2人来訪、それぞれ金子文子と伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。
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by pugan | 2011-06-18 06:05
二十六日夜半 金子文子、大審院への意見表明 2006.7.10
 
其の或る点とは他でもない。私が予審廷での自身の陳述の一部を今日公判廷で覆した箇所です。が其れに先立って云って置きたい事は、前に言った言葉も私自身の言葉であり、今云ふ言葉も私自身の言葉である。が而も其の二つの言葉は異って居る。だが其れは共に私自身の監視の下に私自身の自由意志をもって云はれる言葉であって、其処に今まで私を調べたお役人などの意志の強制などが加へられてない事を、弁護人諸氏の前に明らかにしときます。そして私自身は其の曰の消息を明らかにする事によって自分が他人の意志などに左右される意久地なしではない、私はちゃんと私自身の意志をもってるのだと云ふ事を宣言しときます。

18行未入力

 其処で私は今日申した通り自分が何主義だか何思想だか知らない。私が知って居る事は「自分は斯ふ思って居る」と云ふだけ。しかし若し此処までの私の考え方に便宜上ちょっと客観的に断定を下して置いて見るなら、私は多分個人主義的無政府主義者と呼んで差し支へなからうと思ひます。何となれば説明するまでもなく、国家と個人とは相容れない二つの存在である。国家の繁栄の為には個人は自分の意志をもってはならない。個人が自身に目覚める時、国家は倒れる。無論私は内から燃え上がる秩序からなる秩序、否其の秩序以外に、国家だの政府だのの干渉をお断りしたいのです。

〈自分は今斯うやりたいから斯ふやる〉これが、私にとって自分の行為を律すべく唯一つの法則であり命令です。もっと判り易く云ふと、私の行為の凡ては〈私自身さふしたいからさふする〉と云ふ丈の事であって、他人に対しては〈さふせねばならん〉とも〈さふあるべきだ〉とも云ひません。私は思ふんです。私が私自身の事を考へ、私自身の道を歩む為に、私自身の頭と足とを持ってるやうに、他人も亦自分の頭と足とをもってる=つまり、私は、自主自治─凡ての人が自分の生活の主となって自分の生活を正しく治める処に、かすかながら私の好きな社会の幻を描いて見る気にもなるのです。

 私が、自分の行為に要求する凡ては自分から出でて、自分に帰る。つまり、ピンからキリまで自分の為で、自分を標準とする。従って私が〈正しい〉と云ふ言葉を使ふ時、其れは完全に〈自律的〉な意味に於てである事を断はっときます。

26行未入力

私は只斯ふ云ふ丈です。

『昨日自分は斯ふ思ふって居た。だが、今日自分は斯ふ思ふやうになった。自分は自分によりしっかりと合った道を見出した。だから自分は今、其の新しい道へと胸を張って突き進んで行かうとするのだ』とね。

つまり、私は、立ち止って自分の足跡を振り返って其の時其の足跡の一つ々々が、自己意識のクライマックスを示す烙印である事を、自分に対する唯一の義務だ、と思ってるのです。で、私は、自分の考へて居る事は、何処までも頭の及ぶ限り疑います。疑はうとして居ます。其れは自分の為です。

其処で事件の方へ戻ります──

昨日も話したやうに、私は、自分の信念を実行すべく、金翰兄との間に爆弾入手の交渉をした。が而し、金翰兄の方の手違ひで駄目になった。其の時、いろいろな爆弾の写真を見て、私は、腕を挟んで狭い部屋の中をあっちこっちと歩き廻りながら考えへた。

『私は確にあゝした計画をした。だが、其れは、単に権力への叛逆てふ心地好い想像に、謂はば幻惑された為ではならうか? 若し今此の私の目の前に爆弾があったとしたら、私はどうしたらう? 私は自分以外の何ものにも囚はれてはならん。私の求めるのは自分に於ける真だ。私はしっかり考へなくちゃならない』──と。

 ちよっと断っときますが、これは私の今の考へではない。其の当時、つまり、私がはたちの一二月頃の考へなのです。

 其処で、今日、上村弁護士が其の心の状態が其の後どの位続いたか、とお訊ねでしたが、而し、私にあって其の心に決定を促すべく機会をもたなんだ為に其の点に就いてはシカと記憶して居ません。

其れで、私は此の事件が発覚して後気がついたのです。私は、自分に疑ひをもった其の時、何処までも自分を追求すべきであった。そしたら私は多分朴との間に隔たりを見たらう。朴と私とは一緒に居た。だが、其れは二人の生活ではない。一人と一人との生活である。どんな個性にも他の個性を吸収して了ふ権利はない。朴が朴の道を歩むやうに、私も亦私の道を歩む。自分の世界にあっては自分が絶対だ。私が自分の道を、誰にも邪魔されず、真っすぐに歩みつづける為には私は独りになるべきだったのだ、と。

 これは、私の事ですが、一方朴はちっとも変って居ない。其の為に金重漢兄に又あーした話をした、処が忌憚なく云へば、其の人選を誤ったが為に、私共は斯ふなった。が而し、其の時朴は私に相談しなんだ。全く自分の独断でやった。で、つまり私にして外の事情から見れば、全く他人の過失の犠牲になる訳だ。がさふと知りつつも、金翰兄との交渉や、尚私自身を省みてさふした計画を生む思想をもって居るが故に、犠牲たらうとして居る自分を救い出す事も出来ない。

 と云った処で、ちょっとお断りしときますが、私は朴を信頼して居た。今でも信頼して居る。ちっとも変って居ない。で若し其の時朴が私に金重漢兄との事を相談したと仮定して、私が果して反対したかどうか疑問だ。いや怖らく信頼して任せたらう。此の点特に弁護人諸氏に対して、私の云はうとして居る気もちへの理解を望みます。即ち、私は自分が斯く失敗した事に就いて、彼是悔ゆるのではありません。只、其の失敗が自分の意志に基く失敗でなかった事を、自分の前に限りなく恥じるのです。謂ゆる『犠牲』を蔑みつつ、而も私自身『犠牲になるのだ』と云ふ程の自覚さへなしに犠牲になる事が堪らなく恥ずかしいのです。今まで私が黙って居た事を斯ふして突然ぶちまけるのは、全くさふした気もちからで、私自身偽ったまゝ終るのが苦しかったからです。そして、此の事は、むしろ自分に対しての告白です。

 私は今まで、此の事を誰にも黙って居た。お役人に対しても、此の点のみ、ずっと嘘を云ひ通した。其れは昨日もお話した通り。余程私の思想や性格を理解した人でないと、私の云ふ事を正しく解釈し得ない。其れとも一つは、繰り返しますが、其の事を考へる度に、私はいつもイプセンの人形の家のヘルマンを思い出した。即ち、朴が私にさふした事を相談しなかったと云ふ事に就いて、私が後になって朴を責めるのは、実は相談されなかった事を責めるのではなく、其の結果自分の思惑に外れた事を責めやうとして居るのだ。何となれば、私は自分に問ふて見やう。朴が自分の意志を以って二人の事をした。其の結果がテッキリ私の思ふ通りに運んで、而して成就したと仮定する。其の時私は果して朴に対して其の事を予め私に相談しなかった事を責めたらうか─と。ノオノオ。私はアベコベに悦んだらう。斯ふ考へて来ると、私は朴に堪らなく済まない気がし、時に、自分のケチなみすぼらしいエゴイスティックな気もちが恥かしくなる。そして又、朴自身の立場に自分を置いて考へて見る。して思ふ。誰が失敗を予想しやう。凡てはやるべくやったのだ。結果は全く偶然に過ぎん。どんな事でも、失敗した後から見れば、みな莫迦げて見えるものなのだ。…………

 此処でちょっと今日の布施、上村二氏に私からお答へしたいのですが、金翰兄と私共との関係が余りにも漠としてゐると云うはれた。而し、だが私自身を振り返って見た時、さふ誰でも彼でもがもちさふな考へから行動しやうとしたのではなかったつもりだ。失敗したと云ふ此の事実は、其処に失敗すべき何かが有った事を私自身認めずには居れない。此の失敗てふ結果の前に、私は何も弁解したくありません─と。

 其処で金重漢兄との交渉に於ける私の立場は以上の通りで、して当の朴に対してはさう云ふ風に考へてゐるのですが、而し、知らない事は何処までも知らない。何時でも私は自分自身を正しく生かさねばならん。此の事件が大審院に廻されるらしい事を知った時、私はずい分悶えました。約一ヶ月ばかり御飯もろくろく咽喉を通らず皆から痩せたと云はれる程苦しみました。

 私は若いのです。私の身内には過去の苦しい境遇に鍛へ上げられた力強い生命が高鳴って居る。私は、自分の意志なき失敗の犠牲などにはなりたくない。よし其れが著しく失敗に終らうとも、兎も角私は自分の力を試して見たい。手足をぐんと伸ばして見たい。

 で、私は思ったのです。私が私自身を自分の手に取り戻す為には、現在の立場から脱け出さねばならん。形の上に自由な体にならねばならん。其れで、私は、或る時など、お役人の前に改悛の意を表して、如何なる屈辱にも忍んで、なるべく早く出られる工夫をして見やう、と思った事さへあったのです。私の後に同志と云はれる人たちが沢山ついて居ります。親とか親類とか云ふ人たちさへ手紙一本寄越さない私の足かけ四年の囹圄の生活を経済的に又精神的に支へて居てくれたのは全く此の同志たちなのです。同志とは文字通り志を同じふする人たちと云ふ事です。で、私が、さふした態度を執ったなら、同志は皆私に背を向けるでせう。而し、私にとっては、百人の同志より一人の自分の方が大事ですし、敵からも味方からも捨てられて、よし監獄の門を跨いだ刹那に自殺をしやうとも、私は、今の自分を獲得する必要があるのだ。ノラは人形の家を捨てた。其れだけで好いんだ。……私は、其の時、さふ思ったのです。

 お役人さん、及び弁護人諸氏、私は此のおしゃべりの最初で、理想そのものを否定する。そして自分の上に「斯ふせねばならぬ」など云ふヒチ面倒な謂ゆる「使命」なんかは認めない。私の行為の法則は『自分は今斯ふしたいから斯ふする』の一言に尽きる。即ち、私は、自分の行為の凡てを等しき値ひに於て認めるのです。

 斯ふ云へば、もう後は云はずともお判りだらうとと思ひます。つまり、私は、曽て自分を疑ふた。そして其の時自分は独りになるべきであった、と後に気がついた。そして其の為にお役人に頭を下げやうか、とも思ふて見たが、到頭下げなんだ。而し、其れ等は凡て、さふしたとしても、私にとっては当たり前の事であり、さふしなかったとしても、やはり私に於て当り前の事なんだ。皆さん。お判りですか──。

 私は最後に云ひます。私は外の事情から云へば犠牲になるのだ。私は決して其の事実に眼を反らしもせねば、体の好い瞞かしもしない。私は大胆に其れを肯定する。が而し、私は今、其の事をかなしみもせねば、悔ひもしない。私は至極穏な気もちで、自分の凡てを肯定し、而して自分の凡てを否定して居る。

 も一つ、私が過去に於て、又現在に於て、大逆の名を以って呼ばるべき思想をもって居た。又もって居る。そして其れを実行しやうとした事もある。尚、自分のさふした言動に、反省する余地はない、他人に対しては言ふまでもなく、自分自身に対してすら。──其の事を此処で改めて言っときます。

 其処でかふした私の態度に発せられたと憶える昨日の上村氏のご質問に対し、徹底的に答へて置きます。上村氏は私が『もうどうせ此処まで来たのなら』と云ふ風な気もちでお役人の訊問に応じた事はよかったかとのお訊ねでしたが、其の先がちと曖昧だった。『もうどうせ此処まで来たのならエラク見えるやうにやってやれ』と云ふのか、又は『もうどうせ此処まで来たのなら、面倒臭い、ギロチンまで行ってちまへ』と云ふのだか。で其の二つ共に答へます。

 私は決して自分が売名欲をもって居ないとは言ひません。いな、タップリもってるでせう。而し、お役人の訊問に対する時、さふした気もちに動かされて答へた事は、まず無いやうな気がします。

 其れから第二の意味に就いては、斯ふお答へしませう。大して生に興味をもって居ない私の事です。或はさふした気もちに動かされた事が有るかも知れん。而し、いくら強がっても私はやっぱり生きているのだ。で、或はなかったかも知れん。が何にしても、私は其の時、自分がさふ云ふ事を欲したからさふ云ったのだ。つまり云ふべくして云ったのだ。で、よしんば其れがエラク見せようと云ふ幼稚な虚栄からであったとしても、又は強がりの痩せ我慢からであったとしても、私は其の事に就いて誰にも義務は負はない。私は只、私自身に質して見さへすれば其れで好いのだ。

 弁護人諸氏、私は斯く歌ひ、斯く踊ります。其れに就いての御判断は全く諸氏の御自由です。

 〆

 これで私のヨふは終ひです。

 処で、書記さんは私の利益の為にこれを書いて欲しい、と云はれた御要求のやう、伝へ聞きましたが、其れに応じた私は決して裁判所に対して自分の謂ゆる利益を主張する為に書いたのではありません。

 現に此処に監獄のお役人を前に置いて私は云ひます──。

私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。
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by pugan | 2011-06-17 17:37

金子文子と中西伊之助5-2

③ 今日

(前史 備前又二郎、小野十三郎、『黒色青年』『叛逆者の牢獄手記』に描写された追悼)

鏝と鋏           小野十三郎

「××××が生前使ってたものだ」

そういって仲間は手にしていたものを畳の上に並べた。

それは古風な鏝と鋏であった。

鏝は赤く錆つき、異様に太い鋏は手垢で黒く光っていた。

俺はいまさらのように彼が女であったことを想い出した。

ここにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦ってきた路があった。

叛逆児××フミが女性であったということは必ずしも偶然ではなかったのだ。

錆びた鏝を持ちあげてしずかに置いた。

         初出『弾道』(第二次)

第一期 秋山清、小松隆二による評価。一九五〇年代から六〇年代。アナキストたちからの言及。

一九六一年七月「金子ふみ子の回想録」『春秋』七月号

一九六一年七月『自由思想』六号、小松隆二

一九六三年三月、四月 森長英三郎『法律時報』「朴烈・金子文子事件」

一九六四年『日本の女たち』佐野美津男、三一新書

一九六五年「朴烈大逆事件」『昭和史発掘』文芸春秋社

一九六六年六月 朴烈「共産主義と私」『統一評論』六月

 私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。

一九六九年七月「金子ふみ子のこと」秋山清『思想の科学』七月号

第二期鶴見俊輔、井上光晴、瀬戸内

晴美らによる言及。一九七〇年代。牧丘町、ムンギョンにおける碑の設置。

一九七〇年 鶴見、井上による対談

一九七〇年八月『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房、収載「対談 金子ふみ子をめぐって」作家井上光晴、作家鶴見俊輔 七〇年七月三日、「最暗黒の東京」「日本の下層社会」「何が私をこうさせたか」あとがき、鶴見俊輔、

「明治、大正、昭和、戦後も含めての日本の進歩的知識人の書いてきた思想史の裏側になってきている人だという気がするのですがね」鶴見俊輔

一九七二年六月三〇日 『余白の春』瀬戸内晴美著

一九七三年七月二三日  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地

一九七三年九月一日 『朴烈』金一勉著、合同出版

一九七四年一月一七日  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる

一九七六年三月二〇日  山梨県東山梨郡牧丘町杣口の金子家の敷地で「金子文子の碑」除幕式

韓国ムンギョンでは官憲の監視下、金子文子の墳墓は盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなかった。そして一般には知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「………………我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。………小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

 実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。

一九七九年一二月 秋山清「はるかに金子文子を」──「自叙伝」を再読しながら──

季刊『三千里』特集「朝鮮の友だった日本人」

第三期 大審院公判記録の刊行。研究

評価、表現の対象となる。七〇年代末から九〇年代。

一九七七年 『朴烈・金子文子裁判記録』再審準備会、黒色戦線社 手書きのまま複製

一九八一年六月二二日 栗原一男死去

一九八七年七月 『運命の勝利者朴烈』復刻版 布施辰治 黒色戦線社

一九八八年 『続・現代史資料アナーキズム』小松隆二編、みすず書房 訊問調書を活字化、難波大助大逆事件、黒旗事件資料も収録

一九九一年一二月二五日 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社、本文は「続・現代史資料アナーキズム」の複製、付録として大審院判決、減刑等の公判書類原本縮小パンフ、『黒濤』『太い鮮人』『現社会』の復刻版収録、『連帯』誌 山梨での碑の除幕式報告掲載 1976.4.15発行、が刷り込まれている。

一九九六年一二月五日 『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』山田昭次、影書房

一九九九年九月一五日 「金子文子を支えた人々 栗原一男を中心に」佐藤信子『甲府文学』12

山田昭次による研究は従来の断片的な金子文子研究にとどまらず彼女の全体像を描こうとする。

故郷といえる山梨の人たちによる金子文子の把握、演劇としての表現。一九八〇年代。

この時期、歌人、道浦母都子は金子文子の伝記を書きたいと公に発言していた。その過程で印刷中に発禁処分とされ「幻」の歌集となった『獄窓に想ふ』自我人社刊、を山梨県立図書館から「発見」し、埋れていた史料を世に出す契機をなした功績がある。しかし間もなく道浦は現代短歌に言及する場合、天皇〈制〉に収斂されるコメントが発せられるようになる。現皇太子の結婚式、皇室のための歌会始への肯定的言及がマスコミにおいて散見される。金子文子の天皇否定の立場と矛盾する表現であるが、道浦はその立場に関して何ら説明を行っていない。
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by pugan | 2011-06-17 17:00
金子文子 手紙          
同志栗原一男宛 参考テキスト『婦人サロン』掲載原本複写 データ入力2002.12.29

<四月二十四日> 

三尺の高窓から、本当に春らしい麗かな陽ざしが、三疊の畳の上に、くっきりと影を映して、蒼空の遠い彼方の断面が、疲れた瞳に心地よい憩いを送って来ます。思うともなしにヂット空

の色に見入っていると、郊外の家に、大勢の仲間と一緒に、とりとめもない談笑に送っていた或る日のことや、今はあの世の逝って了った朝代さんと一緒に、柄にもなく芹とりに行った日

のことなど、如何にも忘れ難いロマンチックな思い出となって、甦って来る。

 と──コツコツと重い扉を叩く音が、幻想の世界から妾を引き戻す。  

『四十九号さん-』それは何時もやさしく呼びかけてくれる主任看女さんの声── 

妾は一通の分厚い便りを渡された。云うまでもなく、それは一昨日、貴方と面会した後から、貴方が妾のために骨折ってくれた差入物のことどもを詳しく書いてくれた手紙でした。

妾がそれを読終わるまで、N(仮にこう呼んで置きます)看守さんは、頁をくる妾の手許と、文字を走って行く妾の眼先をヂッと見つめて居られる。

『今日は本当に春らしいいいお天気ですのね……』  

お天気をいろいろと話していた妾は急にお天気に誘惑され、こんないい日には、ゆっくりと庭を散歩したり、何んにも考えずに庭の青草の上に寝ころびたくなったのです--  

そうです。本当に自然の美しい世界は、妾の、いや囚われている者の、先づ第一に要求する世界です、憩い場です、糧です、そして自由な心の洗濯場です。  

庭には雑草が一ぱい生えていた。で妾は、N看守と一緒に、草取りに出ることを許されました。  

 

  うづくまり 庭の日陰に小草引く  

      獄の真昼は、いと静かなり  

 

本当に静かです、屋根瓦の上で雀が囀る位のものですね……

又色々の事が思われます。  

 

  指にからむ 名もなき小草、つと引けば  

      かすかに泣きぬ「われ生きたし」と  

 

指先が慄えて、手を外すこともあります。可哀想になってね……けれどもまた、  

  抜かれまじと 足踏んばって 身悶ゆる  

      其の姿こそ、憎く、かなしく  

 

で、こと更に荒々しく引き抜いて了うこともあります。  

ちょっと痛快ですね、時にはまた--  

 

  うつ向きて 股の下より 人を見ぬ  

      世のありさまを、さかに見たくて  

 

こう云う変った芸当もやって見ます。

 その日は恰度日曜日--免役日でした。女囚が五六人--二名の看守に護られて草をとっていました。遊びがてらにね。  

 

  免役日、若き女囚が結い上げし  

      銀杏返しも今日は乱れず  

 

若い女の髪が乱れていない。当り前のことですが、その当り前のことにも、斯うした天と地とに囲まれていては、云い知れぬ淋しみを誘うものです。

彼女等の傍らに、その着衣と同じ色の躑躅が咲いていました。彼女等は奇麗だと云って立どまりました。

が妾には、  

  ギロチンに 斃れし人の 魂か   

     庭につゝじの 赤きまなざし  

 

斯う思われてなりません。  

二三日前、久しぶりで出廷したら、四谷見附近の立派な邸宅めいた家の門角に、同じ色した躑躅が咲いていました。  

  ブルジョアの 庭につゝじが 咲いて居り   

     プロレタリアの 血の色をして  

 

斯うした観方をする妾を、哀しくさえ思います。美しいものを、只美しいと肯定されない妾自身の心を……  

赤い躑躅の上に、女囚の銀杏返しの上に、遅れ咲きの桜の花弁が、ホロホロと音もなく散りかゝりました。  

 

  花は散る、花は散れどもギロチンに   

      散りて花咲く××かな  

ねえ--こんな時の妾は馬鹿に元気がいいでしょう。

でもね、たまには庭に立ったまゝ、考え込むこともあります。  

 赤い入陽に背を向けて……  

 青い木陰にたゞずめば  

 うすむらさきの悲しみに  

 くろくおのゝくわが心  

 銀の色して鐘がなる  

この意味と、こうしたロマンチックな気持ちが、お解かりですか。

午後四時--妾は今、草取りを終わって心地よく疲れた身体を、二尺と一尺ばかりの小さな机の前に運んでいるのです。

たった一人!妾の好きな生活、たった一人きりでいるその生活--

妾は何時も独りで、こうしてヂッと時の流れを見つめていたい、色々のことが想い出されてね。  

 

   上野山、さんまい橋に より縋り  

      夕刊売りしこともありしが  

 

その頃の、張りつめた、そうです、生きることにと云うより、その日の食をとるために専念していた頃の、自分の姿を省みます。  

 

   籠かけて、夜の路傍に佇みし  

      若き女は、いま獄にあり  

 

この身の転変! 

情熱とはち切れる程の元気に燃え立っていた自分を、自分を、自分ながら驚いて眺めて見ます。  

 

   居眠りつ、居眠りつ尚お 鈴ふりし、  

      五とせ前の、わが心かなし  

 

云い様のない哀れな、痛ましい、しんみりとした気持ちになります。

座ったまゝ眼をつむっていると--  

 

   滝白く、松緑なる ××山の  

      すがたちらつく獄のまぼろし  

 

汽車で、あの妾の故郷である街と山との風景を貴方が見送られるなら、きっとこの言葉を憶い出して下さいまし。

夕方になると暮れる日を惜しんでか、どよめき立つ娑婆の雑音が、鉄の扉と金網越しの高窓から、手にとるように響いて来ます。  

どんなにか、娑婆の夕方は五月蠅ことでしょう。

警笛──電車──自動車──子供、子供、女、籠を下げた、車に乗った急がし気な人間の波が、次から次へ街と角に流れる。  

洪水--色々な頭や帽子や、店先の色とりどりな品物の走馬灯が、妾の目の前でぐるぐると転回します。

黙々と歩いて行く男、物欲しげに店頭に瞳を送って行く女……女、それぞれ自分を自覚しようとしまいと、人は皆只生きるために生きているのですね。

謂わば生きようとする力に引きずられているのですね。  

 

    生きんとて 生きんとて 犇き合う  

       娑婆の雑音、他所事にきく  

 

生きようとして藻掻いている姿や、そのために掻き起される争やを、ヂッと斯う見つめている時、

妾の心は不思議な程にも静かに落ついて「真如」とでも云いたいような気分になるのです。

所謂悲しみをも喜びをも超越し去った淋しい程にも静かなニヒルの境が、此処に展開されるのです。

でもね、やをらこの現実に瞳を落すと、超越ばかりはしてはいられません。

人間的な──そうです、あまりにも人間的な欲求が頭を拡げます。

が妾はこの人間的な欲求をヂッと押えて、素直らしい仮面をかむっていなければなりません。

がこの仮面は、此処にいる妾ばかりではありませんね、凡てが仮面を冠っています。  

考え込むとこの仮面が、仮面舞踏会の役者共と一緒に生きていることが癪にさわって胸がむしゃくしゃに引掻き廻されて本当に厭になります。  

 

    ひと夜ならで、何時ゝゝ 迄も覚むなると

       希いて寝ねる、近頃のわれ  

 

本当にこう思うことがあります。柏蒲団を冠って、人知れず亡き濡れることもあります。

するとね、蒼白い死の世界の怪物の月が、この上にも妾をいぢめつけるのです。   

 

   うら若い 囚われ人は たゞ独り   

       さみしくもいて、身じろかず   

──月影   今宵もまた高窓越しに   黒い格子を寝顔にうつし……  牢舎の夜は、墓場です。

文字通りに死の寝床です。妾の意識も、みんなこの墓場で憩います。が朝ともなればまた、   

 

   朝くれば 此の屍に 心戻り   

       鉄格子見ゆ、暗く明るく  

 

笑ってはいや! 閉ざされた部屋とは云え、朝のすがすがした空気は、淡い乍らも燃え立ってくる希望を、妾の心に喚び覚します。

 が、こうしている、いなくてはならない自分であることを知ると、今日の一日も亦かと暗い気持ちに襲われます。   

 

   わが魂よ、不滅なれなど 希うかな   

        とじ込められて獄にいる身に   

 

何故ってね……   

 

   肉と云う 絆を脱し わが魂の  

        仇を報ゆる すがたなどを想いて  

 

この気持ちは、貴方には恐らくお解かりでしょうね。いやこうしている者の誰もが、一度は思う気持ちでしょうね。

未練がましいと仰云られますか? 妾も亦考えないではありません。こんないさかいを続けている自分の魂も滅んで了って、

人の世の、ありとあらゆる醜と手を切ることが出来るなら、それに越したことはないではないかと……  

何時も食人種のうわ言しか云わない妾が、今日はいやに神妙になって、長い手紙を書きました。さよなら。

 

<四月の或る日に──>

「達者でいてくれ、同志はみんな達者だ!」とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!

差入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人まで獄死しているぢゃないの?

「達者でいてくれ」、有りふれた古い言葉にも新しい心根が植付けられているとは云え、そうした言葉をきくよりも、

こうした事実を知らされた方が、心が引きしまる──「××の圧制に勇敢にも戦った同志は、斯うして獄に斃れて行く、

……だが妾は? 妾は決して意気地なく牢死等をしてはならない」斯う思ってね、だらけた心根も引きしまる。  

生前に会った同志G兄のガッチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、

何とも言われぬ悲痛な気がする。惜しかった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、

あの人は不遜ビラ位で、命を落とす人でなかった。 そう思うと、妾は今、心の中で泣いている胸が一杯になって来て──

こうした時に、心から同じ道を歩む者としての、堅い堅い結束の程が望ましい。売名屋さんや、妥協主義者や、日和見主義の、

そうしたなまくら者の一切を超越して××への復讐を、実感を以って叫んで見たい。その行動を生活したい──

と、貴方がたは、ぐるになって、妾の耳に、娑婆の生々しい血のしたゝっているニュースは入れないように工夫しているのだね──

よろしい、覚えておいで、妾があの世で先廻りをしているから、その時にはきっと、ひどい目に遭わしてやるから……  

ここまで書いていると、数日前貴方に宛てた手紙──

「不逞な夢の報告」が怪しからんと云って、不許になって舞い戻って来た。

いや、夢にまで不逞な真似を演ずるのは怪しからんと斯う云う訳さ、誰かゞ妾の言葉が強烈すぎると云った。

妾には判らない、生活を奪われている者にとっては、そして殊にPのように彼女の夫ニヒリズムに徹底していない妾にとっては……

また改めて書くことにしましょう。  

帯、あんまりボロボロになって捨てて了ったので、贅沢な言草だが、一筋きりしめ代えがないから、妾の荷物の中──

鼠の復讐から無難だったら、帯、縮緬帯揚げ、モスリン下帯、黒い解かし櫛、以上の品々を差入れていただきたい、ではお願いまで。

 

 

<あたしの宣言として──>  

……貴方からの手紙が来た、そこであまり大きな声では云えないが、上半身裸体のまゝ隅の蒲団の上に腰うちかけて、

早速読み初めた、

「女性としてのあなただもの、娑婆にいた頃の、せめてもの思出に、

娑婆にいた時の物が獄内で用いられゝば、心地よい思出の一つともなろう……」

なる程、懐郷病患者の情が充たされると云うそれだけなら、とも角として、

妾の上に、そんなロマンチックな想像を冠せようとは、

「女性としての妾」を知って「人間としての妾」を知らないものよ、まあ人を見て法を説いて貰いましょうか……  

以上の前提による結論としての蒲団毛布等の差入れでしたら、きっぱりとお断わりしましょう。  

蒲団は、一女性である妾が、(貴方等が妾に与えてくれた資格を逆用して)一人間の資格に於て勇敢に返上する、

そしてこう宣言する。 「貴方がたは、妾を一体なんだと見ているのだろう。女性としてか、人間としてか、女性としてのあなたが……」

妾に対してこんな言葉を用いることをかたく禁じる、妾は女性としてこの世にあったのだろうか、

では女性である妾、いや一女性にすぎない妾と、人間としての妾を圧制していた××との間にどんな交渉があるのでしょうか、──

姦通制裁の撤廃運動でもやる方が、ヨリ正しくはなかろうか──

妾は人間として行為し、生活して来た筈だ。そして妾が人間であることの基礎の上に、多くの仲間との交渉も成立していた筈だ、

そしてそう見ることによってばかり初めて真の同志ではなかろうか、即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、

人格的な結束ではあるまいか。  成程Pと妾との間は、同志としての意外の交渉もあった、だがそれは外のことではない。  

今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。

そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。  

又、同一戦線上に立つ者達の間に、何の性的差別観の必要があろうか、性欲の対象としてても見ない限り、

女とか、男とか云う様な 特殊な資格が、何の役に立つであろう。同じ人間でいいではないか、

そしてそれ以上に何が必要であろうか。  妾はセックスに関しては、至極だらしのない考えしか持っていない。

性的直接行動に関しては無条件なのだ、それと同時に妾が一個人間として起つ時、即ち反抗者として起つ時、

性に関する諸々のこと、男なる資格に於て活きている動物──そうしたものは妾の前に、

一足の破れた草履程の価値をも持っていないことを宣言する。  

今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。  

妾は人間として活きている、妾は以上の理由に基いて、「か弱き性を持った」女性として見られることを拒む──

と同時に、その前提の上に立つ諸々の恩恵を、一切キッパリとお断わりする。  

相手を主人と見て仕える奴隷、相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを、ともに私は排斥する。

個人の価値と権利とに於て平等観の上に立つ結束、それのみを、只それのみを、

人間相互の間に於ける正しい関係として妾は肯定する、従って妾と他人との交渉の一切を、

その基礎の上にのみ求めることを、妾は今改めて、声高らかに宣言する。

 

 

<九月一日の思出に──>

今日は九月一日──

震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、

なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……

隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。  

土手下で、身重の女が、大正琴を弾いていた、広い草原の彼方には、真紅な稲が燃えていた、

月が、夕焼けの太陽のように変って……あゝ物凄い黄昏だったね……

でも何んだか馬鹿に、遠い遠い昔の出来事が、夢の中の出来事の様な気がする……  

▽貴方は此頃とても煙草吸になったのね、今朝来た手紙の中にも。数日前差入れた本の間にも、

煙草の小刻みが、落ちていた、そう思って書物を開くと、何んとなしに煙草臭い、それでも高々バットを吸う、

いやそれより以上吸えない身分なんだから、やかましく言はないとしょうね……  

▽それに貴方は、本当に引越しの名人だ、だから結局、貴方の住所は覚えない方がいい、

なまじっか覚えていると、とんだことになって了う。   

 

とき色の 吸取紙に にじみたる   友の宿居をたどりては読む  

 

▽今日は午前中、二度も三度も、とてもいい目にあった、その一は   

 

窓硝子は 外して写す 帯のさま 若き女囚の 出廷の朝    

 

と云うわけで、かねて頼んで置いた「願の件」で、法廷からお呼び出しになって、

久しぶりに、のんびりとした娑婆の空気を吸った、

その二は   

 

藍の香の 高き袷に包まれて 腑甲斐なき身を、ひとり哀れむ  

 

と云う訳で、腑甲斐ない自分を哀れんではいるものゝ女の浅墓さとでも云うか、

新調の着物に身をくるんだので、誰かに見てもらいたい、見てくれる者もないのか、それとなしに物足りないが、   

 

監視づき、タタキ廊下で××の 同志にふと会う獄の夕ぐれ  

 

その三は、まことにたまさかな、偶然の邂逅であるのに、嬉しくって、夕飯の味を忘れて食べ終った、それ程……、  

だけど、夕方、お役所から帰ってからと云うものは、何故か知れぬ、ばかに娑婆が恋しい。

自嘲してゴロリと横になって見たもの、淡い五燭の電燈の光を、遮切って、澄んだ月影が、高窓の鉄格子を、

くっきりと畳の上に落しているのを、それとなく見つめているとこうして、こんな処に遊び暮らしている──

(妾のすきなせいではないのだけれど──)妾が世間の貴方がたに較べて、惨めな敗北者のように思えて

ならない。何だか世間の貴方がたがねたましい気がする、笑って下さいませ、斯うした気持ちのする時も、

たまにはあるものですよ……さよなら

 

<最後の手紙──> 

 ここは地獄のどん底──地下何千尺の坑内に引きずり込まれているような、

威圧された感じと、もうどうにもならない、最後の一点に起たされている──

そうした妾自身を今日と云う今日こそ、真ともに凝視します。  

永い間、いろいろとお世話になったことも、直接間接に御迷惑をかけたことも、

凡ては忘れ難い追憶であり、感謝でもあります。  

だが、今度こそ、その最後の日が来ました。もう二度と法廷にこの醜い身体をさらすことも

ありますまい。と同時に、悲しくもまた淋しくも、元気で朗らかに輝いている貴方がたとお会いする

機会もありますまい。  

お別れです、おさらばです、こう云うと、妙にメランコックに堕りますが、若しこれが、本統に、最後の

最後の手紙だとしたら、妾は、本当に泣いて了うでしょう。  

が、妾の知る限り、予断される限り妾の手紙はこれが最後となるでしょう。

 

 

夏の夜をそゞろに集う若人の 群を思へば、われも行きたし  

白き襟、短き袂にみだれ髪  われによく似し友なりしかな  

今はなき友の遺筆をつくづくと 見つゝ思ひぬ、友てふ言葉  

友と二人職を求めてさすらひし 夏の銀座の石だゝみかな  

肉と霊、二つの心いさかひに  持つこと久し、今の我が身は  

 

 

凡ては思い出──かすかな感傷を伴って、この世に捨て残して行きます。  

妾自身について云えば、本当に永い間(三年もの間)こうした日の来ることは予測せぬではありませんでした。

ですから、その日のために、幾度か強い強い覚悟と決心とが必要だと思われ、出来るならば、まことに安々と、

平気で眠る様にその来たるべき瞬間を甘受しようと努めていました。 「神」--ある時は、非常に散漫である妾の心を叱って、

これを統率するために、思想に核心を与えるために、「神」を考えぬではありませんでした。

若し神なる観念によって永劫不動な所謂安心が得られるとすれば、この場合、妾はそれで結構でした、が生まれつき、

妾は片意地で、強がりでもあったか知れませんが、神は妾を嘲笑しました。

何故って、神の使徒が寝る目も寝ないで書きのこした著書をば、妾が嘲笑したんですもの──

永い悩みの挙句、妾は、結局私自身を嘲笑して、神や安心やについて、こだわっている自分から、

さっぱりと抜け出して了いました。つまり、神や「死の恐怖」やを忘れて了ったのです。  

それから約二年の歳月は、永いと云えば、永くもあり、短いと云えば、あまりにも短い、そして忽然とこの最後の瞬間に蓬着した様です。  

ふり返って見れば、愚痴が多く、たゞ徒らに煩悶があり、不満があった様です、けれど、

今日となった今日は、案外にも落着いたある種の心の「ゆとり」を獲得していそうです。  

大げさに「悟り」だとか「大悟の境」だとか云うと吃度貴方がたには笑われて了うでしょうけれど、

結局は、悩みの人間は勝利者なんですね、約一年半の間「これではならぬ」とばかり焦心していた妾が、

その焦慮を忘れて了ってそれ以来、二年後の今日、意外にもこんな大それた言葉を書きつけられるんですもの─  

 

 

悲しくもいさかふ心内に見て、  三日ばかりはくつろぎ居しが  

 

 

これは、二年も前の或日の感想です。今は毎日毎日くつろぎすぎているせいか、どうか知りませんが、

これと云ういさかいの心を認めることもありません。  

妾は依然として一介の理想主義者で、今日の妾を諦め切ってもいないし、あまねく世の中に対しても、

これでいいとは決して思っていません。従って所謂世の「曳かれ者の小唄」を歌う気持ちにもなりません。  

これでいいとも思いませんが、これをどうにかしたいと悶えることも致しません。

では運命とかの前に、ひれ伏すかと云うに、それ程大胆な志士的な英雄的な分子は、妾の中に巣食っていそうにありません。

一寸正体の知れない気持ちです。なるようになった訳ですね。来るべき場所に来て了ったのですね。  

この万年筆と、柄にもない妾の「死の勝利」の書物とが、貴方への唯一の遺品となることです。

時折は、かつてこうした不逞な一人間が、女性らしくない人間が存在していた。そしてこの人間が幾分にもせよ、

貴方とかなり永い間、然も深い間交際を続けて来た──と云う事実を思い出して下さい。若しも貴方が、

妾を追憶してくれて、或る時の侘しい妾の気持ちを充たしてくれようとおっしゃられるのなら、

妾の墓石の前にすっきりと、新芽を伸ばしている常盤木の一枝を、捧げて下さいませ。  

 

妾は、咲いては萎んで了う、草花を一体に好みません。

あまり華々しく競って咲き誇る花類を好みません、

奇麗ではない、人目はひかない、だがいつも若々しく、

蒼天に向って、すっきりと伸び上がっている常盤木のその新芽を、

妾はこの上もなく、限りなく愛しています。  

では、新しく伸び上がるであろう常盤木の新芽、

中天に向って雄々しくもまた優しく呼びかけている新芽、

その再び廻り来る日のことを信じて、

妾は貴方に最後のお手紙を、差上げることに致します。 

バカボンド──貴方の幸福の日を祈っています

……では本当にさよなら。
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by pugan | 2011-06-16 17:40
金子文子全歌集

2003.1.4 2005.6.3改訂


1920年代から30年代に刊行、雑誌に発表された以下のテキストを底本とした。

1 遺著『獄窓に想ふ 』 <黒色戦線社による復刻版ではない>

2 「女死刑囚の手紙」

3 「獄中雑詠」

以下は1988年に刊行されたテキストを底本

4 「補遺」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』の補遺

5 「手紙六月」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』掲載の栗原一夫宛

それぞれの掲載順に通し番号を付した。

共通して掲載されているものに、若干の文字の異動が存在するが

その場合『獄窓に想ふ』を底本とした。栗原一夫による編集の際に生じたと推測する。

不明漢字の修正は後日(1から5のアップ2005年6月3日)

遺著『獄窓に想ふ』

自序

 

歌詠みに何時なりにけん誰からも学びし

事は別になけれど

獄窓1



我が好きな歌人を若し探しなば夭くて逝

きし石川啄木

獄窓2



迸る心のまゝに歌ふこそ眞の歌と呼ぶ

べかりけり

獄窓3



派は知らず流儀は無けれ我が歌は壓しつ

けられし胸の焔よ

獄窓4



燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値

を探し給ふな

獄窓5



  折々のすさび

獄窓にて        金 子 ふ み

 


獄窓6 

散らす風散る桜花ともどもに潔く吹け潔

く散れ

(大審院判決前日の歌1926.3.25「獄窓に想ふ」 )



己を嘲けるの歌

獄窓7

ペン執れば今更のごと胸に迫る我が来し方のかなしみのかずかず

獄窓8

そとなでて独り憐れむ稔りなき自がペンダコの恒きしびれを

獄窓9

自が指をみつめてありぬ小半時鉄格子外に冬の雨降る

獄窓10

炊場の汽笛は吠えぬ冬空に喘息病の咽喉の如くに

獄窓11

空仰ぎ「お月さん幾つ」と歌ひたる幼なき頃の憶い出なつかし

獄窓12

あの月もまたこの月も等しきに等しからぬは我の身の上

獄窓13

月は照る月は照らせど人の子は果なき闇路を辿りつゝあり

獄窓14

大杉の自伝を読んで憶ひ出す幼き頃の性のざれ事

獄窓15

早口と情に激する我が性は父より我へのかなしき遺産

獄窓16 雑詠29

朝鮮の叔母の許での思い出にふとそゝらるゝ名へのあこがれ

獄窓17 雑詠19

是見よと云はんばかりに有名な女になりたしなど思う事もあり

獄窓18 雑詠8 手紙9

上野山さんまへ橋に凭り縋り夕刊売りし時もありしが

獄窓19

籠かけて夜の路傍に佇みし若き女は今獄にあり

獄窓20 雑詠10 手紙11

居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし五年前の我が心かなし

獄窓21 雑詠1 手紙19

窓硝子外して写す帯のさま若き女囚の出廷の朝

獄窓22

人がまた等しき人の足になる日本の名物人力車かな

獄窓23

稼がねば飯が食はれず稼ぎなば重荷いや増す今の世の中

獄窓24 手紙7

ブルヂュアの庭につゝじの咲いて居りプロレタリアの血の色をして

獄窓25手紙21

監視づきタタキ廊下で労運の同志にふと遇ふ獄の夕暮

獄窓26

砕毛散りまた音もなく忍び寄るさゞ波かなし春の日の海

獄窓27

朝な朝な爪立ちて見る獄庭の銀杏の緑いや増さり行く

獄窓28

山椒の若芽摘み取りかざ嗅げばつと胸走る淡きかなしみ

獄窓29 雑詠21 手紙1

うすぐもり庭の日影に小草ひく獄の真昼はいと静かなり

獄窓30 雑詠22 手紙2

指に絡み名もなき小草つと抜けばかすかに泣きぬ「我生きたし」と

獄窓31 雑詠23 手紙3

抜かれじと足踏ん張って身悶ゆる其の姿こそ憎くかなしく

獄窓30 雑詠30

盆とんぼすいと掠めし獄の窓に自由を想ひぬ夏の日ざかり

獄窓33 雑詠4

浴みする女囚の乳のふくらみに瞳そらしぬなやましきさ覚えて

獄窓34 雑詠12 手紙12

瀧白く松緑なる木曾の山の姿ちらつく獄のまぼろし

獄窓35

狂ひたる若き女囚の蔭に隠れ歌ふて見しが咽喉は嗄れ居り

獄窓36

我が心狂ひて歌しなどふと思ふ声あげて歌うたふて見たさに

獄窓37

初夏やぎぼしさやかに花咲けば緑の色の褪せ行く

獄窓38

手に採りて見れば真白き骨なりき眼にちらつきし紅の花

獄窓39 雑詠25 手紙4

うつむきて股の下から人を見ぬ世の有りさまの倒が見たくて

獄窓40

踉めきつ又踉めきつ庭に立てば秋空高し獄の昼過ぎ

獄窓41

返り咲き庭の山吹三ツ五ツ佇みて思ふ己が運命を

獄窓42

秋たける獄にかなしりんりんと夜すがらすだく鈴虫の音に

獄窓43

鈴虫よさあれかこつな我もまた等しき道を辿りつゝあり

獄窓44 雑詠3

電燈の瞬基きながら消え行くを見れば我が胸かなしく慓ふ

獄窓45

誰がために思ひ悩むか愁ひげに首うなだれて咲くコスモスの花

獄窓46

語れかし我にも情ありコスモスよ汝が胸のかなしき秘密を

獄窓47 雑詠6

ホイットマンの詩集披けばクロバアの押葉出でたり葉数かぞふる

獄窓48 雑詠7

四ツ葉クロバア手触り優し其の心誰が心とぞ思ひなすべき

獄窓49

女看守の火を吹いて焼くめざしのにほひ鼻にしむかな獄の昼すぎ

獄窓50

裁判所帰り冬の夜の電燈暗き牢獄に下り立てば中天に懸る三日月寒し

獄窓51

冬の夜の電燈暗き牢獄にロメオとジュリエットの恋物語読む

獄窓52

寂寞は獄を領しぬ冬の夜に老ひし女看守の靴音寒し

獄窓53

獄衣着て唖の女囚は働けり音なき世にも悩みはあるか

獄窓54

窃盗は恥には非ずなど云ひつひそかに覚ゆる蔑みの心

獄窓55

真白なる朝鮮服を身に着けて醜き心をみつむる淋しさ

獄窓56

風よ吹け嵐よ吠えよ天地を洗ひ浄ひめよノアの洪水

獄窓57

我が霊よ不滅なれなど希ふかな閉し込められの獄に居る身は

獄窓58 手紙17

肉と云ふ絆を脱し我が霊の仇を報ゆる姿など思ひて

獄窓59

さりながら我が霊滅び人の世の醜と手を切る其れもまた好し

獄窓60 雑詠26 手紙13

生きんとて只生きんとて犇めき合ふ娑婆の雑音他所事に聞く

獄窓61

光こそ蔭をば暗く造るなれ蔭の無ければ光又無し

獄窓62

照る程に蔭濃く造る××我は光を讚むる能はず

獄窓63

何処やらの大学生と議論した夢みて覚めぬ獄の真夜中

獄窓64 手紙23

白き襟、短き袂にみだれ髪われによく似し友なりしかな獄窓

獄窓65

些細なる鼻風邪ひきても医者を呼ぶブルには薬は用のなきもの

獄窓66

薬売るは貧乏人の搾取なりなど我云ひ張りぬ湯に行きがてら

獄窓67 手紙25

友と二人職を求めてさすらひし夏の銀座の石だゝみかな

獄窓68 手紙24

今はなき友の遺筆をつくづくと見つゝ思ひぬ、友てふ言葉

獄窓69

口吟む調べなつかし革命歌彼の日の希ひ淡く漂ふ

獄窓70

彼の日には赤き血汐に胸燃えて破るゝなどゝは思はざりしを

獄窓71

凧のごと黒き糸をば脊につけて友かなしくも巷さすらふ

獄窓72

獄に病む我を護れる汝が思ひ早く癒えんと我は誓はん

獄窓73 雑詠15

友の服は破れ我に白き襟番号かなしきまどいよ予審廷の昼

獄窓74 雑詠14

ぐんぐんと生ひ育ち行く彼の友と訣るゝ日近し我のかなしみ

獄窓75

今日はしも我等の為に同志等が闘ふ日なり雨晴れよかし

獄窓76

講演会集ふて叫ぶ若人の群を思へば我も行きたし

獄窓77 雑詠5

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

獄窓78

黒雲は渦巻き起ちて天つ日を覆?いて暗し夕立の前

獄窓79 雑詠13

去年の今日我を見舞ひし友二人獄に逝きて今はいまさず

獄窓80 雑詠28 手紙6

ギロチンに斃れし友の魂か庭のつゝじの赤きまなざし

獄窓81

亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日

獄窓82

谷あひの早瀬流るゝ水の如く砕けて砕く叛逆者かな

獄窓83

叛逆の心は堅くあざみぐさいや繁れかし大和島根に

獄窓84 大審院判決前日の歌1 1926.3.25

色赤き脚絆の紐を引き締めて我後れまじ同志の歩みに

 

獄窓に想ふ

獄窓85

金は有れど要り道は無し思ひつゝ買ふて見たり新らしきペン

獄窓86

我が欲しき紙は無かりき田舎町友を離れし淡きさびしさ

獄窓87

ちくちくと痛む瞳をしかめつゝペンの歩みを追ふもかなしき

獄窓88

縁無しの金蔓眼鏡もあながちに伊達ばかりにはあらざりしかな

獄窓89

誰彼の年を数えて自の子供らしさに気休めを云う

獄窓90

ひそうなる誇りも覚ゆ仲間では一ばん年の若き己を

獄窓91

店あらば一度に年を五ツ六ツ買入れんなど思ふをかしき

獄窓92

我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時

獄窓93

嘗めて来し生の苦杯の終りかななどと思はれてそゞろ笑なれき

獄窓94

斯程までかなしき事はなかりけり××とやら沙汰されし時

獄窓95

何や彼やと独り喋りて?がりしいとそゝかしき看守長もありき

獄窓96

とりどりに的を外れし想像で推し量られし我のさびしさ

獄窓97

これと云ふ望みも無けれ無期囚のひねもす寝ねて今日も送りつ

獄窓98

思ふまゝに振舞ふてあり行きがけに強くもあるか無期囚の身は

獄窓99

今日もまた独り黙しつ寝しあればかうもり飛び交ふ夕暮れの空

獄窓100

独り居る春の日永し監獄に繰り返し読むスチルネルかな

獄窓101

春の夜の空は独りで小雨降る遠き水田に蛙鳴くかも

獄窓102

ふらふらと床を脱け出し金網に頬押しつくれば涙こぼるゝ

獄窓103

六才にして早人生のかなしみを知り覚えにし我がなりしかな

獄窓104

意外にも母が来りて郷里より監獄に在る我を訪ねて

獄窓105

詫び入りつ母は泣きけり我もまた訳も判らぬ涙に咽びき

獄窓106

逢ひたるはたまさかなりき六年目につくづくと見し母の顔かな

獄窓107

他の意など何かはせんと強がりの尚気にかくる我の弱さよ

獄窓108

ヴワニティよ我から去れと求むるは只我あるがまゝの真実

獄窓109

此の町の祭礼ならんけだるくも太鼓は響く春の夜すがら

獄窓110

暗き夜に山吹咲きぬあざやかに獄に我が見る夢の如くに

獄窓111

一夜ならで我が夢永久に覚むるなと希ふて寝る心かなしも

獄窓112

朝来れば此の屍に意識戻り鉄格子見ゆ暗く明るく

獄窓113

雀鳴く?き心の朝あけにふと思はるゝ同志の事ども

獄窓114

訣るゝがいと辛かりきいや増しに同志恋ふ思ひが胸に募りて

獄窓115

何がなと話し続けの共に居る時延ばさんと我は焦りき

獄窓116

唯一人女性にてある此の我は四年前から監獄に在り

獄窓117

笑ふこといとまれなりき又しても思ひ出さるゝBの面影

獄窓118

我十九彼二十一ふたりとも同棲せしぞ早熟なりしかな

獄窓119

家を出て彼を迎えに夜更けたる街を行きたる事もありけり

獄窓120

余りにも高ぶりしかな同志にすら誤られたるニヒリストB

獄窓121

敵も味方も笑はゞ笑へ××××我悦びて愛に殉ぜん

 

「補遺」 黒色戦線社版『獄窓に想ふ』

補遺1

今宵また鉄窓に見る満月の何故かは知らぬ色赤ふして

補遺2

彼もなせしか我にもありき彼の部屋に彼の友とせし大人びし真似

補遺3

人力車梶棒握る老車夫の喘ぎも嶮し夏の坂道

補遺4

人力車幌の中には若者がふんぞり返って新聞を読む

補遺5

資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな

補遺6 =手紙5

補遺7

秋たけし獄舎はかなし夜ごと夜ごと鈴虫の音の細ぼそり行く

補遺8

語れかし我にも情けあるものを汝が胸のかなしきひめごと

補遺9

クロバアをレターに封じ友に送るたはぶれのごと真剣のごと

補遺10

たはむれかはた真剣か心に問へど心答へずにっとほほ笑む

補遺11

まじまじと「人」をみつめて憎しみに胸燃やしつつむせび泣く我

補遺12 =手紙14

補遺13

踏みすくみ我は坂道を登り行く足下暗し理智の月影

補遺14

黙々と悩み多げに獄衣きて唖の女囚は働きてあり

補遺15 =手紙20

補遺16

雪降ればどぶも芥も蔽はれて白き仮面は嘲りげに笑ふ

補遺17

霊と肉の二つの心のいさかひを持つこと悲し今の我が身は

補遺18

ペン買はんいやそれは済まんなどと又しても二つの心つかふ苦しさ

補遺19

笛喇叭豆腐屋の鈴にレールの軋り獄に想ふ娑婆の雑音

補遺20

内容はとにも角にも門札は「刑務所」と書く今の監獄

補遺21

彼なりき彼の木賃宿の片隅に国家を論ぜしSにてありき

補遺22

Aと言えばBととらるる此の頃よ胸もて知りぬ理解されぬ悩み

補遺23

彼の友が薬売らんと言ひ出でしを反対せしは我なりしかな

補遺24

同志てふ言葉を他処に権力の腕に抱かれ友は逝きけり

補遺25 =手紙18

補遺26 =手紙22

補遺27

「ふみちゃん」と友は呼ばはり鉄格子窓に我も答へぬ獄則を無視して

補遺28

この獄に友十八名も居ると言ふ便りを読みし或日の夕暮

補遺29 =手紙8

補遺30

文見れば又もや人は越してありぬ風の吹くままさすらひの子よ

補遺31

ダイナマイト投ぐる真剣さもち床の上に彼はぶちまけぬ冷えし紅茶を

補遺32

飲み余せし湯を投げつるにや身構ひしあはれ陰謀に破れし男女

補遺33

塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ

補遺34

手足まで不自由なりとも死ぬといふ只意志あらば死は自由なり

補遺35

さりながら手足からげて尚死なばそは「俺達の過失ではない」

補遺36

殺しつつなほ責任をのがれんともがく姿ぞ惨めなるかな

補遺37

囚の飯は地べたに置かせつつ御自身マスクをかける獄の医者さん

補遺38

皮手錠はた暗室に飯の虫只の一つも嘘は書かねど

補遺39

在ることを只在るがままに書きぬるをグズグズぬかす獄の役人

補遺40

言はぬのがそんなにお気に召さぬならなぜに事実を消し去らざるや

補遺41

狂人を縄でからげて病室にぶち込むことを保護と言ふなり

 

 

手紙六月1

地球をばしかと抱きしめ我泣かん高きにいます天帝の前

手紙六月2

ころころと蹴りつ蹴られつ地球をば揚子の水に沈めたく思ふ

手紙六月3

水煙揚げて地球の沈みなば我ほゝえまんしぶきの蔭に
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by pugan | 2011-06-15 17:43
金子文子訊問調書 部分

調書(大正十二年十月二十五日東京地方裁判所)   金子 文子

(元本 冒頭略)

一問 氏名、年齢、族称、職業、住所、本籍及出生地は如何。

答 氏名は金子文子。年齢は戸籍面では二十二歳でありますが本当は二十歳であります。族称は平民。職業は人参行商。

朴烈の妻か。

入籍して居るか。

何時朴と一緒に為ったか。

昨年五月中より朴と同棲して居ります。

虚無主義です。

不逞社に加入して居るか。

本年四月中私と朴とが相談して不逞社を組織しました。

不逞社の仲間は誰か。

第二回被告人訊問調書(大正十三年一月十七日東京地方裁判所)

虚無主義の思想

家族関係「私には其の様に両親もあり弟妹もあり乍ら、私は両親か捨てられ姉弟離散して仕舞って家庭の味を知りませぬ。無籍者で生れたと云ふので社会制度の欠陥あり、私は社会から圧迫を受けました。私は親の愛を疑ひ社会を呪はずに居られませぬ」

「幼い頭の私に今でも其の様に其印象が明に残って居る程父は酷しく母を虐めた上私等親子三人を捨てて仕舞ひました。私は父の愛を疑はずには居られませぬ」

家庭環境、母親の同棲相手から虐待、「無籍者であると云うので、学齢に達しても小学校に入学する事が出来ませぬでした。」校長に嘆願

父親、伯母(文子の母親の妹)と同棲

「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」

九歳の秋に朝鮮に送られる、

「朝鮮でも私は非常に無理解な待遇を受けました」

12行だけの記述

6歳の春母の郷里山梨に返される

父親の対応、実の叔父と結婚させようとした

大正九年四月私の十七歳の時に上京

苦学を始めた、大叔父窪田方、新聞売捌き店、昼間、正則英語学校

本郷区湯島に間借り、粉石鹸の夜店、浅草区聖天町、砂糖屋に女中奉公

本郷区追分町社会主義者堀清俊方に同居、印刷屋の活字拾いをして苦闘

「其の間私は母の郷里にも父方にも一二度出入りしましたが、当時私が堺利彦氏の著書や社会主義の雑誌を読んで居りましたので、父母は夫れを見て漸時私が社会主義的傾向を持つ事を怖れて居る模様でありました。大正十一年三月頃私は無資産にして無名の一鮮人朴烈と相知り、同人と同棲仕様と決心しましたので、私は父に対しては口上で母に対しては手紙で其の旨を宣言しました。父は面と向かって賛意を表しませぬでしたが、同年五月私が朴烈と同棲してから父から私に宛て、苟くも太政大臣藤原房前卿の第百何十代やらの後裔を生んだ私が卑しい鮮人と同棲すると云ふ事は光輝ある佐伯家の家系を汚す者である、今日限り勘当するから親ありと思うなと云う旨の手紙が来ました。私は捨てられた父から勘当を受けたのであります。」

父親の愛の移動

「父の心の空虚を補ふ間のみ所謂子供に対する愛が動いたのでありました。」

「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」

父親の元栄への批判の勝手

父親への批判、母親への批判、

「強者への屈従の約束が所謂道徳であります。」

「此の道徳が各時代を支配し各社会を構成して居ります。左様して支配者は何時も此の道徳をより長く保つ事を第一義的条件として居ります。」

「従って私は父を母を恨みませぬ。」

「此の呪を何処に持って行くか、自然を呪ひ生物を呪って私は総ての物を破壊して自分は死なうと思ひます。私が親族的関係を中心として虚無的思想を抱く様に為った一端は今迄申し上げた通りであります。」

  第3回1924年1月22日

一問 虚無的主義を抱く様に為ったと云う次第は什うか。

「社会制度の欠缺(けん、こん)による侮辱の総てでありました。

社会制度の欠缺は私が無籍であったと云う事に依って私が社会から受けた待遇が一端として十二分に証明して居ります。前回申上げました通り私は幼児無籍でありました。つまり私は日本の土地の御厄介に成り乍ら日本の人間でも無く何処の国の人間でも無く私の籍は天国に在ったが為め、私は日本の人間で無いのに拘らず、日本の制度から精神的にも堪え得られない虐待を受けました。」

無籍と法律

東京での生活、上野三橋に立って毎晩夕刊を売りましたが、

三箇の思想団体、仏教済世軍、キリスト救世軍の一団、血を吐く様な悲鳴を挙げる長髪の社会主義者の一団であり…

堀清俊方の話、九津見房子への幻滅

二問 それでは被告の所謂虚無主義とはどう云ふ思想か。

三問 日本の国家社会制度に対する被告の考え方

第一階級は皇族であり

第二は大臣、其の他政治の実権者であり、

第三階級は一般民衆であります。

第一階級たる皇族を丁度 摂政宮殿下は何時何分に御出門と云う様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思います。

「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年11月6日の欄に私は次の様な事を書きました。

<人間の命なんて権力の前には手毬の様に他愛なく扱われて居る。御役人方遂々私を監獄に投り込みましたね。だがね悪い事は言いませぬよ。今度の事件を具体化した様な未然に防ごうと御思召なら此の際です私を殺して仕舞はなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても再び私を社会に出したなら、必ず必ず遣り直して御目に懸けますよ。貴方方の御手を煩わす世話の無い様に先ず私の此の身体を亡して御目に懸けますよ。まあまあ私の此の身体を何処へなりと持っていらっしゃい。断頭台へでも八王子へでも。どうせ一度は死ぬ身体です。勝手に為さるがいい 君等が私を左様する事は飽く迄も自分に生きたと云う事を証明して呉れる丈けです。私はそれで満足します。>」

「御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しましょう。<私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽くまで自分の裡に終始します。それが御気に召さなかったら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです>

四問 其の思想を抱いてから朴烈と知ったのか

答 左様であります。私は朴を知って後互に思想を語り合って共鳴したので、同人と運動を共にするが為め同棲する様に為ったのであります。」

第4回被告人訊問調書               1924年1月23日

「大正11年2月頃朴烈を知り、其後同年4月末頃東京府荏原郡世田谷池尻412番地相川下駄店の二階を間借りして朴と同棲を初め、大正12年3月頃私等は同府豊多摩郡代幡町代々木富ヶ谷1474番地に移転して居住中検挙されたのであります」

<朴と知り合った状況>校正刷り「青年朝鮮」朴烈の詩「犬コロ」力強い叛逆気分が漲って居る事を感じて、初めて朴烈と云う人の名を知り、其の印象を受けました処程無くして鄭方にて朴に会い、交際するようになった。

<朴との結婚の経緯>

「主義に於ても性に於ても同志であり協力者として一緒に為ったのであります。」

<朴の思想>

「私は大正8年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」

第5回訊問調書1923年1月24日

一問 「被告は朴と同棲の前後主義上の会を組織し、又は雑誌を発行した事等があるか。」

「左様であります。私が朴と知り合った以前大正十年秋頃とか朴は元鐘麟、徐相一、申焔波等各種の鮮人主義者を糾合して≪黒濤会≫と云ふ名称の思想研究会を組織し『黒濤』と題する機関雑誌を発行して居りました。此の会は私が朴と一緒に為ってから後も尚継続して居りましたから、私も此れに加入しましたが、大正十一年九月頃共産主義者派の会員と無政府主義派の会員との思想上の衝突から分裂して、無政府主義側は≪黒友会≫を、共産主義側は≪北星会≫を組織しました。」

<黒濤会が組織されていた、分裂、黒友会の設立、『民衆運動』朝鮮文で発行>

<大正11年11月頃『太い鮮人』発行、不逞鮮人は許可されず>

「……無政府主義者として会員は会員の自由意志を羈束する様な事をしませぬ。此の主義を理解し共鳴する会員の有志は主義として権力に反抗し之を破壊せんとするものでありますから、其の有志の間には直接行動を執る事を相談した事もありました」

第6回訊問調書1924年1月25日

問「朴烈は金重漢に対して爆弾の入手を頼んだ事があるか」

答「あります。私と朴の思想や意図する処は前回以来申し上げました通りであります。私も岩崎おでん屋に居た頃帝国議会に爆弾を投げ込んで有象無象を殺してやろうと考えて、岩崎おでん屋に来る政治ごろに帝国議会の内部の模様を色々詳しく聞いた事もありました。朴も私と同棲する以前から其の様な事を計画して居たそうであります。私と朴とは同棲するに際して互いに以前の秘密を告白し合いました。それ故私と朴との間に秘密はありませぬ。………私と朴とは同棲する以前日比谷公園や神保町の支那料理屋に会合して。左様した復讐の<シーン>(光景)を語り合った事も居りました。それ程ですから私と朴とはそこに共鳴して同棲することを決意し、同棲後始終その様な計画の相談をして居りました。大正12年1月頃私と朴と相談の上朴は金に上海から爆弾を手に入れて来てくれる様に頼んだのでありました。………」

「私と朴との同棲の第一条件が其処にありましたから、私等は始終其の相談をして居りました。」

「………有栖川だと記憶しますが……半病人だと云う事が書いて在るのを見て、朴は半死の奴なんか後ろから突いても突き甲斐が無い、面白くないから突き甲斐のある奴にしたいと云いました」

「それで私は一人ばかりではつまらぬ、もっと一緒くたにせねばつまらぬと云った事もありました」

<爆弾入手の経緯><暗号の手紙><桃色の日本封書><爆弾入手依頼を船員にした>

第7回訊問調書1924年1月25日 

[爆弾入手問題をめぐる新山初代、金重漢との経緯]

[新山、金子の微妙な関係]

<爆弾入手の次第><昨年1月中、金重漢を紹介される><黒濤会の李康夏から>

「昨年四月二十六日に金が其の入学して居た学校を退学して上京したと申して私方を訪ねて参りました」

<同年5月頃金に爆弾を上海から同年秋迄に入手依頼><発覚の恐れがあることを懸念>「先達日記の内容を申し上げました通り、朴でも私でも今に爆弾を入手し使用する事の考えを思い止まって居りませぬが、金は真実朴が其の意思を無くしてそれを依頼し愚奔したものと誤解して、不逞社の第四回例会の際朴に喧嘩を吹っ掛けて来たのであります。」

<大正10年冬頃新山初代との面識>

<昨年5頃再び新山と往復する、不逞社への加入>

「昨年6月頃金と新山とが『自擅』と題する雑誌の発行を企て……又、新山が朴に対して思想上行詰まって死なうと思って居ると云った時朴は新山にどうせ死ぬなら自分は今年の秋死なうと思って居るからもっと有意義に死んではどうかと申した………」

「私は政策上私と朴とが爆弾を手に入れる様計画して居る事を新山に秘し、朴一人が夫れを計画して居て私は夫れに関係して居らぬ振りをする為め左様か夫れなら朴が新山の心を引いて見たに過ぎない、朴を理解して呉れたなら朴が其の様な男で無い事が判ると云ふ意味の事を答へて置きました。」

<朴と金との喧嘩>

<(朴は)新山への私達の計画を言わぬ方がよいと……>

三問 上海の何処から爆弾を手に入れて来るのか。

答 其の事は私は知りませぬ。

第8回訊問調書1924年1月29日

<身体の事>

第9回訊問調書1924年3月19日

<爆発物取締罰則違反、追起訴>

<大正13年2月15日、爆発物取締罰則違反被告事件の追予審請求書中起訴事実を読聞けたり>

<金某李某との爆弾入手関係>

「…一層の事爆弾の事を自分が認めて置いて警視庁の連中の注意を自分に向けさせ、新山に向ける鉾を外せ様と決心して爆弾の事を是認し、其の関係丈けをお係り様に申上げて仕舞ったのであります」

「齟齬を来たして仕舞ひました」

「暗号の手紙の相手方は義烈団の金翰と云う人であり、其の手紙を取次で呉れた者は李小紅と云う官妓であったのであります」<昨年4,5月頃朝鮮の官憲に補縛されて、金翰は服役中><補縛されたので私等の計画が頓挫したのであります><李小紅は京城茶屋町の百八番地に住んで官妓をして居ります><義烈団との関係>

第10回2月31日

<金翰との折衝の次第>

「朴は無口の上に細かい事に頓着せぬ人でありますから、つまらぬ余計な事を私に喋らぬ風でありました。…

二問 暗号書の内容

「爆弾の事には触れて居なかった筈だと記憶します。」
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by pugan | 2011-06-14 17:49
第11回訊問調書1924年4月10日

<朴と金翰との爆弾の事>

一問 最初から知って居たか。

答 「九月中朴が京城に行って帰って来てから…会見した事を聞きました。

「其の時の会見は朴と金翰との間に夫れ程進んだ爆弾の事に就ての交渉は無かったであろうと思ひます。私は其の会見の詳しい模様を聞いて居りませぬ」

「朴が同年十一月中再び京城に行ったのは主として金翰と爆弾の事を交渉するが為めでありました」

三問 被告は崔?鎮を知って居るか。

答 知りませぬ。

四問 朴は爆弾の事を相談したと申して居るがどうか。

答 左様でありますか。私は只今初めて其の事を聞きました。…私と朴とが一緒に為る以前の事でありますから、私が知らぬ筈であります。

第12回訊問調書5月14日

一問「被告が朴と相談の上金重漢に対して爆弾入手の事を頼んだのは皇太子殿下の御結婚期にそれを使用する考からであったとの前回の申立ては相違無いか」答「左様です」

二問「被告等が金翰に対して爆弾の事を頼んだのも矢張り殿下の御結婚期を期して居たのでは無いか。」

答「私は朴が金翰と連絡を執る為めに京城に行った頃には其の近い将来に坊ちゃんの御結婚式が挙げられると云ふ事を知りて居りました。

其の当時坊ちゃんの結婚式の時日は確り極って居なかったと記憶します。兎に角其の近い将来に結婚式の行列の実現される事が予想されて居りました。夫れ故私は其の最も好い機会の行列に迄に爆弾を間に合はせる為めに朴が京城に行ったのであったと記憶して居ります。

三問 「朴が京城に出発するに際して被告は朴との間に御結婚式迄に間に合はせる事を協議したか。 

答「私は朴と御成婚御式の際には坊ちゃんに爆弾を献上仕様と云う事で始終話合って居りました。夫れが朴の京城に出発する以前の事であったか只今確と記憶して居りませぬ。兎に角私は朴が京城に出発する頃から御結婚式に爆弾を使用する事が一番好いと思って居りましたので、朴も金翰に対しては夫れ迄に爆弾を間に合はして呉れる様にと云った筈だと思って居ります。」

四問「朴は京城から帰って後被告に対して金翰との間に御式迄に爆弾を間に合はす様に協議して来たと告げたか」

答「私は朴から其の様な話があったとは聞いて居りませぬ。朴は京城から帰って来てから私に愈々金翰から爆弾を分けて貰ふ様にして来たと申した丈けでありました」

五問「御式迄に爆弾を使用する事を協議したか」

答「記憶が残って居りませぬ」

六問「金重漢との関係

七問「誰に投げる

答 「つまり坊ちゃん一匹をヤツ付ければ好いのであります。」

「天皇は病人ですから…」

八問「誰が投げる」

答「無論私も朴もそれを投げる筈でありましたが、其の外同志の新山や崔圭しゅう、山本勝之にもそれを頼む心算でありました。……私と朴とは此の三人を使って私等が爆弾を投げると同時に議会や三越、警視庁、宮城等に手を分けて爆弾を投げて貰う心算でありました。……」

九問「皇太子殿下に爆弾を投げる事を唯一の目的として居たのか」

答「坊ちゃん一人に爆弾を投げれば好いのでありますが、……メーデー祭の時とか議会の開会式の様な時に其の爆弾を投げ様として考へて居りました。」

五行未入力」

一〇問「朴も被告と同じ様に主として殿下に爆弾を投げる心算で居たのか。」

答「左様であります」

一一問「被告は何故 皇太子殿下に其の様な危害を加へ様としたのか」

<人間の平等をめぐり意見を展開>

問「皇太子になぜ危害を加えようとしたか」

答「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。人間は人間として平等であらねば為りませぬ。其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば総べての人間は完全に平等であり、従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある又為されるであろう処の行動の総べては、完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

従て自然的存在たる基礎の上に立つ之れ等の地上に於ける人間に依って為されたる行動の悉くは、人間であると云ふ只一つの資格に依って一様に平等に人間的行動として承認さるべき筈のものであると思ひます。然し此の自然的な行為此の自然の存在自体が如何に人為的な法律の名の下に拒否され左右されつつあるか、本来平等であるべき人間が現実社会に在っては如何に其の位置が不平等であるか、私は此の不平等を呪ふのであります。

私は遂二三年前迄は所謂第一階級の高貴の人々を所謂平民とは何処かに違った形と質とを備へて居る特殊の人間の様に考へて居りました。処が新聞で

写真等を見ても所謂高貴の御方は少しも平民と変らせられぬ。御目が二つあって御口が一つあって歩く役目をする足でも動く手でも少しも不足する処は無いらしい。いや其の様なものの不足する畸型児は左様した階級には絶対に無い事と考えて居ました。此の心持つまり皇室階級とし聞けば、其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて居るのでありましょう。語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。

 元々国家とか社会とか民族とか又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に現在行われて居る処の神授君権説であります。苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に一般民衆を欺瞞して居る。

 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が此の神様の保護の下歴代の神様たる天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに明白に証明して居るではありませぬか。全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに死んで行くではありませぬか。此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。御役人さん左様でしょう。……寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。

天皇の現に呼吸して居る傍で多くの人間が焼死したと云ふ昨年の惨事は、即ち天皇が実は愚な肉塊に過ぎ無い事を証明すると同時に過去に於ける民衆の愚な御目出度さを嘲笑して居るものであります。

学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を擁護するものであるか否かの一事を標準として総ての是非を振り分けられて居る。そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官はサーベルを下げて人間の行動を威嚇し、権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。

嘗て基督教が全盛であった時代には其の尊厳を保つ為に、其の説く処の神の迷信的な奇蹟や因襲的な伝説の礎の揺がざる事を虞れて科学的な研究を禁止したと同様に国家の尊厳とか 天皇の神聖とかが一場の夢であり単なる錯覚に過ぎない事を明にする思想や言論に対しては力を以て之を圧迫する。斯くして自然の存在たる総ての人間の享受すべき地上の本来の生活は能く権力へ奉仕する使命を完ふし得るものに対してのみ許されて居るのでありますから、地上は今や権力と云ふ悪魔に独占され蹂躙されて居るのであります。左様して地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表者は天皇であり皇太子であります。私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから出発して居るのであります。地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって搾取されて居る。其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を現に搾取されつつある一般民衆に明にし、又それに依って天皇に神格を附与して居る諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る為めの方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、そうして従来日本の人間の生きた信条として居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって地上に生を断とうと考えて居りました。私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し光明を持たせたものに過ぎないのであって、取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、私自身を対象とするそうした考えが即ち今度の計画の根底であります。私自身を対象とする考え、私の所謂虚無思想に就いては既に前回詳しく申し上げて置きました。私の計画を突き詰めて考えて観れば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上に於ける権力の倒壊が窮極の目的でありました。私が坊ちゃんを狙ったのはそうした理由であります。」

一二問 「身体の都合は什うか。」

答 「身体の都合ですか。夫れはとっく前に済みました。

一三問「被告は改心しては什うか。」

答 「私は改悛せねば為らぬ様な事は断じてして居りませぬ。成る程私の思想や行動計画は他人の迷惑と為るから悪だとも云へませうが、然し之れと同時に夫れは私自身を利するものであります。自分の利の為めに計る事は決して悪では無く却って夫れは人間の本性であり生きる事の条件であります。若し自分の為めに計る事が悪であるとするなら、其の責任は人間自体にあり<生きる事>にあります。私に取っては自分を利する事は即ち善であると同時に自分を不利にする事は即ち悪であります。

然し私は善なりと信ずるが故に計画を行って来たのではありませぬ。為たいから為て来たに過ぎないのであります。他人が悪なりとして如何様に非難しようとも自分の道を枉げ得ないと同様に、御役人が善なりとして如何様に私を煽てて下さいましても、自分が為たく無ければ致しません。」

「私は今後も為たい事をして行きます。其の為たい事が何であるかを今から予定する事は出来ませぬが、兎に角私の生命が地上に在らん限りは<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」

第13回訊問調書1924年5月21日市ヶ谷刑務所

「坊ちゃん一匹をやっ付ければ好いと申し上げた点を 皇太子一人を殺すれば好いのであると申し上げて用語を訂正したいと思います……」

訊問、十ヶ月の「放置」
第14回訊問調書1925年3月5日

<金翰が義烈団ではないかという問い>

第15回訊問調書1925年5月4日

<自由に話した><大審院管轄事件として取扱う>

第16回訊問調書1925年5月5日

「……反省する訳には行かぬか。」「……到底反省の余地はありませぬ。」「……弁護士一切を御断りします。」

第17回訊問調書1925年5月9日市ヶ谷刑務所

「被告は目下の生活方法を全く変換して自然化学の研究方面にでも没頭する訳に行かぬか。」

「若し私に生を肯定することが出来る様になれば、或は御訊ねの様に自然化学の研究にでも入ることが一番私の気持ちに近い生き方でしょう。」

第18回訊問調書1925年5月9日市ヶ谷刑務所

<此程度で終わる、弁解することがあるか、23人の証言要旨、供述要旨、聴取書を告げる>

立松判事宛手紙

「……調書未だ云い足りない点が有りました。……尚其の節は私の『財産』をも御持ち下さる事。私宛の書信は、速くお廻し下さい。私出しの書信も速くお出し下さい。……市ヶ谷監獄独房で 金子婦人美」

第19回訊問調書1925年5月21日市ヶ谷刑務所、予審判事立松懐清

<……金重漢の申立ては独断がある、真意を明らかにしておきたい、上申書を出した>

「金さんが叛逆者としての信用を増す様に思はるることを話したのは事実です。併し私共は夫れを全的に信じはしなかったのです。さうしたことの上に其人への信用を投げ掛けるには私共は余りにも多く人間の言葉とさうして所謂同志への失望とを体験して居ます。……」

立松判事宛手紙

「今、朝の六時過ぎ。……二三日前差入れられた、或るロシア作家の論文集を開けて見たら、ふと斯う云う文句が目についたのをキッカケに、あなたに説教する。『生きる事を欲する人間に、生きる事を欲しないように説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与える人間に向って、彼には生きる事が極めて不愉快であろうと語る事は誠に滑稽である。と同様に……』云々。で私は、あなたに云います……『生きる事を欲しない人間に、生きる事を欲するようよう説教する事は滑稽である。人生が直接の満足を与えない人間に向って、彼には生きる事が極めて愉快であろうと語る事は誠に誠に滑稽である。』最後に、アルツイバシユフは云った。……判事さんあなたは不徹底で困る。……二十一日朝 金子婦美」

第20回訊問調書1925年5月30日市ヶ谷刑務所、予審判事沼義雄

「……刑法第73条皇室に対する罪に当る様にも思えるので、そういう事であれば事重大であり、管轄も大審院の管轄になる事となるから、当職も此事件に干与し立松予審判事と共助することとなり、今一応被告に対して確かめるのであるが、之迄………」「……皇太子殿下を亡きものにし様と計画したのであったか。」「左様です。」問「被告は朴と相談の上爆弾投擲を企てたに関わらず朴は主として天皇陛下と皇太子殿下を爆弾投擲の対象とし、被告は主として皇太子殿下を其対象とし二人の間に相違あるのはどういうわけか。」

答「比較的可能性の多いと思われた皇太子を第一対象として計画を進めた迄の事であって……」

左の歌を書いて置いてください。

谷合いの早瀬流るる水のごと砕けて砕く叛逆者哉

叛逆の心は堅し薊草いや繁れかし大和島根に

第23回訊問調書1925年6月6日東京地方裁判所、予審判事立松懐清

<21回22回は掲載されていない>

「……殿下に危害を加うることは計画して居たことは間違い無いか。」

「そうです」

「被告は殿下の結婚式が大正12年の秋頃挙行去るることをどうして知って居たか。」

「…新聞記事を通してあった様に記憶します。」

問「皇太子殿下の御結婚を期し殿下に危害を加えることは計画していたことは違いないか」

答「そうです」

問「日本古来の地に生まれたる被告に対しては特に反省して貰いたいがどうか」

答「日本古来の地に生まれたるが故に私の之迄の考えて居たこと、しようとして居たことがより必要であり、より正しいものであることを信じます」

特別主要調書予審終結決定

爆発物取締罰則違反被告事件予審を遂げ終結決定すること左の如し

主文

本件は当裁判所の管轄に属せず

被告人両名に対する勾留状を存す

理由

被告人両名は虚無的思想を抱懐するところ大正拾弐年四月中、治安を妨げ且つ人の身体財産を害する目的を以て爆弾を東京市内に使用せんことを共謀し、金重漢に対し、支那、上海より其輸入を依頼し、其承諾を得たりと云うに在り、仍て之を審按するに…

現状打破の先駆として皇室の倒壊を期するの要ありと信念し居たる折柄、大正拾壱年弐月、此被告人朴準植を識り其意図を同人に告白して投合を得たるの結果、茲に被告人両名は同年五月中、…代々幡町代々木富ヶ谷…屋舎等に同棲して其目的遂行を画策し、終に当時大正拾弐年秋比挙行さる可しと謂える、皇太子殿下の御結婚式の時に於て其行幸便を使宜の街路に擁し、畏くも爆弾を投じて 天皇陛下又は 皇太子殿下に危害を加えんことを共謀し、其用に供する為め

一、朴準植は大正拾壱年拾壱月比京城府に赴き、当時帝国政府に反抗する目的を以て組織せる暴力団体義烈団と連絡して朝鮮に爆弾の輸入を画策せる民族主義者朝鮮人金翰と会見し、其分与方を申入れて其約諾を得

一、大正拾弐年五月比東京市本郷区天神町三点下宿金城館等に於て数次無政府主義者金重漢に対し、支那、上海に赴きて右義烈団等と連絡し同所より爆弾を輸入せんことを依嘱し同人の約諾を得たるも都度齟齬を来し之を入手するに至らずして事発覚し、大逆を実行するに至らざりしものにして其嫌疑十分なりとす。

即ち之を法に照すに、被告人両名が他人に嘱して爆弾輸入のことを共謀したる所為は爆発物取締罰則第四条に該当すと雖も、天皇 皇太子に対し危害を加えんとしたる所為は刑法第七拾参条後段に該当し、裁判所構成法第五拾条第弐に則り大審院の特別権限に属する犯罪なるを以て刑事訴訟法第参百九条に依り管轄違いの言渡を為し、被告人両名に対する勾留状の存置に付き同法第参百拾八条第弐項を適用し主文の如く決定す。大正14年7月7日予審判事立松懐清」

金子文子、予審請求書訊問調書(第1回)1925年7月18日市ヶ谷刑務所、

刑法第73条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件予審掛東京控訴院判事立松懐清……

二問 年齢は。

答 御役人用は二十四年ですが自分は二十二年と記憶して居ます。併し本当のことを云えばどちらのことも信じて居ませぬ。又信ずる必要もありませぬ。年が幾つであろうと私が今私自身の生活を生きて行くことには何の関係もありませぬから。

三問 族称は。 

答 神聖な平民です。

四問 職業は。

答 現に在るものをぶち壊すのが私の職業です。

五問 住居は。

答 東京監獄です。

六問 本籍は。

答 諏訪村 だそうです。

七問 出生地は。

答 横浜市だそうです。

第2回訊問調書8月29日

「……被告の両親は何れも被告が卯年の1月25日に生れ当年23になると申して居るが……」

第3回1925年9月2日、立松懐清

「…爆弾投擲の意思」

第4回1925年9月21日、東京地方裁判所にて、立松懐清

「朴と同棲後の生活方法」<朝鮮人参を売ったり会社ゴロ>「どんな人が被告等に好意を有って補助して呉れて居たか。」「有島武郎辺りです」<生活費>

第5回1925年9月22日立松懐清「反省する余地は有りませぬ。」意見書1925年9月30日公判開始決定1925年10月28日「本件に付公判を開始す。」
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by pugan | 2011-06-13 17:51