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2003年から06年に執筆、データ化した文献のウェブサイト金子文子の生き方をブログにもアップ


by pugan

金子文子と中西伊之助6

不逞社、黒友会の活動

新山初代も含めて何々主義と規定するよりは、彼女彼ら自身の心の揺れ

シュティルナー主義、自我経、個人主義

天皇という存在に対する対極の主義

幸徳秋水事件十二人の処刑から十二年、公言できない

F 事件の構造

大審院判決理由

布施弁護士「最大最悪の不敬罪であって、大逆の犯人とはならない」「大逆事件をでっち上げた」「自白供述に求めただけで他に何ら物的証拠もない」『運命の勝利者朴烈』七五頁。

否定した調書は残されていない。

朴烈が爆弾を入手しようとした→ことごとく失敗→

目的、目標は確定していなかった→曖昧

金重漢、二十三年四月東京に来る、五月朴烈から話を聞く

爆発物取締罰則適用から刑法七十三条へ

朴烈が認めたことに対する金子文子の受容

仲間への波及を避けたい→新山初代の死

治安維持法の成立は二十五年

関東大震災での戒厳令

朝鮮、中国人の虐殺、社会主義者の虐殺

短い活動時期、黒濤社からでも一年半余り

朴烈を中心とした一九四五年以降のクロニクル

一九四五年一〇月二七日 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」

一九四六年一月二〇日 新朝鮮建設同盟結成、朴烈が委員長となる。副委長李康勲、元心昌。一九四六年二月一九日 建青、李奉昌、尹奉告、白正基の三烈士追悼会開催、李康勲、朴烈

一九四六年三月二四日『読売報知』広告「翌二五日、朴烈先生夫人故金子文子女史追悼会」

一九四六年一〇月三日 在日朝鮮居留民団結成。(日比谷公会堂)。団長朴烈、副団長李康勲。宣言書「我々同胞が帰国する日迄一致団結して我々の義務を忠実に遂行し」在留同胞の「民政安定」「教養向上」及び「国際親善」を期す。                

一九四六年『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵 、『新朝鮮建国の指標 独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念年思想を収録した"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection年」梶山コレクション所蔵

一九四六年一二月二五日 『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

一九四七年 張義淑と再婚

一九四七年二月二一日「民団新間」創刊号発行。                  一九四七年五月二三日 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。



一九四七年一〇月一、二日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。

一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社 目次 自序 第一章 思想立国 第一節 世界は一なり 第二節 現実に徹する思想 第三節 共産党を語る 第四節 死に生くること 第二章建国の指標 第一節 独立とは形式ではない 第二節 具体的に建国の立地条件を究めよ 第三節戦線統一への方向 第三章 青年と民族の運命 第一節 立国の支柱としての青年 第二節 操志ある青年 第三節 高き文化の使徒青年 第四章 生活革命運動の展開 第一節 民族的欠陥の反省 第二節 社会を発見せよ 第三節 公式論、原則論を排す 第四節 身を以て再起へ 付録 一 三千万我等とともに罪あり 二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて 三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す 四 前科者、受刑者、現科者 五 祖国愛と国際的観念 六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ 七 われらは先ず道義の昂揚から 八 小児病的左翼陣の暴挙を排す

一九四八年一一月二十日 朴烈『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所

一九四九年四月二日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。   

一九四九年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる

一九五〇年四月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国

一九五〇年六月二五日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況

一九五〇年六月二七日「朴烈行方不明になる」

張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈止連絡がとれたのは二七日の未明。「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、恥ずかしくない行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫(当時八ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(二年四ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。         

一九五六年七月二日 在北平和統一促進協議会常務委員となる、後に会長

一九六〇年一月「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』

一九六〇年一月号掲載 [再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった]

一九六六年六月 「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

一九七五年八月 「春一番」臼井吉見『展望』第二〇〇号掲載[解放後の朴烈と再婚、小説]
by pugan | 2011-05-15 17:04